さくら通信(112)  2001年12月28日(金)
 
 
 
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         西岡昌紀(にしおかまさのり・内科医)
http://macky.nifty.com/cgi-bin/bndisp.cgi?M-ID=bruckner2001
 
 
 
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      1972年の夏の終わりの事です。
 
      この年、私は、高校1年生でした。その夏休みに、
私は、生まれて初めてヨーロッパを訪れました。そして、その
帰り道に、私は、両親とともに、数日間、モスクワを訪れ、
滞在して居ました。今にして想えば、冷戦時代のソ連は、
それなりに落ち着いた社会だった様にも思い出されますが、
その旧ソ連時代のモスクワに、私は、数日間滞在する機会を
得たのでした。
 
     その或る日、私は、両親らとともに、モスクワ市内の
或る人物のアパートを訪れました。それは、20世紀最大の
ピアニストの一人、スヴィヤトスラフ・リヒテル(Svjatoslav 
Richter)氏のアパートです。そのリヒテル氏のアパートを、
私は私の両親と通訳のH氏らとともに訪れ、午後のひと時を
過ごしたのでした。
 
 
 
(リヒテル氏については、次の二つのサイトをお読み下さい)
 http://www.ne.jp/asahi/ponpoko/tanuki/richter_who.htm
  http://www.nhk.or.jp/projectx/68/index.htm
 
 
 
     私が、その日、何故、リヒテル氏のアパートを訪れた
のかは、機会が有ればお話する事にしましょう。とにかく、
その日、私は、当時、世界最高のピアニストと見なされて
居たリヒテル氏のアパートを訪れ、夏の終わりのひと時を
両親らとともに過ごしたのでした。リヒテル氏自身は、外国に
演奏旅行に出掛けていて不在でしたが、リヒテル夫人(故人)
のお菓子とお茶でもてなしを受け、楽しい時間を過ごしたの
でした。
 
     やがて、私たちがそこを後にしようとした時の事です。
玄関からアパートを出ようとした時、私は、入り口に一枚の絵が
掛けられてある事に気が付きました。それは、詩人の様な
優しい表情をした若い男性の肖像画で、水彩画であった様に
記憶して居ます。私は、すぐ、それが、若き日にリヒテル氏の
肖像画である事が分かりました。それで、私は、通訳のH氏
を介して、私たちを見送ろうとしたリヒテル夫人にこう尋ねた
のでした。
 
 
 
     「これは、リヒテルさんですね?」
 
 
 
 
    すると、リヒテル夫人は、良く尋ねてくれました、と言う表情で、
こう答えました。
 
 
 
 
    「そうです。とてもいい絵でしょう?」
 
 
 
 
    そして、リヒテル夫人は、私たちにこう語ったのです。
 
 
 
 
    「彼(リヒテル氏)は、若い頃、こんなに素敵だった
     のですよ。そして、この絵は、昔、彼(リヒテル氏)の
     友人だった画家が描いた絵です。とても才能の
     有る画家で、リヒテルは、彼ととても親しかったの
     ですが、厳しい時代を生き残る事が出来ず、早くに
     この世を去ってしまいました。」
 
 
 
 
     ここで、リヒテル夫人が「厳しい時代」と言ったのは、
言うまでも無く、スターリン時代もしくはその前後の時代の事です。
ふと目にした肖像画にそんな物語が有るとは、私は全く予想もして
居なかった私は、リヒテル夫人のその説明に何も言えず、ただ
うなずくばかりでした。そして、間も無く、私たちは夫人に別れを
告げ、そのアパートを後にしましたが、別れ際に見たその絵と
その絵を描いた画家の話は、以来、私の心に永く焼きついて
離れなく成ったのでした。
 
    私は、その肖像画を描いた画家について、これ以上
何も知りません。しかし、前にも後にもただ一度だけ訪れた
リヒテル氏のアパートで見たこの肖像画の事をしばしば思い
出します。そして、リヒテル夫人が口にした「厳しい時代」と
言う言葉を思い出すのですが、この絵についてのリヒテル
夫人の言葉を思い出す度に、一体、ソ連と言う国家が存在
した時代、ソ連とそれに支配された国々で、どれだけ多くの
人々が、どれだけの苦しみを味あわされたのだろう、と想わず
には居られません。リヒテル氏のアパートに有ったその絵の
画家は、その無数の人々の一人に過ぎません。一体、どれ
だけ多くの人々が、ソ連と言う体制の下で苦しめられたの
でしょうか。
 
 
 
    そのソ連が崩壊して、10年が経ちました。
 
 
 
