ホーム日本縦断登山エスニック雑貨店結婚ロード治療室本棚伝言版メール

         CONTENTS 
この本は読むな! ロクデナシの本棚・バックナンバー

             
   
  第1回配本 「どくろ杯」 金子光晴 (中公文庫)   危険度 ★★★ (星三つが最高)

      最初の一冊を何にすべきか、かなり迷ったのだが、結局はこれに決めた。
      「どくろ杯」──何よりもこの題名がいい。詩人・金子光晴が1920年代から30年代にかけて
      行った、足掛け7年、5年数ヶ月にも及ぶアジアとヨーロッパでの漂泊、流浪の旅のほんの一部
      (日本出発から、上海、シンガポールまで)を40年後になってまとめたものだが、「なんの計画も、
      希望もなく、日本を離れるためにだけ出てきた私たち…」と金子自身が振り返るように、青春の
      大志を抱いた…だの、自分探しの…といったステレオタイプからは、およそかけ離れたまさに
      流浪という言葉がピッタリするこの旅の雰囲気を、「どくろ杯」というワンフレーズ、一つの事物に、
      
見事に集約させ、表現していると思うからである。
      
      5年数ヶ月という旅のスケールに加え、不倫に走った妻・森三千代を恋人の学生から引き離し、
      自身はほとほとうんざりした日本の詩壇との決別・文学を捨てるという旅立ちの理由、さらには
      行く先々でのゆすり、たかり、押し売りまがいのインチキ商売と旅の手法も圧巻。
      まさにフランクリンが言うところの悪の3要素「旅、女、文学」
すべてを揃えたロクデナシぶりは、
      ポンポコ浦澤など足元にも及ばない本物中の本物である。

      しかもこの本の凄いところは、その地獄行きの旅を40年後、70歳を過ぎてから回想し、語り
      下ろしているために、金子が言うところの「照れかくしなくさらりと語れるという利得」があり、
      苦渋に満ちた絶望の旅を語ってはいても、そこには常にユーモアの感覚があり、自己に淫する
      といった臭みが無い。それでいて、詩人の筆は70過ぎてもビビットそのもの、圧倒的な瑞々しさ
      でアジアの人と街と風景を描き出すのである。
      
      「こんな風に回想できるなら、流浪の旅もいいな」などと、ついつい思ってしまう。絶対のオススメ、
      いや、絶対に読んではいけない本の筆頭である。
      
               
クリークには、低い苫船が止って、嬰児の泣く声がきこえていた。憤懣は、おもい
                  がけないほどいろいろなものに、その対象がつながっていた。じぶんのの今日の
                  こうしたありかたや、じぶんの微力や、切っても、突いてもどうにもならない、手も、
                  足も出ない圧力の壁や、日本でのくらしや、世わたりのうまい奴や、しゃあしゃあと
                  してのしあがってゆく奴や、のほほんとした奴や、高慢づらの奴や、そんな奴らの
                  つくっている、苛性曹達(ソーダ)のような、希塩酸のような、肌に合わないどころか
                  心情のうす皮がちぢくれあがるような日本での生活の味が一束になって、宿怨と
                  なり、胸のつかえとなっているのが、そのときの憤懣と一つになって、突破(ハケ)口
                  を作らねばいられない、ぎりぎりな気持になっていた。クリークの上流の地獄の道
                  のようなくらさにむかって私は、
                  「にゃんがつおっぴい!」
                  と、あらんかぎりの声を張りあげて、二度、三度、叫んだ。
                                                        (p147)

      
なおこの金子光晴の旅は、このあと「ねむれ巴里」「西ひがし」へと続いていく。それらについても
      いずれこの「ロクデナシの本棚」で取り上げることになるだろう。



         
     第2回配本 「路上─ON THE ROAD ジャック・ケルアック (河出文庫) 危険度 ★
      
      とにかく長い本だ。
      ストーリーというほどのストーリーもなく、作者の分身である《ぼく》と相棒のディーンが、ただひたすら
      アメリカ中を車で移動し、食べ、飲み、騒ぎ、疾走する。理由はない。移動したいという苛烈な欲求が、
      ただそこにあるだけ。

                …パンと恋とどちらであろうと彼はいっこうにかまわなかった。「股のあいだに穴ぽこ
                  のある女の子なら、それでいいのさ」そして、また、「食えさえすればいいんだ。分かる
                  かい。おれは腹ぺこさ。おれは飢え死にしそうだ。すぐ食いに行こう!」──
そこで、
               
