ホーム日本縦断登山エスニック雑貨屋旅の哲学本棚伝言版

                   CONTENTS なぜ登ったのか、旅の目的
        登山トップへ 激闘!北アルプス編 怒涛の乗鞍・御嶽・央ア編 勝手に生きろ!南アルプス編
                   旅の理由 地図とルート 食糧と装備 ポンポコ・ムンクの自己紹介


   ポンポコ浦澤が出発前に立てた目標は、以下の通り

 なぜ登るのか? ポンポコ浦澤4つの誓い
 1 日本海から太平洋まで、
すべて徒歩で歩き通す
 2 北アルプス、乗鞍、御嶽、南アルプス、及び富士山を踏破し
国内3000m峰全21座を完登
 3 
目標体重68kg、1ヶ月半約45日の登山で12kg以上を減量、ジーンズの似合う男に復帰
 4 山登りを徹底して楽しむ。「冒険」でも「修行」でもない
「快楽」としての登山を追求

   しかし旅を終えて、あらためて考えてみると、起業のこと、過去の旅のこと、結婚のこと
   そんなこんなが
   もっといろいろと複雑に絡み合っていたようにも思う。
   そんな自分の内面をできるだけ正直に書いたのが以下の文章
   あわせてこれは今回の山旅のハイライト版にもなっています。
   原稿用紙20枚くらいの分量です。まずはチョロっと、このあたりから読んでもらえると有り難いッス。
   

   CONTENTS ポンポコ山旅・ハイライト版

  三十四才、会社を辞めた。自分で商売を始めるつもりだった。でもその前に、なぜか山
に登りたくなった。それも徹底的に、もう満腹ですってくらい……

<Don’t think.Feel!>(東京・発端)

