大槻快尊が逝去間もない時期に発行された月刊誌・方面の記事には生前の師をたたえる記事が掲載されている。
その方面11巻6号18-19頁より、噫々大槻快尊師という記事を抜粋し転載したもの。
快尊の性質、経歴、病状、事蹟について記述されている。
1ページ半に渡って記事が掲載されていることを思えば、児童民生委員の歴史の中でも大槻快尊が重要な人物だったことが想像できる
Windows2000上でファイルを制作いたしましたので、Unicode2.1 文字セットの文字図形に依存しており、当時の文章に使われている文字図形とは若干異なります。
打ち込み作業者の漢字に対する知識不足で似て非なる文字がかかれているばあいもありますが、できるだけ原典に近い状態を維持することを目標にしています。
元記事が縦書きなのでCSS3ドラフト2001-05-17版の縦書きプロパティを設定しました。
体裁の再現性はコーディングや実装状況などの技術的な問題で、必ずしも満足行くデザインになっていませんが、改定を重ねるごとに改善されていくことと思います。
スタイルシートによる縦書きについてはInternet Explorer 5.5 における縦書きレイアウトの使用やIntroduction to CSS3およびCSS3 Text Moduleをご覧ください。
いまのところ搭載とでデザインしたCSSではMozilla FireFox 2.0 では縦書きを正しく再現できないようです。
また Internet Explorer 6 では、縦書きの表示が可能なようですが、CSSのコーディング技術やブラウザ自体の実装状況の問題から十分な結果が得られておりません。
スタイルシート自体をcssよりもxslに以降するべきかもしれませんが、まだ調査等の作業しておりません。
北野山眞福寺寶生院住職、愛知縣方面委員、名古屋少年審判所嘱託少年保護司大槻快尊師は四月末、全日本愛知縣方面委員聯盟地方委員會出席のため微恙を冒して上京着京するや高熱を發し其のまま吉祥寺の自宅に於いて療養中の處急性肺炎より胃潰瘍を併發するし再び起つ能はず、家人の手厚き看病も拘はらず、六月二日午前三時遷化せらる。享年五十七歳
本縣方面委員代表として本年一月小關正道氏を失ひ、今又大槻快尊師を失ふ、轉々感慨深きものあり。
師は明治十三年四月十五日縣下海辺郡甚目寺町に生まれる。
明治三十九年七月東京帝國大學文學科卒業直ちに大學院に入り心理學を専攻す。豐山大學、東京帝大、智山勧學院、京都帝大文學部、智山専門學校に心理學を講じ、大正六年まで十二年間學徒としての生活をなす。
大正九年十二月大須寶生院住職となり、大正十三年七月二十一日愛知懸方面委員を嘱託今日に至るまで社會事業に貢獻する處多し。
生前の功蹟により同宗館長より僧位一級を進めて權大僧正を贈られる。
資性剛直温情に富み、正論を持ちして俗論に迷はず、されど苟も自己の見識を過信せず、常に江湖の意見批判を欣喜して迎へ、而して自己の任しこの向上を得とせり、事一度正當得て決定を見るに至れば水火をも辭せず邁進す寸毫も責任を回避せず
實に師の如きじゃ稀に見る實行家であり、その熱と力は洵に一世を托するに足りる。
弱年にして先住鈴木快秀師の弟子となり仏門に入り長久寺、寶生院等にて修行をなす。
明治三十九年東京帝大、文科卒業、心理學を専攻、大正六年迄、十二年間學徒としての生活をなす。
この間「實験心理學」の如きは有名な著述の一つである。
昭和六年師の懇情により心理學者の生活を打ち切つて再び宗門の生活に入る。大正九年師鈴木快秀和尚の住する寶生院の住職として師の衣鉢をつぐ。翌大正十年見聞を廣むるため印度歐米を巡歴す
大正十三年懸方面委員の第二期の委員として又常務委員として「取り扱いの研究」「區域内への宣傳」「方面内の聯絡協調」ぶ尽力されたるは申すまでもないが、當時の方面委員は「救助」と「資金」との二つについて苦慮せねばならなかった。
