2002/3/3プロジェクト猪勉強会
          「労働組合の役割は終わったか」
                            講師:弁護士 内田雅俊氏

私もいろんなところで健保の問題とか具体的な課題で話しをする時があるんですが、今回、この「労働組合の役割はおわったのか」というテーマは、どういう経緯でなったんでしょうか。
実は高橋さんから連絡を頂いたときに、私もこういうテーマで?と思ったのですが、外からあるいは市民運動の立場から労働組合についてどう考えているか、ということを喋って、そこそこ議論ができれば、と思って来ました。

かつては、例えば「戦後の労働運動史」という本があると、それがそのまま社会運動史の本であり、戦後史の本であったわけです。産別の運動が戦後史のなかで大きな位置を占めていた。ところが「連合」の歴史が書かれた時に、それが社会運動史としての役割を果たすか、あるいは現代史の役割を果たすかというと、決してそうではないという具合になってきていると思います。そういった意味では労働組合の役割が低下している、という感じがするわけです。それが何故なのかということが一つのテーマだと思います。それは労働組合の内部の問題だけではなくて、社会の変化ということも当然影響しているわけです。
何と言っても、戦後、産別から民主化同盟(民同)左派の運動があって総評、社会党・総評グループによる反戦平和運動、これがづっと大きな役割を果たしてきたわけです。「鶏からアヒル」にとよく言われます。実は私も「鶏からアヒル」にという意味について何となく分かっているつもりだったんですが、正確なところはつい数年前まで知らなかったんです。産別の民主化運動から総評の結成に至る過程で、GHQの関与があったということは皆さんご承知の通りですが、岩井章さんの一周忌の時に追悼演説のなかで、全港湾の吉岡さんが、、当初はGHQの方針に対して「結構である」という、つまり何でも「ケッコー・ケッコー」ということで鶏と、でそれが「ガーガー」文句を言うようになってアヒルになったということを話されました。実は、その時まで僕は、鶏よりアヒルの方が強いから、鶏からアヒルになったのかなぁと思っていたんです。このことは意外と知られていないですね。
それはともかく、いろいろあったにしても、社会党・総評グループの反戦平和運動がこの間、大きな役割を果たしてきた。王子製紙の闘争からはじまってさまざまな闘争があるわけですが、かつての闘争というのは、それなりに感動的な闘いとしてあったわけです。例えば三井三池の闘いについて言えば、鎌田慧さんの「去るも地獄、残るも地獄」という本を読みますと、何回読んでもいつも涙が出てきて上を見なくてはならないというような場面が出てきますし、有名・無名の様々な人達が闘争を闘ったんだなぁということが実感されるわけです。あるいは国鉄の新潟の闘いでもそうです。本当は、現在でもそういうような闘いがあるはずなんだけれども、なかなか表に出てこない。例えば国鉄の分割民営化の闘争というのは、そういった意味では本当に三井三池の闘いに匹敵するような感動的な闘いであると思うのですが、なかなかそれが外には出てこない。
過去の闘争というのは賃上げ闘争だけではなくて、社会そのものを変えるという闘争であったわけです。例えば反公害闘争における水俣の窒素の第一組合と第二組合の分裂の問題がありましたが、ああいうなかで企業内での労働組合が告発して登場するというのがあった。しかし、最近の企業犯罪や企業の不正に対して労働組合が積極的に取り組んだという話しはなかなか出てこない。労働組合が沈黙してしまっている、こういう感じかするわけです。労働組合は何をしていたんだろうか。そして労働組合の沈黙だけではなくて労組そのものが不正を具体的にしているという流があるんです。

私が弁護士を始めたのは約30年ほど前になるんですが、その頃からすでに労働組合が真正面から資本とぶつかって裁判闘争をやるということはなくなっていたんです。裁判所に労働案件が無いわけではない。労働事件はあるのだけども、そういうのは組合内部の有志や地域の合同労組による「守る会運動」として解雇の撤回闘争が闘われる。労働組合としての支援がなされない。労働裁判の様相が、もう30年も前から変わりつつある、とういうことが指摘されていました。もちろん、労働組合が組織として具体的な課題に取り組むということが、全く無かったわけではないのですが、目に見える形で外に出てこなくなったと感じています。