  日本の3千メートル峰は、北アと南ア、乗鞍、御嶽、富士に21座しかない。それをズ
ラリと並べると、日本海から太平洋まで、アルプスを一気に縦走する豪快なルートが見え
てくる−−−。確かにそのことには、もう数年前から気づいていた。「そんな山旅をした
ら、まあ楽しいかもな」とも思っていた。でもまさか、それを本当にやることになるとは、
思ってもみなかった。
  そもそも俺は、別に根っからの岳人というわけではない。もちろん山は好きだし、その
良さもまあ知ってはいるつもりだ。でも同時に、海も好きだし酒も好き。さらに生憎く女
も好きだ。そして御存知の通り、若く活きのいい女から山はほぼ完璧に見捨てられている。
そんなわけで、ここ数年はもっぱらサーフィンにばかり肩入れしていた。週末は夜行バス
で海へ、長い休みは南国のビーチへ、てな具合だった。
 ところがである。会社を辞めると決めた時、なぜか思い浮かんだのは海ではなく山のこ
とだった。「よーし、こうなりゃ夏はサーフィン三昧!」ではなく「よーしドカンと山に
登るか!」だったのである。それも文字通り“ドカン”と登りたかった。二泊三日や一週
間なんてのではなく、もっともっと、激しく、深く、徹底的に……。
  理由は分からない。謎だ。だがそういう内なる声には「素直に従おう」というのが俺の
人生の方針だ。とにかくその日、俺はアパートに帰るとさっそくこう切り出した。
「俺さあ、前から言ってたけど、やっぱ会社辞めて自分で商売始めっから。あとそれから、
その前に日本縦断の山登りすっからさ、二ヵ月くらい」
 普通の女なら、ここで間違いなく激怒だろう。あるいは黙って他の男を捜すか。だが偉
大なる我がパートナーは、そんな半熟な女ではない。「えぇー、二ヵ月もー」と口をへし
曲げつつ、目の片隅にはもう「なんか面白そうだな」という表情を浮かべている。女の器
が違うのである。
 そんな愛しくも頼もしいパートナーに、俺は自分なりの計画を説明した。目標は四つ。
  ・日本海から太平洋まで、乗り物は一切使わず、すべて徒歩で縦断する。
  ・縦断の過程で日本の三千メートル峰・全二十一座を完登する。
  ・日々の山登りで最低でも十二キロ以上を減量、ジーンズの似合う男に復帰する。
  ・登山を徹底して楽しむ。冒険でも鍛練でもない快楽としての登山を追求する。
 ・については少し説明がいるだろう。出発前、恥ずかしながら俺の体重はオーバー八〇
キロ。学生時代、フェザー級(五七キロ以下)のボクサーだったことが自分でも何かの奇
跡に思えるほど、ダブダブの肉の鎧をまとっていたのだ。そのダブ肉に喝を入れ、減量に
は最適の「高所エアロビクス運動」で、一気呵成にスリムな自分に戻ろうというのが、も
しかしたら今回の山旅の最大のテーマだったのかもしれない。
 これはまったくの後付けの理屈なのだが、俺はどうも「自分の人としての輪郭を、あら
ためてハッキリ・クッキリさせたかった」らしいのである。十数キロの減量で、カラダの
輪郭(骨格)を浮き上がらせると同時に、その中身の方もである。自分はどんな人間なの
か。何が好みで、好みでないのか。男の器は、限界は、強みは、弱みは…。もちろん頭で
は分かっている。理解しているつもりだ。だが頭では、理解では、不足なのではないか?
 ブルース・リ−の「燃えよドラゴン」に、「Don’t think.Feel!」と
いう名セリフがあるが、武道の奥義を語ったこの言葉がなぜかピッタリくる。「考えるの
ではない。感じるんだ!」そんな内なる声を、俺は聞いたらしいのである。山でもう一度、
自分を感じろ、と。
 その意味では、我がパートナーにだって最初から、もう少しまともな説明ができたのか
も知れない。「事業を立ち上げる前に、俺は自分と向き合い見つめ直す修羅の旅に出るの
だ」とかなんとか。だが何事も、そう軽々しく重々しくしないというのが、俺のもう一つ
の方針だ。なにもエベレストに無酸素で行くわけじゃない。「まあ、ちょっと行ってくっ
からさ」ぐらいでちょうどいいのである。
 そんなわけで、俺はごく軽い調子でザックを背負った。唯一挑戦だったのは、この山旅
をインターネットで公開しようと決めたこと。俺(歩き手:ポンポコ浦澤)が出来る限り
家に連絡を入れ、日々の出来事や現在位置を我がパートナー(書き手:ムンク)がホーム
ページに記録する。歩くのは一人だが、旅そのものは二人で創り上げよう。そんなつもり
だった。2000年7月13日、二人三脚の長い夏の旅が始まった。

<「ポンポコ浦澤、いきなり敗退」>(栂海新道、北ア北部)

