リヒテルさんってどんな方ですか? |
ピアニストさんです。 それも、20世紀を代表するピアニストのおひとりです。 |
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正式なお名前は? |
スビャトスラフ・テオフィロヴィッチ・リヒテルです。 ロシア語で書けば、 Святослав Теофилович Рихитер 真ん中にあるのは、父称といって父親の名前から派生してついてきます。ロシア人の名前ですから。愛称は、スラーヴァ。幼いときは、スベーチク(光の子)という愛称でよばれたようです。家族の方々の愛情がわかりますね。 |
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どこのお国の人ですか? | 旧ソ連の方です。 |
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お生まれの土地は? |
現在のウクライナ共和国のジト−ミルという小都市です。 地図で見ると、キエフから120q西にあり、黒海沿岸都市のオデッサからは北に440qぐらいの距離です。ウクライナは、豊かな穀倉地帯で有名でしたが、いまはチェルノブイリがあるところっていったほうがピンとくるかもしれません。ちなみにキエフはロシアの古都です。 |
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おいくつの方ですか? |
1915年3月20日にお生まれになって、 1997年8月1日にモスクワでお亡くなりになりました。故人です。 |
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お母さんはどんな人? |
アマチュアの音楽家です。 お名前は、アンナ・パヴロヴナ・モスカリョーワ。 ウクライナの地主階級、つまり貴族の娘さんです。とても才能豊かな女性で、ウィーンに留学しました。そこでリヒテルさんのお父さんとの出会いが生まれます。 |
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お父さんはどんな人? |
プロの音楽家です。作曲家、ピアニストです。 オルガンも弾かれました。 お名前は、ティオフィル・ダニーロヴィチ・リヒテル ポーランド領ブレゼーニャ出身のピアノ職人がリヒテルさんの祖父です。 19世紀中頃にドイツ人の東方進出の流れにのって、ジトミルに移住されました。 そこで1872年に父ティオフィルさんが生まれました。ティオフィルさんは1890年ぐらいにウィーンに留学し、音楽を学びました。同級生には、作曲家フランツ・シュレッカーがいたそうで、グリーグとも知り合いになったそうです。 大学卒業後もウィーンにとどまり、音楽の家庭教師をし、コンサートを開いていたそうです。お母さんとの出会いは、ウィーン。1912年、お父さんがお母さんのピアノの家庭教師をしたことがきっかけです。 |
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誕生にまつわるエピソードはありますか? |
身分や年齢の差(42歳と22歳)などの障害をのりこえた激しい恋だったんでしょうね。また、なかなか劇的な年に誕生されたと思います。 アンナさんのお父さんはウクライナの大地主でいまでいえば県会議長でした。つまり、地方の名士です。ティオフィルさんの方は、外人街(ドイツ人街)に住む土地なしの音楽家でした。ですから、アンナさんのお父さんは、身分がちがうと考えて、結婚には、反対されたそうです。でも、1914年に無事結婚。新婚旅行は、オーストリア帝国の首都ウィーン。当時の風習らしく新婚旅行は一月以上になる予定でした。しかし、世界史に残る事件が起こります。セルビアの一青年にオーストリア皇太子が狙撃される事件。つまり、第一次世界大戦のきっかけとなる事件が新婚旅行中に起こります。ふたりは、あわてて帰国することになります。リヒテルさんが生まれるのは、翌年の3月のことです。 |
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どんな家庭でしたか? |
よくわかりません(笑)。 いろんな家庭的な不幸がありましたが、それはモンサンジョンさんがおつくりのフィルム「エニグマ」か著作「リヒテル」をご覧ください。 ジトーミルで生まれてまもなく、一家は南部の黒海に面した国際都市オデッサに移ります。お父さんがオデッサ音楽院の教授に迎えられたからです。当時のオデッサには、後に有名となる音楽家が少年時代を迎えていました。ピアニストのギレリスさん、バイオリニストのミルシュテインさん、ブダペスト四重奏団の第一バイオリン奏者ロイスマンさんなどです。 |