翌十四年、部内の委員と協議して月々委員が醵金して之によつて中元竝に歳末を凌ぐの資とすることにせられた。
更に之を拡大して師自ら導師となり毎年一回「カード者」祖先の追悼會を營み「修養法話」をなし、供物の白米其の他を施興する會を昭和六年迄續行さられた。
大正十五年中區方面委員助成會の設立に際しては同僚委員と共に戸別訪問をして大方の助成を求められた、然し結果は香ばしくなかった。實に昭和三年の如きは會費、寄付金の収入は僅少實に百三十五圓に過ぎなかった。
昭和四年會長、渡邊中區長を説いて助成會の募金の方法として案出せられたのが「知恵の袋」による大衆的な同情金の募集であった。
これ実に助成會の資金募集の新機軸であり又中區助成會の発達の礎石であった。同時に又助成會の姉妹團體として中區佛教會が設立せられて助成會の事業を後援し且佛教會は独自の立場に於いて「教化事業」を爲すことになった。全區内の寺院が一丸となって、社會事業の貢献する団体を作ったのも又嚆矢といわねばならぬ
これ又師の努力に依るところ多大であったことは云う迄もない。
「知恵の袋」の募集総額より募集費精霊祭費大法要費など控除して残額實に四千六百六十九圓の巨額を助成會に受け入れることができた。
昭和三年末に二千四百餘圓の資金が年末同情金残額二千九百餘圓を合わせて一躍九千三百餘圓の資金となつたのであった
昭和六年三月中區聯合委員會に於いて「諸病患者び豫後診療所」の必要が叫ばるるや共鳴して實現を期す可く同年四月の豫算會に於いて「事業施設費金三千圓」を計上して區内の適當の地に保養施設を建設することに同士と共に努力せらる。
これが偶々知多郡豐濱町の田中醫師の賛成となり名古屋市共同の問題となり名古屋助成會聯合會保養所として同年十月開設を見、今日の南知多診療所となったのである。餘り知られて居ないことであるが師の努力に俟つこと少なくないものの一つである。
寶生院の建物を社會事業の會議に研究會に常に提供せられたるは衆知の事であるが昭和七年駐在制度の施行を見るや中區第三方面事務所に一棟を喜んで提供せられたるのみならず、設備萬端は申すまでもなく日常一山をあげて便宣を興へられ第三方面事務所を見る實に寶生院の寺務と變りなく遇せられたのであった。
本年三月東京に於ける宗門の事業より退いで名古屋において本務である寶生院の宗務及方面委員を中心とする社會事業に専心すべくその緒につかるるや寶生院の庫裡移轉に伴ふ「第三方面事務所移轉と將來爲すべき附帯事業について」研究を進められて居たのみとならず。右に關聯して寶生院として經營すべき社會事業についても、具體的な問題として考慮せられて居たと灰聞している。
本年一月名古屋市社會部において「乞食」に對する座談會が催され、これが社會事業としての對策樹立の儀が進めらるるや身を投じこの快擧に努力すべく期待せられた居た。
尚名古屋市方面委員聯盟の將來に對して大いに貢献するべく用意されていたのであった。
六月二日師の遷化は熱と力とをもつて生命とした師の將來に俟つ可き幾多の期待を晝餅に歸せしめてしまつた。
哀悼の極みである。
愛知県健康福祉部医療福祉計画課地域福祉グループ 岩瀬様には、方面の著作権に就きまして権利所在不明の旨、2003年5月9日に電子メールで回答いただきました。
質問を受け付けて転送してくださった愛知県企画振興部情報企画課 電子地方政府基盤第一グループの担当者ならびに、回答にかかわった皆様方に、重ねてお礼を申し上げます。
著作権
大槻昌弥 © 2003年
方面という雑誌は愛知県若しくは愛知県の関連団体に著作権があると思われますが、愛知県に問い合わせたところ権利者の所在は不明と回答をいただいております。
また著作権法の特例で団体の著作物における保護期間は50年であると規定があることから、この場で再配布が可能であると判断いたします。
無断転載厳禁。このファイルの著作権は大槻昌弥が所有しています。