われわれはそれっとばかり食べに行く。まるで、伝導の書に、「そは天が下において
                  汝の取り分なり」とあるように。
                  ディーンは太陽の子だ。叔母は、彼がぼくに迷惑をかけることになるよ、と警告したが、
                  (中略)それが一体どうしたというのだ。ぼくは若い作家だから、飛び立ちたかったのだ。
                  そちらの方向に行きさえすれば、どこかに、女の子も、夢も、あらゆるものも、きっと存在
                  するのだ。その方向のどこかで、真珠がぼくの手に入るのだ。

                                               
(p17)

      しかしこうして出発した二人の旅を追うのは、なかなかタフな作業だ。前述の通りそこには特に物語
      は無く、しかも文庫本の厚さは優に2センチはある。「ビート・ジェネレーション」の新感覚だの、
      フリージャズの文体だのと文学史的解説を受けたところで、退屈なものは、退屈なのだ。だがその
      退屈を押して、それでも二人に食い下がっていくと、いつしか彼らとある共通の時間を共有している
      ような不思議な感覚にとらわれてくる。
      だから436ページの長い放浪の末に二人が別れてしまうシーンは、とても切なかった。別れの理由
      は簡単だ。語り手の《ぼく》が、旅することをやめたから…

             
  「こんなふうにあの人を行かせてはいけないわ。どうしましょう」
                  ディーンは去って行った。ぼくは大きな声でいった。「あの男は大丈夫だよ」そしてぼく
                  たちは悲しい気のりのしないコンサートに出かけた。それがたとえ何であろうとぼくには
                  聞く気がなかった。そしてずっとディーンのことを考えて、あのすごい大陸を三千マイル
                  も汽車にのって帰って行く姿を考えていた。ぼくに会いたかったのは別として、なぜ彼が
                  やってきたのかはまったく分からなかった。
                                               (p436)

      別になにかを悟ったから、放浪をやめたわけではない。ただ、時が来たから…。移動に理由がない
      のと同様、停止にも理由はありえないのだ。だがそのどうにも説明のしようの無さが、放浪の本質
      というものなのかも知れない。少なくともそう思わせる何かがこの物語にはある。そしてそれがこの
      「路上」という本の、恐ろしいところだ。
      危険度は★一つだが、重いパンチを持っている。例えて言うなら、いぶし銀のチャンピオンが放つ
      地味なボディブロウのような。最初は効かないように思っても、あとでジワジワ腹にこたえてくる。
      
              
アメリカに太陽の沈むとき、ぼくは古い壊れた河の桟橋に腰をおろし、遠くニュー・
                  ジャージーを覆う長い長い空を見つめ、太平洋岸まで一つの信じがたい巨大な
                  ふくらみとなってうねっているあの生々しい大陸を感じ、そして通っているすべての
                  道や、その広大な国の中で夢みている人々を…
                                                   (p436)


      ちなみにポンポコ浦澤はこの「路上」の旅に憧れ、誘われて、アメリカを車で横断したことがある。
      1日十数時間、ひたすらハンドルを握るだけの旅だったが、それでもロスからニュウヨークまで、
      たっぷり一週間かかった。


         
     第3回配本 「輝ける闇」 開口 健 (新潮文庫)   危険度 ★★★

     開口健は、なぜベトナムに行ったのか?
     いや、行かざるをえなかったのか──

     「生活を変えたかったんだ」と、本人は冗談めかしてさらり言っているが、これを私なりに解釈
     すると、「退屈だったんだ」──そんな言葉が浮かんでくる。

     朝日新聞の特別特派員として、開口がベトナムに渡ったには34歳の時。既に29歳で芥川賞
     を受賞し、作家としては第一線にあり、また家庭人としても、妻もあり子もった。

     ベトナムに行けば、自分は必ず深入りすることになる。中途半端な戦争見物記を書くことなど、
     決して自分に許せはしないと、おそらく本人が一番わかっていながら。しかし開口は、ベトナム
     に飛び込んで行った。


     開口を動かしたのは、イデオロギーや思想ではなかったはずだ。ましてや金のためでも、ベト
     ナムで一発当てて、オネーチャンにモテようと思ったわけでもなかったはずだ。
     じゃあなぜなのか? 

