「演奏家の思想」?

 今日図書館にでかけてきました。書棚にあったのが『演奏家の思想』。これは、音楽之友社のシリーズ「クラシック音楽の20世紀」の第3巻にあたるものです。出版年は1992年。10年ほどまえの本です。
 その場で、ページをつぎつぎにめくりました。CD紹介は飛ばして、リヒテルさんの項目へ。本人のことばとして、つぎのような文がありました。

 『好評の演奏者がなにか現代の曲をとりあげるならば、それによって自分の資質を確認するようにわたしには思われる。
 聴衆は演奏される作品に全幅の信頼をもって向かうことができるし、それを理解しようとつとめなければならない。演奏者の耳はより訓練されていて、音楽的教養のおかげで、作品の価値をもって深く判断することができるのだ。
 聴衆の趣味の教育と、演奏者たちの職業的技芸のために大きな意味をもっているのは、レパートリーの選択である。われわれのコンサートのレパートリーは、安易な理解を当てこみ、あまりに一面的に作られていないだろうか?われわれはロマンティックな音楽に聴衆をあまりになれさせてしまったのではなかろうか?バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ハイドンなど、ベートーヴェン以前の古典的音楽をもっとはるかにたくさん演奏すべきであろう。わたしの意見では、少なくともわれわれのレパートリーの三分の一はこれにあてる方がよかろう。それは演奏者にとって「試金石」であり、数世代の作曲家たちのインスピレーションの源泉である。それは、音楽全体の土台である。
 われわれは、われわれの聴衆に新しい西ヨーロッパ音楽の最良の見本をあまり紹介していない。この場合、罪の一半は演奏者にあると考える。』

 「演奏者の思想」で紹介されたこの言葉は、V・デリソン著『リヒテル―――魅惑の鍵盤』(中本信幸訳・1970年・新時代社刊)からの引用です。わたしは孫引きをしたことになりますね。
 本人の言葉として紹介されていますから、とても注意深く読みました。
 余談ですけれど、最初の一文は日本語として不自然な気がします。原文は手に入るのでしょうか?
 それはともかく、これらの言葉は、たしかにリヒテルさんの生き方を反映したものだと思います。いわれているように、リヒテルさんは、当時のソ連の演奏会のレパートリーに、異質なものを持ち込みました。それは、上に挙げられているバッハやハイドンだけではありません。シューベルトもそうです。そういう生き方に合致した言葉ですけれど、それを黙々とした生き方で語るのではなく上記のように言葉で表現すること、それに理屈をつけること、また公にまるで政治主張のように発言するは、リヒテルさんらしいとは思いません。
 編者が、リヒテルさんの言葉を整えたのかも知れません。
 しかし、リヒテルさんらしい毒を含んだ部分は残っていますね。
 「罪の一半は演奏者」―――では、残りは? 

        2001年11月20日
                        TANUPON
 



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