「おいおい、初日から遭難じゃシャレにならんだろ」
 親不知の海岸から、栂海新道を歩き始めて三十分。既にして俺は道に迷っていた。いや、
迷っているというより、そもそも最初から道が分からなかったのである。「戻れ、戻れ]
と心は囁き続けているが、なにせその行動の逐一をインタ−ネットで全国公開している身
の上である。男の沽券だの頭の計算だのが邪魔して、その決心ができない。
 すでに瞳孔が開き、息はゼエゼエ上がっている。藪山の急斜面についた踏跡とさえ呼べ
ないような痕跡を必死で辿りながら、俺は一時間ほど前、地元のオッちゃんと海岸で交わ
した会話をふと思い出した。
「オーイ、兄ちゃん、これから山に入るんかい?」(ええ、まあ)「いやぁ〜、惜しかっ
たな、あした地元の連中で藪刈りに入るとこだったのに」(おいおい、まだやってなかっ
たのかよ。もう七月半ばなんですけど…)「今年は雨が多くてよ、延び延びになっちまっ
てな」(はあ…)「マムシが多いからさ、気ぃつけてな」(おいおい、気楽に言うなよ。
気をつけろったって、いったいどう気をつければ…)「まあ、めったやたらな場所に手な
んかつかないこったな。グアッハハハ」
 だが気がついてみると、俺はそんな忠告など一つも守っていなかった。なにしろ体重八
〇キロ、ザックを背負えば優に一〇〇キロを越す物体が、長雨でグズグズの斜面をポンポ
コ移動しているのである。足を踏み出せば土が崩れ、立木をつかめば枝が折れる。何度も
崖から転げ落ち、手なんかあちこち付きまくりである。
「−−−とにかく落ち着け!このままじゃマズイぞ」俺は自分に厳命を下し、立ち止まっ
た。「ほら、タバコを吸えよ。冷静になれよ」
 二本目のタバコで、ようやく結論が出た。とにかくこれは道じゃない。道だとしても俺
には進めない。戻るしかないのである。だが戻ってどうする? 他にルートがあるのか?
 地図を見返すと、海岸線を一旦糸魚川まで歩き、そこからあらためて内陸に向かえば、
途中の林道から再び栂海新道に合流できるのがわかった。行程はざっと二日。時間はかか
るが、他に選択肢は無かった。初日のホームページの題名が浮かんだ。「ポンポコ浦澤、
いきなり敗退!」情けない限りである。
 しかし後で考えると、初日からこうして「負け癖」をつけたことが、結局はこの山旅の
安全には大いに役立った。特にこの後の、朝日、雪倉、白馬岳周辺は、この時期まだまだ
残雪が多く、毎日がヒヤヒヤの連続だった。雪渓で霧にまかれ、突然の雪壁に跳ね返され、
急斜面のトラバースにビビラされる。そんな時、とにかく「とっとと負けちまう」こと。
迷ったら引き返す、ヤバイなら迂回する“負け癖”は、俺にとっては唯一のテクニックと
さえ言えた。
 ちなみに、あとで偶然知ったのだが、栂海新道は登山口から藪山を直登するのではなく、
一旦コンクリートの道を左に大きく迂回し、そこから改めて登り直すのだそうだ。あのま
ま登り続たら、やはり冗談でなく、初日からポンポコ遭難だったわけだ。

<ソウル・クライマ−宣言>(北ア南部、乗鞍、御嶽)

「−−−そうか、やっぱりね、絶対なにかある人だと思ったんだよ」
 その後北アの南部から、乗鞍、御嶽にかけては比較的順調な旅(強風でテントのポール
が折れたり、雷に追いかけられたり、本当はいろいろあったんだけど)が続いた。減量の
方も、今度ばかりは鉄の意志で成果を上げていた。唯いつ難点だったのは、山から山への
アプローチの長さ。長時間のアスファルト歩きは、暑く、かったるく、どうにもこうにも
退屈だった。
 そんなある日のこと、道端の日陰にヘタリ込んでいると、近くの高原に高所トレーニン
グの研究に来てるという高校の先生に声をかけられた。バスの中から歩く姿を見て、気に
なっていたのだと先生は言った。
「それで、太平洋までどんなルートで歩いているの?」
「日本の3千メートル峰を並べると、ちょうど日本を縦断する形になるじゃないですか。
それを繋げてみようかなって」
「そうか!それでわかった、3千メートル峰か、なるほど」3千メートル峰という記号を
持ち出すと、先生はなぜか、妙に納得したようだった。「それで、何時までに制覇するの?
目標は?」
「いえ、特に目標は無いんです。別に速いから偉いってわけじゃないし、ハイ」
「……ふーん、そうなの」
 今度の答えには、先生は少々不満のようだった。だが俺自身は、答えの通りだと思った。
俺は自分の言葉であらためて、旅の目的を思い出した気がした。そう、別に“速さ”に意
味など無いのだ。それより何を見て、何を感じるか。例えば3千メートル峰という“高さ”
さえ、本当はどうでも良いこだわりなのかも知れなかった。
「……じゃあ、ボチボチ行きますわ」俺は立ち上がり、再びクソ暑い田舎道に歩き出した。
ゆっくり、のんびり、行けばいいんだと思った。
 そんな俺の脇を、原チャリ長靴のオバちゃんがノーヘルで追い越して行く。そう、こん
なド田舎では、ヘルメットをかぶる必要などないのだろう。ことによると、免許も必要な
いかも知れない。民家の軒下には、大根ともんぺが干してあった。風呂焚き用の薪が、隣
の納屋の壁いっぱいに積み上がる。畑には、トマト、トウモロコシ、そのほか俺にはわか
らない野菜が、たぶん自分の家で食べるのだろう、少しずつだが数多く植えられている。
その多様な緑のグラデーションが、なぜかやたらと豊かなものに見える。
「こんなもん食ってたら、体にイイんだろうなぁ〜。なによりメチャうまそうだもんな」
と俺は思った。こんなのに比べたら、俺がふだん食ってる野菜なんて工業製品みたいなも
んだ。俺はふと思いついて、歌を唄ってみた。井上陽水の「少年時代」をデタラメな歌詞
で唄った。なんだか楽しくなってきた。
 サーフィンの世界には、競技会での勝負やランキングの名誉などには一切関心を示さず、
自分の理想の波、理想のライディングだけをひたすら追い求める、ソウル・サーファーと
いう人達がいるが、自分も目指すべきはその境地ではないかと、唄いながら俺は考えた。
自分はソウル・トラベラー、ソウル・クライマーを宣言すべきではないか、と。
「ソウル・クライマー」俺は口に出して言ってみた。「…うん、いいじゃん」