     退屈だったから。

     ──そう考えると、妙に納得がいく。人は退屈を逃れる為に、時に命すら投げ出すことがある
     のだ。「人間のクズと呼ばれた男」としては、とりあえずそう解釈したい。

     もちろん「退屈」を感じるかどうかは、個人の感性の問題だ。同じ時代、同じ場所で、同じ空気
     を吸っていながら、まるで別のことを考える人もいる。「ボクは今、ここでボクなりの精一杯の力
     で頑張ってるんだ」。そう主張する人だって、たぶんいるんだろう。

     だが少なくとも、開口はそうは信じれなかったらしい。
     開口は、まさに自身をその地位にまで押し上げた明敏さと感性ゆえに、逆にすべてを、命さえ
     をも失いかねない暴挙に出ざるをえなかったのだ。
     彼はまだ34で、そして作家だったから。

     ベトナムに渡った開口は、自身の目論見通り、いや、それを遥かに超えて、人の生の絶頂期
     と言っていいほどの数ヶ月を過ごすことになる。皮肉なことだが、貧困と悲惨に近ければ近い
     ほど、死の恐怖に接すれば接するほど、人間の生命はその輝きを増す。これはある意味で
     の真実だ。

     前線で兵士たちと泥にまみれ、サイゴンで娼婦たちと眠り、開口はベトナムの闇を、輝ける闇
     を凝視する。
     しかしこの経験は、同時に開口に新たな傷を負わすことにもなる。なぜなら、彼がベトナムに
     寄り添おうとすればするほど、愛すれば愛するほど、平和で豊かで幸せな国から来た傍観者
     という自身の立場に気づかざるをえないからだ。

     この解決不能な痛みを抱えて、のたうち傷つきながら、それでも開口はベトナムを凝視し続け
     る。まさに傍観者ゆえに、どんな苦痛からも、危険からも、逃げるわけにはいかないからだ。

         
 ──生還できるだろうか。にぶい恐怖が咽頭をしめつける。だらだらと汗をにじみつづける
             だけの永い午後と、蟻に貪られっぱなしの永い夜から未明へを送ったり迎えたりをしてい
             るうちに自身との蜜語に蔽われてしまえば汚水に私は漬かる。徹底的に正真正銘のもの
             に向けて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。私はたたかわない。殺さない。
             助けない。耕さない。運ばない。煽動しない。策略をたてない。誰の味方もしない。ただ見る
             だけだ。わなわなとふるえ、眼を輝かせ、犬のように死ぬ。
                                                         (p251)

     どの1ページを開いても、開口の言葉は比類なく美しく、そして、ガッツがある。これだけ全身
     全霊をかけて生き切った瞬間を、これだけ全身全霊をかけて文章にした書物を、私はほかに
     知らない。
     「バックパッカー症候群」の章
でも触れたが、だから開口がこの「輝ける闇」を書き切った後、
     生涯激しい喪失感の中に沈み、決して真実には浮き上がることがなかったとしても、それは
     ある意味では当然のことなのだ。

     もちろん、それを読む人間も無傷ではいられない。開口をベトナムへ連れ出した「退屈」という
     病は、いまを生きる私たちにとってこそ、むしろテーマとなるべき落し穴だからだ。

     平和で豊かで幸せに暮らしたい“ボクくんは、とにかく絶対に近づいてはいけない。立ち読み
     すら自粛すべき一冊だろう。


         
     第4回配本 「死んでもいい─マニラ行きの男たち─ 浜 なつ子 (大田出版) 危険度 ★★

             マニラにはいつも生ぬるい風が吹いている。身体の芯が溶ろけそうになる生ぬるい風だ。
             暖かいというのとも違って、女のあそこみたいに生ぬるい。「男のクズ」と言われてきた俺
             が唯一、安心できる場所で呼吸していたいというのも、「息がつまりそうな日本から脱出し
             たい」とか「レールの敷かれた日本には夢がなくて」と嘆く若者よりはもう少しな生々しい欲
             求に近くて、要するにガキがいるのに「あたしヴァージン」などと言い放っている水商売の
             女たちの体臭がむせっているところで一生を終えたいというだけのことだ。
                                                                (p16)

    この本は、同じ著者、同じ出版社で先に出ている 『マニラ行き─男たちの片道切符のいわゆる
    続編です。
    タイトルの通り、フィリピーナにはまり日本を棄てた男たちの、ノンフィクションの物語である。