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    自慢する訳ではありませんが、私は、1980年代の
初め頃から、遠からぬ将来、ソ連が崩壊する事を確信して
居ました。(私の友人の中には、20代の頃、私が良くそう
言って居た事を記憶して居る方も在ると思います)
   
    私は、もちろん、経済学者でも社会学者でもありま
せん。ですから、社会科学的な分析でそう言う事を確信
した訳では全く有りませんが、そう確信して居たのは、
当時、(当時の日本人には珍しく)私が、ソ連や「東欧」の
人々を直に知って居たからだと思います。数が多いかどう
かは別として、ソ連と言う国家が存在して居た時代に、
そのソ連やチェコ、ポーランド、それに旧東独の人々を
或る程度、知って居た事が、私に、ソ連とその衛星国に
存在している体制がもう永く続かない事を、直感させて
居たのです。
 
    当時、私が、「ソ連は必ず自由化すると思う」等
と言うと、私の友人や知人は、殆どの人が、日本人も
欧米人も、「そんな事有るかなあ?」と言った反応を示し
たものです。そう言う反応を示す人々に共通する事は、
彼らが、ソ連や「東欧」の人間を直には知らない、と言う
事でした。即ち、「ソ連が崩壊する」と言う予感を持たない
人々に共通して居たのは、そのソ連に住む人々を直に
知らないと言う事だったと私は思うのです。
私の場合は、家庭の環境やその他の理由から、十代
の頃から、ソ連や「東欧」の人々を直に知る機会が
有りました。又、二十代に成ってからは、チェコ人や
ポーランド人の非常に親しい友人を持つ事が出来ました。
そうした事から、私は、「共産圏」に住む人々の本当の
姿や感情を、普通の日本人やアメリカ人よりは、良く
知って居たと思います。つまり、当時、ソ連や「東欧」の
「共産主義」体制の下で生きて居た人々が、私達「西側」
の人間と基本的には何ら変わらない人々である事を
私は、普通の日本人やアメリカ人よりも良く知って居た
のです。彼らの悲しみや苦悩、そして、喜びやユーモア、
怒りと言った物を身近に知る機会を持てた私は、その
様な、自分と同じ感情を持った人間である彼らが、あの
様な社会にいつまでも耐えて居られる訳が無いと確信
して居たのです。何が切っ掛けに成るかは予想出来ま
せんでしたが、「共産圏」の政治・社会体制は、遠くない
将来、必ず崩れるに違い無いと、私は、確信して居たの
です。
 
 
     逆に言えば、ソ連が崩壊しないと信じて居た
人々は、当時のソ連や「東欧」の人々が、私達「西側」
の人間とは違うのだ、と言う錯覚を持って居た人々で
あったと、私は思います。実際、当時、そうした人々と
交わした会話や議論を思い出すと、ソ連がいつまでも
続くと思って居る人々は、多くの場合、「共産圏」に
住む人々は考え方が違うのであり、彼らの考え方は
決して変わらない、等と言う、今聞けば笑われる様な
見方を固く信じて居た事を思い出す事が出来ます。
 
 
 
      私がここでこんな事を言うのは、別に自分の
予感を自慢する為ではありません。そうではなくて、
偏見と言う物は、予測を誤らせる、と言う事を言いたい
のです。
 
      即ち、ソ連と言う国家が悪であった事は
確かでも、そこに生きる人々が悪魔だった訳では毛頭
有りません。しかし、冷戦時代、日本でも、ヨーロッパでも、
アメリカでも、冷戦当時、少なからぬ人々は、そのソ連や
「東欧」に生きる人々の全てまでもが、自分たち「西側」
の人間とは全く異なる価値観を持った、対話不能な
人々ででもあるかの様な錯覚を持って居ました。
 
      その為に、それらの人々は、ソ連が崩壊する
事を予感出来無かった、と私は思うのですが、これは、
現在の私たちに、一つの教訓を与える経験ではなかった
でしょうか?
 
      ほんの一例ですが、最近、「文明の衝突」
などと言う言葉がやたらに使われ、例えば、「西側」と
イスラム世界は、対話不能な二つの異なる文明なのだ、
言う様な「理論」がしたり顔に語られるのを目にする
事が有ります。
 
      しかし、本当にそうなのか?その「異なる文明」
理解しようとする努力すらせず、「あの人達と私たちは
考え方が違う」と言った様な表層的な見方だけを強調
する態度で、私たちは、自分たちの世界がどう言う方向に
向かおうとしているのかを正しく予測する事が出来るので
しょうか?
 