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どんな幼年時代でしたか? |
音楽家の家庭にうまれたリヒテルさんでしたが、自由奔放な生活をしていたらしいです。 ロシア革命後の内戦がリヒテルさんの幼年時代に大きな影を落とします。リヒテルさんは、4年間も父母に出会えない年月を過ごします。3歳から7歳。父母に最も甘えたい年月です。事情はこうです。お母さんとジトミルで過ごしていたときに、父がチフスに罹ります。お母さんはリヒテルさんをおいて看病に向かいます。しかし、内戦の混乱に巻き込まれて、帰ることができません。オデッサは、白軍と赤軍が争奪戦を演じていたのです。最終的に、赤軍が奪還し情勢は落ち着くのです。それに4年間かかりました。その間、画家である叔母に育てられたそうです。やがて学校。ロシア人の学校ではなく、ドイツ人学校です。 |
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ピアノや音楽との出会いは? |
ピアノを弾き始めたのは、7歳か8歳のことだそうです。 ご自身の言葉によると「8歳のころ、試しにはじめてピアノを弾いたときに発見した音楽に、夢中になりすぎてしまった」(モンサンジョン本)ということです。いまの日本では子どもたちは、8歳より早い時期にピアノを習い始めるのではないでしょうか。リヒテルさんの本を読むとピアニストの家庭であるにもかかわらず、ピアノを弾くように強制された節はどこにもありません。お母さんも、音階練習などには関心がない様子。お父さんはそうではなかったようですが、ご本人は一切音階練習はしなかったとおっしゃっています。では、なにからはじめたのか?最初がショパンのノクターン第一番、つぎが練習曲作品25の5.....。唖然とするしかありません。 |
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ピアニストになろうと決めたのはいつごろですか? |
ご本人は、16歳だとおっしゃっています。 生まれながらの才能は、ピアノの練習でも発揮されていますが、初見の能力もすさまじいものがありました。このために、14歳でピアノで生活費をかせぐことができるようになったのです。劇場の練習用ピアニストとして。しかし、最初ひかれたのは、オペラの世界です。つまり、指揮者ということになります。ピアニストになろうと思ったのは、そのあとのことだそうです。 |
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どなたに音楽を学びましたか? |
ご本人は、三人の教師をあげています。父、ネイガウス、そしてワーグナー。 父は、オデッサの教授でしたが、スターリン体制の確立のなかで、またドイツとの関係悪化のなかで、スパイ容疑をかけられる事件が起こります。ドイツ大使館の領事の娘にレッスンを頼まれたのがその直接の原因です。結果として、オデッサ音楽院を追われることに。戦争の気配が濃厚となるなかで、1937年、22歳のリヒテルさんは、モスクワ音楽院の門をたたきます。この年齢は、ピアニストとしてデビューをはたしていても、おかしくない年齢です。ご本人は、徴兵を逃れるためとほのめかしていますが、モスクワ音楽院を選んだのは、随一をうたわれた教授ネイガウスさんがいたからです。ネイガウスさんに父の面影を感じていたからだともいっています。まったく正式な教育をうけていない生徒をうけいれたのが、ネイガウスさんでした。「これは天才だ」と。 |
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初リサイタルは? |
リヒテルさんの初リサイタルは、19歳のとき、オデッサです。つまり、音楽院に入学するまえのことです。このときのプログラムは、オール・ショパンです。場所は、技師会館で、客席は300〜400人だそうです。でも、これはアマチュアとしてのもので、プロとしてのデビューは、ずっとあとです。 |
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どんな生徒時代でしたか? |