もう一つ、裁判所はこういった労働事件について、かつてのような救済命令を出すことは非常に少なくなっています。例えば労働委員会の命令を裁判所が簡単に覆すことがある。国鉄の不当労働行為の問題についての東京地裁の判決もそうです。地労委・中労委の決定をイチ東京地裁が覆す。労働委員会制度の破壊というような事態になってしまっている。だから司法の場で労働問題を問うことが難しくなってしまっている。期待されないのです。
また解雇に対して地位保全の仮処分をした場合に、かつては地位の確認までを認めて、その賃金を支払えという決定であったわけですが、ここ数年、東京地裁の例をみていると、地位の確認はしない、ただし一年間、あるいは二年間の期間を区切って賃金を支払えという形です。地位保全までは認めないで、賃金の支払いだけを仮処分で認めるというようなかたちです。だから、その期間を過ぎるとまた仮処分の申請をしなくてはならない。つまり、運動の場においても裁判の場においても非常に労働事件の内容がやりにくくなってきたというのが現状です。

一方労働組合としては、大きな課題に取り組んでいると思いますが、市民運動の側からみるとなかなかそれが見えてこない。一体どうしてこういうことになってしまったのか。これは、社会が変わって労働組合の役割がもう無くなったから、ということになるのですが、これは決してそういうことではなくて、戦後の労働運動の中身が今問われているのではないかという気がします。例えば、戦後の産別の運動、民同の運動などのなかで、歴史認識のない運動があったように思います。今、1980年末から90年代にかけて、日本の戦争責任の問題、戦後補償の問題、こういったものが出てきているわけですが、私自身の体験にそくしていつも思うのですが、1965年の日韓条約の反対運動というものがありました。これは60年安保と70年安保のちょうど真ん中で、60年安保の衰退のなかから、70年安保に運動が高揚していく時期でして、かなり運動としては盛り上がり、労働組合の闘いもあった。当時、日韓条約に反対する運動というのはもっぱら反対の理由が、今、南のパクチョンヒの独裁政権と条約を結ぶことは独裁政治を支えることになる、また南北の分断を固定化することになる、ということでして、日本の植民地支配に対する認識は一切出てこなかった。当時の韓国の反対運動の中には当然植民地支配の問題があったわけです。その前に1950年代のサンフランシスコ条約で留保していた、フィリピンとかインドネシアとかシンガポールとかの国々と日本が戦争賠償を個別に結ぶわけなんですが、フィリピンと結んだ賠償協定について、当時の日本社会党が反対したんです。その理由は、その賠償に日本の民衆がこれだけの金を払っていくことに耐えられないし、今後フィリピンとの貿易において特にメリットはないと、いうことでした。これは本当の話なんです。そういうことの延長線上に、1965年の日韓条約の反対闘争の中での植民地問題の欠落という問題があったわけです。当時は歴史認識の問題を階級史観といいますか、資本と労働という問題に置き換えてしまって、資本と労働の問題の解決、つまり社会主義革命、社会主義政権になれば、そういう問題は全て解決するというようなことで、植民地支配の問題を階級史観のなかに押し込めてしまったという気がするんです。これが、おかしいとわかるまでには、80年代末から90年代の冷戦終焉後におけるアジアからの戦後補償の請求を待たねばならなかったという気がします。
それからもう一つ、護憲運動ですが、何と言っても戦後の反戦平和運動の中核を担ったのは社会党・総評ブロックであり、護憲運動であったわけです。しかし、その護憲運動も、戦争に巻き込まれるという被害者意識での運動で、憲法前文の持つ戦争に対する反省、そしてそこから新しい世界をつくるという、今日語られている前文のイメージが充分に理解されずに、もっぱら9条を守るという観点から運動がなされた。