 
      ソ連崩壊を予想出来なかった人々は、ソ連崩壊
から10周年が経った今、自分達がソ連崩壊を予感出来なか
った理由は何であったのかを考えるべきだと私は思います。
そして、人間と人間の間の共通性よりも違いばかりを強調
する物の見方がいかに歴史への予測を誤らせるかを、この
ソ連崩壊の例から学んで欲しいと、私は思います。一例
ですが、上に引用した様に、「西側」とイスラム世界の対話は
不可能であり、「衝突」が不可避であるかの様な予測を語る
人々などは、その様な「予測」が、人間の持つ共通性よりも
差異を強調する見方を基盤として居る事に気が付いて欲しい
と思います。そして、それが、冷戦時代にはびこって居た、
「ソ連はいつまでも続く」と言った俗論と通ずる側面を持って
居る事に是非気が付いて欲しいと、ソ連崩壊を確信して
居た人間として、願わずには居られません。
 
 
   *   *   *   *   *   *   *   *
    
 
 
     そのソ連崩壊の前後の事と記憶して居ますが、
アメリカで、カーター政権の大統領補佐官を務めたズビグ
ニェフ・ブレジンスキ氏は、共産主義を「20世紀最大の愚行」
と呼びました。
 
     私は、それに、イスラエル建国と原子力発電を
加えて、20世紀の三大愚行と呼びたい気持ちですが、
それはともかくとして、ただ「共産主義」を「愚行」と呼ぶだけ
では、歴史を総括する事にも、歴史から学ぶ事にも成らない、
と私は思います。(愚行には違い有りませんでしたが)
「共産主義」とソ連を総括する作業は始まったばかりですが、
それらを総括しなければならない一方で、ロシアも世界も、
この十年間に、劇的に変わった、と私は感じて居ます。
過去を総括する間も無く、私たちは、現在と向き合い、
変わる現代と格闘しなければならない様です。
 
 
 
     リヒテル氏もリヒテル夫人も、4年前、この世を
去りました。(リヒテル氏の葬儀にソルジェ二ツィン氏が
姿を見せましたね)お二人には子供が有りませんでしたが、
かつて私も訪れたリヒテル氏のアパートは、現在、20世紀
最高のピアニストが住んだ場所として、保存され、公開され
て居るとの事です。
 
     少し前の事ですが、生前のリヒテル夫妻を知り、
夫妻のアパートを何度も訪れた事の有る私の知人に、夫妻
が住んだアパートが今どう成って居るかを聞いた事が有りました。
Pさんと呼んでおきましょう。主(あるじ)を失ったリヒテル夫妻の
アパートの最近の様子について、Pさんは、大旨、こんな話を
語って聞かせてくれました。
 
 
 
     「大切にするのはいいんだけど、あの部屋は
      きれいにされ過ぎちゃって、先生(リヒテル氏)が
      住んで居た時とは、違っちゃってるの。水道なんか、
      もっとボロだったのが、ピカピカにされちゃって、
      先生(リヒテル氏)が、ソ連時代にボロな環境で
      暮らして居た事をそのまま分かる様にすれば
      いいのに、そうはしないのね。恥に成る、と言う
      事なんでしょうけれど。」
 
 
 
     これも、歴史の流れ、なのかも知れません。
複雑な気持ちがしましたが、29年前(1972年)に私が見た
あの肖像画は、今、どう成って居るのだろうか?と思わずには
居られませんでした。それで、Pさんに、「あの絵は今どう成って
居ますか?」と、私は聞いてみました。すると、Pさんは、
「ちゃんと有るわよ」と言いました。
その答えを聞いて、安心しましたが、あの絵が今もそこに
在るなら、いつの日か、もう一度、あの絵の前に立ちたい、
と思って居ます。
 
 
 
      
 
 
2001年12月28日(金)
 
 
 
 
 
 
             西岡昌紀(にしおかまさのり・内科医)
http://macky.nifty.com/cgi-bin/bndisp.cgi?M-ID=bruckner2001
 
 
 
 
 
 
−−参考サイト−−
 
1) http://www.nhk.or.jp/projectx/68/index.htm
 
2) http://www.ne.jp/asahi/ponpoko/tanuki/richter_who.htm
 
3) http://www.ne.jp/asahi/ponpoko/tanuki/richter_map.htm
 
4) http://www.trovar.com/str
 
5) http://plaza4.mbn.or.jp/~dreampiano
 
 
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29日の朝に,西岡さんから、メールを送っていただきました。このサイトも紹介されています。うれしいです。「さくら通信」12月28日号は、みなさんにもお見せしたい内容だったので、サイトでみれるようにお願いし快諾をいただきました。
西岡さん、ありがとうございます。