ひとくちにいうと、はみだし人間でした。 政治教育をはじめとして、正規の教育をさぼっては、放校処分を二度にわたってうけます。それを救ったのが、ネイガウスさんでした。父のような愛情がそこにはありました。ネイガウスさん自身もドイツ人だということで、国外演奏を許されず、さらに重大な迫害をうける身でした。音楽という面では、サークルの世話役となり、古今の重要な曲目をつぎつぎと学び、演奏してゆきました。正規の音楽院の演奏会を食ってしまう人気でした。のちにも音楽祭を自ら主催されますが、ひとりで孤独を楽しむ変人タイプではなかったのです。サークルの100回目の記念の演奏会の日、ナチスがソ連に侵攻します。会は中止。予定されていた、リヒテルさんのプロとしての初リサイタルも延期です。 |
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ピアニストとしての「運命の転換点」いつ、どのような形でおとずれますか? |
リヒテルさんのピアニストとしての第一の転換点は、まちがいなくモスクワ音楽院での教授ネイガウスさんとの出会いです。 ネイガウスさんをつうじて、作曲家プロコフィエフさんに認められます。プロコフィエフさんのピアノ・ソナタ第6番の初演。さらに、1941年にピアノ協奏曲第5番の演奏会の大成功によって、リヒテルさんの名声が確立します。 |
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リヒテルさんが「伝説のピアニスト」とよばれたのはなぜですか? |
リヒテルさんが西欧になかなか登場しなかったからです。 リヒテルさんは、ドイツ人の父を持っています。そのため、ソ連内でのパスポートにはドイツ人と記載されていました。さらに、母は第二次世界大戦の混乱のなかで、父を捨てて(母の対応が原因で銃殺されます)、別の男性とドイツに移住します。これらのために、巨大な名声をソ連内で築きながら、国外への演奏旅行を当局が認めようとしなかったのです。名声は国境をこえてゆきますが、ソ連以外の国民は生でリヒテルさんを聴くことができませんでした。これが「伝説」という名のおこりです。国外演奏旅行がはじめて認められたのは、1950年のこと。西欧へは、1960年が最初です。 |
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日本に来られたことがありますか? |
はい。1970年を皮切りに、ほぼ2年おきになんども来日公演されています。 | |
レパートリーについてのお考えは? |
《私の原則は、自分の心底好きな曲しか弾かぬこと(そしてたんに一般に認められているだけの曲は弾かぬこと)だ。この原則にじぶんはほとんど常に忠実である》(「音楽をめぐる手帳」71年3月『リヒテル』241n)ということらしいです。 | |
最も得意な曲目は? |
ご本人にきくしかありません。 レバートリーの広さは驚異的ですから。900曲を超えています。しかし、レバートリーの中心を占めるのは、ショパン、ラフマニノフ、ドビュッシー、ベートーヴェン、プロコフィエフです。つづいて、シューマン、バッハ、ブラームス、シューベルト。 |
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録音についてのお考え方はどんなものですか? |
『曲が正しく弾かれてさえいれば、録音技術などいささかも問題になりえない。』そうです。 リヒテルさんは、自分自身の覚え書き「音楽をめぐる手帳」につぎのように記されています。 『曲が正しく弾かれてさえいれば、録音技術などいささかも問題になりえない。ところが今や多くの聴き手は録音技術の質の方に多大の意味を見出すようなのだ。思うにそれは、そういうことの方がよくわかって、音楽よりもそっちの方を愛するからなのだ。そういう人たちは演奏というものを真に行う人間を身近に実感することができない。これは、現代という機械とテクノロジーの時代をよく反映する事柄だ。人々は自然や人間的感情からますます離れ...徐々に自身が機械になってゆく(プロコフィエフはこれを第6番のソナタで何と生き生きとユーモアたっぷりに表現してみせたことか!)』(『リヒテル』253n) |
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リヒテルさんのピアニストとしての、特質はどこにあると思いますか? |
外見的な特徴は、演奏技術のすごさです。本質的には、集中力の高さ、強固な構成力、ディフォメも辞さないつきつめた解釈などではないかと思います。 |