<俺のソウルはどこにあるのか?>(中央、南アルプス)

 しかし人間とは(俺は、かも知れないが)どこまでも贅沢なものである。魂の山旅など
と言ってはみたものの、中アを過ぎ、南アにさしかかる頃になると、俺は再びどこか退屈
を感じるようになっていた。もちろん相変わらず山は美しかった。それは北アと比べても、
全く見劣りしなかった。しかし何かが足りないのである。
 一つには体力が異常に向上したせいもあった。一日たっぷり歩き終えても、体には常に
余裕があった。経験も積み上がっていた。南アに入ってからも何度か道に迷うことがあっ
たが、もうヒリヒリもドキドキもしなかった。
 だが自分の体力を限界ギリギリまで使う解放感、危機に直面して味わうスリル、そして
それを乗り越えていく満足感。山から得る“快楽”がそれだけ(それも立派な快楽だが)
だとしたら、少し寂しくはないだろうか。山はただ、それだけのものだろうか?
 塩見に登った翌日は、朝から雨と霧だった。単独行の山は常に自分との対話だが、こん
な日はさらに内側にこもるしかない。俺は歩きながら、また退屈について考えていた。も
うすぐこの旅も終わる。半端なままゴールしたくはなかった。
 繰り返し頭に浮かんだのは、ちょうど十年前、アジアからアフリカを一年間ほどかけて
歩いた長い旅のことだった。退屈という言葉とはおよそ無縁だったあの旅と、この山旅と、
いったい何が違うのか。俺は霧の中に、古い旅の記憶を並べていった。
 昼は波乗り夜はナンパに一緒に出かけたバリのビーチボーイたち、なぜか憎めなかった
インドの懲りない詐欺師の面々、上海のあの娘、アフリカのビック・ママンたち、素足で
走ってきたマッチ棒のような頭の子供たち、そして多くの旅の仲間たち…。
 それはまったくの平凡な結論だった。浮かんできたのはどれもこれも、人の記憶だった。
想い返すたびに、胸の中が暖かく、甘く痛くなるのは人との出会いと別れしかなかった。
だがそれが答えなら、俺には何の不満もなかった。
 結局、俺はやはり純粋な岳人ではないのだろう。この山旅でも、心の底が本当に求めて
いたのは、美しい山陵でも荘厳な岩でもなかった。“人”だったんだと、俺は気づいた。
いや、感じたのだと思う。
 不思議なもので、それからなぜか人との出会いが急に増えた。別に意識したわけでもな
いのに、個性豊かな怪男猛女たちが次々と現れ、旅を再び活気づけてくれた。