    テーマといい、出版社といい、あざといスキャンダル本を連想する人がいるかも知れないが、まっ
    たくの誤解である。
    それどころか、この本は人間の生の不思議に触れる第1級のノンフィクションであり、しかも無類
    に面白く、また明るい。まさに傑作だと、断言させていただく。

    続編というのは大抵第一作に及ばないものだが、このシリーズに関しては、明らかに二作目の
    「死んでもいい」の方が面白い。なんと言うか、突き抜けた明るさのようなものがあるのだ。

    もちろんこれは、著者である浜氏のフィリピンを見つめる目が、さらに深まり、愛にあふれている
    せいでもあるが、なんと言っても今回の主人公、「男のクズ」と呼ばれてきた男・ヒーローのキャ
    ラクターに負うところが大きいだろう。
    逆に言えば、ヒーローというトリックスターを見つけ出し、その痛快とさえ言っていいハチャメチャ
    人生に、きっちり向き合おうとしたところに、今回の浜氏の一番の功績があるのかもしれない。

    浜なつ子氏は、名前の通り女性である。女性がこうしたテーマを扱えば、ヒューマニズムやら
    フェミニズムやらの臭みが、自然混じりそうなものだが、この本にはそうした不純物の影が一切
    ちらつかない。

    浜氏は自分本来の興味、人間の不思議、男女の不思議、フィリピンという国の魅力の不思議
    に焦点を定め、余計な脱線を自分に許さない。その書きっぷりは、読んでいてすがすがしい。

    彼女のトリックスター・ヒーロー氏もまたすがすがしい。
    元ホストで、「男のクズ」と呼ばれてきた男と、自称するだけあって、彼には少しもエラぶったと
    ころがない。またエラぶる必要もないのだ。

    自分が好きなコトだけに、それが何であれ正真正銘打ち込んでいる人間だけが持ちえる謙虚
    さで、彼は自分を語り、女を語り、フィリピンを語る。サービス精神はあっても飾りはないだけに、
    彼の言葉は物事の本質をズバリ言い当てる。

    学歴という意味ではなく、本質的に、おそらく相当に頭が良く、感性も鋭い人なのだろう。その
    辺のジャーナリストなど及びもつかない深く、広い視点で、彼は世の中を見つめている。
    勘違いしている人も多いと思うが、そもそもそういう男でなければ、日本であろうとフィリピンで
    あろうと、あれだけ女にモテるはずがないのだ。

    とにかく、この無類にすがすがしい著者とトリックスターが手を組み、二人で作り上げたのが
    この「死んでもいい」─マニラ行きの男たち─だ。繰り返しになるが、傑作である。

             サンタアナの女の部屋で乳繰りあっていると、にわかに黒い雲があたりを覆い、冷たい水
             滴がポツンと裸の胸に落ちてきた。そしてダッーとスコールになった。女の部屋のトタン屋
             根には大きな穴があいていて、ベットはずぶ濡れ、俺もずぶ濡れ、女もずぶ濡れ。それでも
             女はやめようとはしなかった。大粒の雨が女の髪を濡らし、小麦色の肌をすべってゆく。俺
             は静かに女を抱いた。激しい水の流れと静かな動き。遠く遥かな昔の時代にいるようだっ
             た。女のかわいい声に感応し、俺は俺で「死んでもいい」至福を得た。
             やがて雨が止んだ。
             「お前、スコール降ってもいつもこうなの」
             「だって、すぐ乾くもん」
             「まぁな」
             屋根の穴から見える空はもう輝くような青い空。ベットもまもなく乾くだろう。
             シャワーがなくて困っていると、女が大きな洗面器に水を汲んでもって来てくれた。(中略)
             その水で身体を洗っていると、何かが浄化されていくような気がする。こんな俺だけど、女
             に受け入れてもらっている、という実感だけで何かが流れていくような気がそるのだ。

    上の部分を読んだだけでも、彼を惹きつけているのは必ずしも女だけではないということが、
    すぐにわかるだろう。本文を読めば、もっとよくわかる。そして無性にフィリッピンに行きたく
    なる。
    危ない、危ない…