ではそういう運動が全く無意味であったのかというとそうではなくて、重要な役割を担ってたのだけど、不十分性があったということです。特に沖縄との関係です。ご承知のようにサンフランシスコ講和条約の3条で奄美大島以南を切り捨てて日本が主権を回復するということになる。もともと憲法制定当時から沖縄は切り捨てることを前提としているわけです。つまり当時のアメリカの戦略というのは、米中同盟でソ連にあたる、従って日本(この場合の日本はヤマトのことですが)は軍事的な空白状態にしてもいいと、つまり、沖縄を切り離して半永久的に米軍の基地とするということで、ヤマトの軍事的空白状態を担保できると、そいうことによって憲法9条が生まれてきたんです。つまり、憲法9条の光と影、影の部分としての天皇に対する戦争責任の追及をカットする、そして、沖縄を切り捨て沖縄を半永久的に軍事基地とすると、そしてヤマトを軍事的空白状態にすると、これが9条の制定当時の意図であったわけです。ところが講和条約が結ばれた時点で米中同盟から米日同盟に変わる。ここで沖縄の軍事基地化だけではなくてヤマトの軍事基地化が必要となり、そして、日米安保条約が結ばれる。日米安保は占領軍がそのまま在日米軍と名を借りて占領状態を継続するためにつくられた条約です。この日米安保条約があって初めてサンフランシスコ条約が成立する。そういった意味では、戦争をしない憲法と、戦争をする日米安保が存在する体制ということです。
当時の社会党・総評ブロックによる反戦平和運動というものが、憲法9条の持つ影の部分、つまり沖縄の切り捨て、そして天皇制の維持、そのために9条が存在したということの認識が欠けていた。そして、戦争に巻き込まれない、それを避けるための守り札としての9条というような側面があった。そして、もう一つは9条を単独なものとして捉える、特に今では人権の観点から9条の持つ意味、9条が変わることによって人権がどのように変わるだろうかというような視点がなかったのではないかと思います。
そういう労働運動の流れのなかで冷戦が終焉する。核戦争の危機がなくなってきて、労働組合のなかにもこの国のあり方を考える場合に、護憲ということをあまり重視しないという傾向が出てきているのではないか。一応、護憲とはいっているけどかつての社会党・総評のような危機意識を持って護憲運動を担うというようなことは労働運動になくなっているという気がします。そして、労働組合がこの国のありよう、世界のありようについて積極的に提案していくということにも欠けてきた。かつては少なくともそれはあった。仮にかつてあったものが修正せざるを得ないものであるなら、それはそれで新たなものを創り出してそれを提案していかないと、相対的に社会における労働組合の位置が低下していく。それが結局今、労働運動が社会運動史や現代史に成り得ないというところにきていると思います。
では、「連合」になったからそういった運動がなされなくなったのか、というと必ずしもそうではない。特に戦後補償の問題等について言えば、自治労を中心にしてずいぶんこの問題に取り組んでいる。ところが、それがなかなか市民の側に伝わってこない。あるいは沖縄の問題についてもこれも日教組などが中心となって取り組んでいる。しかしナショナルセンター総体としてそういう問題に取り組んでいるかというと、それが見えてこない。本当は、国労の分割民営化の問題などについてナショナルセンターとして取り組むということになれば、そういう運動が民衆の共感を呼んで連合の位置というものが変わっていくと思います。
そういうことで労働組合の運動が内向きの問題になってきてしまっている。内向きの問題になってしまっているだけではなくて、具体的な個々の労働者の問題についてもなかなか組織として取り上げることが少なくなってきている。また企業の告発主体としても労働組合は登場しえない。こういうことになってしまっているのではないか。ですから、労働者の労働条件の向上を図ると同時に、総体としての労働者・市民の生活の向上・改善、世界全体のことを考えるというようなイメージをもった労働運動が展開されなくて、春闘の時期だけの賃上げがどうだということだけだと、なかなか市民運動として労働運動と連帯することは難しいと思います。もっと分かり易く言えは労働運動は理想を見失っているということです。労働組合が理想を見つけ、それに向けて運動をしていくならば、それは魅力あるものであり、会社内部だけではなく社会からも期待される存在になっていくのではないか、と思います。しかし、実際の運動というと労働組合がなければ市民運動も成立しないと、私は思います。その点では労働組合の役割は決して無くなってはいないと思います。