<富士を肴に、ちょっと祝杯>(富士山、御殿場、沼津千本浜)

「これで最後だよな、もう本当に最後だよな」
 山頂から、大砂走りを一気に駆け下り、何度も後ろを振り返りながら、俺は呟いた。
「そうだ、最後だ。もう本当に、山には登らなくていいんだ」
 昼の間ずっと山頂を覆っていた雲が下にさがり、夕映えの中に、富士のあの優美な稜線
が浮かび上がっている。その富士を肴に、5合目の休み茶屋で缶ビールとワンカップを飲
んだ。時刻はすでに六時近い。朝からかれこれ一二時間、ずっと歩きづめだった。辺りに
はもう、登山者はいない。かわりにチラホラ現れたのは、下からドライブで上がってきた
恋人たち。彼らには彼らの世界がある。それならオイラも、オイラの世界を作ろう。
 夕焼け空に、ひときわ美しく輝く富士を自分だけのものにして、ゆっくり、ゆっくり、
酒を飲んだ。不感症の俺も、さすがに少し感激したみたいだった。「たかが日本縦断ぐら
いで…」とも思うが、ガクガクする膝に免じて、今日ばかりは、ちょっとは感傷に浸るの
を許してやる気になった。
 店仕舞にかかった茶屋のオバちゃんが、しきりに麓までの車を心配してくれる。
「いえ、大丈夫なんです。ちょっと事情があって、歩いて行かなくちゃならないもんで」
「そうかい、事情があるのかい、歩くのかい」オバちゃんはそれだけ言うと、なぜか素直
に納得してくれる。「じゃあこれ、オマケだよ」
 オバちゃんがつまみにアーモンドと柿ピーをくれる。「そうかい、歩いていくのかい」
「はい、でもその前に、俺、ここで酔っぱらって行くから」
「アハハ、なんだか気持ちいいね、あんた」
「アハハ、どうもどうも」俺はアーモンドをコリコリとかじった。そして酒を飲み、富士
を眺め直して、またちょっと感激する。「オバちゃんはここに、いつまで居るの?」
「明日、あさってで終わりだよ。今年の夏は不景気でさぁ」
「そうか、不景気だったかぁ」
「そうだよ、今年はダメだったよぉ」
 オバちゃんとのたあいのない会話が続く。いつのまにか、夏は終わりらしかった。俺は
ふと思いついて、オバちゃんに道をたずねてみた。
「御殿場までは歩いて4時間、あんたの足なら3時間で行くかもね。一本道だよ」
 今夜中に御殿場に着ければ、明日はもうゴールだ。「よーし、じゃあ行っちまうか!」
俺は景気良く言った。「でもその前に、もう少しだけね…」
 そして俺は、また酒を飲んだ。立ち上がった時には、すっかり酔っぱらっていた。
「あんた、気をつけてね」「うん、オバちゃん、ありがとう」
 オバちゃんに見送られ、俺はフラフラと歩き出す。夕映えが最後の力を振り絞って、ま
た一段と輝き出す。富士山が見ている。駐車場の隅でカップルが抱き合ってる。そして俺
は、歌を唄い出す。
 フラフラ酔っぱらいながら、大声で唄いながら、上機嫌で俺は歩いた。そうだそうだ、
偉大なる我がパートナーのことも忘れちゃいけない。明日、ゴールする前に、どこかでア
イツに葉書を書いてやろう、と俺は思った。これまでの感謝をキチンと述べて、旅の完了
を一緒に祝って「でも、まだまだこれからだぜ」って書こう。「まだまだ暴れるぞ、俺ら
の旅は、こんなもんじゃ終わらないからな!」と。

                    *                     *                      *

  翌日、俺は沼津の千本浜にゴールした。体重は一三.八キロ減っていた。いまは会社の
設立に向けて、けっこう忙しい。 (了)



                   CONTENTS その後のポンポコ浦澤
  「ポンポコの野郎、ホントにこのあと会社なんか作れたのかあ?!」と御もっともな疑問を持たれた方は
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