            
     第5回配本 「東京漂流 藤原新也 (情報センター出版局) 危険度 ★★

    このコーナーで配本する最初の10冊の中に、少なくとも一つは藤原新也の著作を入れようと、
    当初から考えていたが、何にするかはずっと決めかねていた。

    社会批評の著作としては、決して新しいとは言えないこの『東京漂流』を最終的に選んだのは、
    発表から20年近くがたった今こそ、むしろあの二匹の犬は、「より必要とされる、あるいはより
    嫌悪される」存在なのではないかと、ふと考えたからだ。

    二匹の犬とは、この本のp364、5に見開きで登場し、悠然とヒトの屍を食らってみせるガンジス
    の野犬のことだ。藤原は自身が撮影したこの壮絶な写真に、「ヒト食えば、鐘が鳴るなり法隆寺」
    とコピーをつけ、さらにこう喝破している。

    
ニンゲンは犬に食われるほど自由だ

    ──と。
    背景は青白いガンガーの流れである。その中州の上に、耳のとがった二匹の痩せた野犬が立っ
    ている。そしてその画面手前、黒くつぶれた砂の上に、白いズボンを履いたいたヒトの屍が打ち
    上げられている。まだ十分に肉がつき、つい今しがたまで、その辺を歩き回っていたかのように
    さえ見えるその足に、右手の黒犬が齧りついている。左手の白犬は、肉を目の前にしても、特に
    興奮した様子もなく、喜ぶでも悲しむでもない、淡々とした目でこちらを見つめている。

    この壮絶な写真を見たのは、まだ二十歳になるかならないかの、学生の頃だったと記憶してい
    る。一瞬アッと息を呑み、私はその犬と、その屍を凝視した。しかしその写真が、決して残酷で
    も悪趣味でもないことを、私は幸いにも、直感として理解することができた。

    そして次の瞬間、身体のずっと奥からジワリと湧き上がってきた、あのなんとも言えない解放感
    のことを、私はよく覚えている。そうか、ニンゲンはこんなに自由なのか、犬に食われたっていい、
    それほど自由なんだ──。それは感動と言って良かった。

    この二匹の犬を、清潔で安全で、殺菌され消毒され、ニンゲンの命は地球より重いと教え込まれ
    ている現代ニッポンに突きつけた、当の本人である藤原は、次のように述べている。


             ──しかしインドを旅していた私には不思議だとは思えなかった。人間の値段はそんなに
             高価ではないということを、その旅でよく思い知らされていたからだ。ニンゲン、やっぱり
             ただの生き物、にすぎないのであった。
             だから、生きとし生けるものが墓を持たぬように、この地ではニンゲンも墓を持たない。死
             ねば焼いて灰や河や海に捨てたり、鳥に食わせたり、屍をまるごと河に捨てたりする。自然
             に返してやるのだ。
             それをたとえ野犬の群れが食らったとしても、ごく自然なことなのである。
             つまり、ヒトとは犬に食われるくらい自由な生き物なのである。
             私はこれを、実に感動的なことだと思った。美しい光景だと思った。インドという国はやはり
             凄い国だと思った。私は野に咲く花を撮るようなつもりで、それに向かってシャッターを押し
             たのである。
                                                      (p368)

     
しかしもちろん、この写真を受け入れられない人間もいる。
    むしろそうした人間こそが、現代ニッポンにおいては、まともだと見なされるのかも知れない。
    実際、当時藤原が連載を持っていた大手新聞社系のグラフ誌はその掲載を拒否しているし、
    その後も大手マスコミの上で、この二匹の犬が陽の目をみることは無かった。

    だが確かに、危険と言えば、危険な写真ではある。なぜなら、「ニンゲンは犬に食われるほど
    自由だ」と、たとえ直感的にでも理解してしまった人間は、その後ほとんどあらゆることに、歯
    止めをかける必要を認めなくなるからだ。

    例えば二十歳でそれを受け入れてしまった私は、「こんなことをしたら、世間様に白い目で見ら
    れるかも」「罵られるかも」「バカにされるかも」と、迷いを感じるたびに、自分にこう言い聞かせ
    てきた。「いやいや、やりたいんならヤレよ。だってニンゲンは自由なんだから。それこそ、犬に
    食われるくらい」と。

    その結果どうなったかと言えば、ご覧の通りである。
    だから決して、「東京漂流」など読んではいけない。ニンゲンの自由になど、目覚めてはいけな
    いのである。



         CONTENTS この本は読むな! ロクデナシの本棚・バックナンバー

            ホーム日本縦断登山エスニック雑貨店結婚ロード治療室本棚伝言版メール