アメとムチ
「…みくん…火神くん、朝ですよ。起きてください。」
ゆっくりと浮上を始める意識に、黒子の柔らかな声が滑り込んでくる。
それはとても耳に心地良く、微睡みの中、いつまでも聞いていたいと思う。
が、しかし。
「火神くん、起きて、くだ、さい。」
「っぐふぅっ!!!」
声に続き胸に落ちて来た衝撃に息を詰まらせ目を覚ました。咳き込み身体を丸める火神のすぐ側には、何とも重そうな分厚い辞書が転がっている。
「おはようございます、火神くん。」
「オマ…何つー、起こし方…」
どうにか息を整え、ベッドサイドに立つ黒子を見上げれば、黒子は苦しさに目に涙を浮かべる火神とは対称的に、涼やかな笑顔。さっさと起きないからですよ、と、拾い上げた辞書を抱え、埃を払っている。
「もっと違う起こし方ねぇのかよ。」
「例えば?」
「…キスとか。」
「そんな余計な部分まで起こすようなやり方はできませんね。」
恋人同士一緒に暮らしているのだから、もう少し甘い朝があってもいいんじゃないかと思えど、黒子はそんなささやかな願望も容赦なく打ち砕いて。
「今日は試合だって言ってたでしょう? 遅れると先輩に叱られますよ。」
スタスタと部屋を出て行く後ろ姿に、火神はがっくりと肩を落とした。
「あっはっはっはっは!! 黒子っちらしいスねー!」
「笑いごとじゃねぇっつの。」
ストレッチをしながら今朝の遣り取りを話せば、黄瀬は腹を抱えて笑うどころか、目尻に涙まで浮かべて笑い転げる。
全くもって、笑いごとじゃない。あの、広辞苑だか大辞泉だか言う辞書の厚みと重さと言ったら。それを肺の上に喰らう苦しさは、笑って済まされるものではないのだ。まだ痛む気がする肺の辺りを擦りつつ、火神は眉間に皺を寄せる。
「にしても、いつもそんななんスか?」
「いや、いつもはフツウに起こしてくれっけど…」
「じゃあ、今日はまた何で?」
漸く少しだけ笑いを引っ込めた黄瀬の問いに、もごもごと口の中で言葉を転がす。黒子がちょっと…じゃない感じに怒っていた理由には、十分に身に覚えがある。
遠足前の子供かとよく言われるが、試合の前日ともなれば、テンションが上がり過ぎてなかなか寝付けないのは相変わらず。昨夜はその、神経が昂った状態で黒子を抱いた。少し…否、結構、激しかったかもしれない(ついでにしつこかったかもしれない)。
恐らく、否、多分…きっと、黒子はその所為で怒っているのだ。
「自業自得じゃないっスか。」
当然のことながら、向けられるのは呆れた溜息。反論できるはずもなく、火神はぐう、と喉を鳴らす。
それでも、黒子っちも大変スねぇ、と、大仰に肩を竦め首を振られれば腹も立つ訳で。
「それじゃあ今日は、黒子っち観に来ないっスかねぇ。いいとこ見せたかったのに。」
「先輩、こいつまた浮気しようとしてるスよ。」
「なっ、ちょっ…! 八つ当たりっスか?! つーか、またって何スか人聞きの悪い!」
「つーか、くだらねぇこといつまでも喋くってねーで、アップしろバカ共!」
「オレは先輩一筋っスよ〜!」
「アップしろっつってんだろっ!!」
通りかかった笠松に有りもしないことを告げ、笠松に追い縋っては蹴られる黄瀬に、火神は少しだけ溜飲を下げた。
「お疲れさまでした。」
「…来てたのか。」
「来ちゃいけませんでしたか?」
「いやっ! んなことねぇ!」
試合を終えて外に出ると、黒子が立っていた。来てはいけなかったかと淡々と話す黒子に慌てて首を横に振り、それからガリガリと頭を掻く。
「その…悪かった。」
「…何で怒ってたか解ってるんですか?」
「…昨夜、無茶したから…」
頭が上がらないとはこういうことを言うのか。黄瀬が指を差して笑っているのが視界の端に映る。
「今日は大変だったんですよ? 腰は痛いし、全身がダルイし。」
「わり…」
「ここまで来るのも凄く億劫だったんですけどね。」
「ごめ…」
親に叱られる子供のようにしおしおと項垂れていたが、不意にくすりと笑う声が漏れて。
「もういいです。ちゃんと反省してるみたいですし、試合観ちゃいましたからね。」
「?」
「かっこよかったですよ。」
頬に軽いキスを受け、微笑む黒子を火神はぎゅうと抱き締めた。