西暦 | 出来事 |
1930年 | 1月 2月 3月20日 リヒテルさんの15歳の誕生日 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 レーニン廟が石造りに改築される 12月29日〜30日 ホロヴィッツさんが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を録音 アルバート・コーツ指揮のロンドン交響楽団と ★指揮者コーツ氏も、ロシア革命によって運命が変わった一人です。CDの解説書をそのまま引用します。 『指揮者アルバート・コーツは、ロシアのセント・ペテルブルグ(現レニングラード:ママ)に生まれ、ライプツィヒでニキシュに師事し、1911年から帝室マリンスキー劇場の指揮者をつとめた。しかしロシア革命後、イギリスに亡命し、1919年からコヴェント・ガーデン王立歌劇場に常時出演したほか1922年から25年までロンドン交響楽団の首席指揮者のつとめも果たした。その後アメリカのロチェスター・フィルの音楽監督その他を歴任し、世界各地にゲストとして出演した。しかし、第2次世界大戦後、南アフリカに去って、ふたたび欧米の音楽中心地で活躍することはなく、7年後に他界した。コーツは戦前のSPに多くの録音をのこしているが、このラフマニノフの〈ピアノ協奏曲第3番〉は、作曲者、独奏者、指揮者が全部ロシア人であることでも話題にのぼる。』(EMI TOCE・6161〜63の藁科雅美さんの解説から) この年、ショスタコーヴィッチの交響曲第3番が、アレクサンドル・ガウク指揮のレニングラード交響楽団によって初演される |
1931年 | 16歳 オデッサ歌劇場の伴奏ピアニストなる。 下の写真は、オデッサ・フィルハーモニーの建物の入り口 リヒテルさんは、17歳でオデッサ・フィル所属の伴奏ピアニストとして雇われました。 ![]() 下の写真は、オデッサの歌劇場を空中から撮影したものです。背景に見えるのは、黒海です。 リヒテルさんが通った場所です。 ![]() 近くの緑の公園からみたオデッサ歌劇場。再建後の姿ですが、リヒテルさんはここで伴奏ピアニストの仕事をし、またバレーやオペラを楽しみました。 夏 母の生地のジトーミルで父の古くからの友人セミョーノフ家の八人姉妹のまえでシューマンの協奏曲を弾く。翌日に花束が届く。『lこの八人姉妹が私の最初の聴衆になりました、私が成功を収めた最初の聴衆に。事実、このできごとが私の将来を決定しました。まさにこのときに、ピアニストになりたいと思ったのですから。』(「リヒテル」52n) 夏 ソビエト宮殿の敷地確保のために救世主キリスト大寺院が爆破される こういうことは、リヒテルさんの故郷オデッサでも頻発。 プロコフィエフが左手のための協奏曲を作曲 ムラヴィンスキーが、ボリショイ・オペラの副指揮者となる(1931〜1937年) |
1932年 | プロコフィエフがピアノ協奏曲第5番を完成 ショスタコーヴィチさんが『ムツェンスクのマクベス夫人』を完成→のちのスターリンからの非難の種となる これらの時代の特徴については、ショーンバーグによる見事な解説がある。以下長いが引用。 《1920年代初期のロシアでは、あらゆる芸術面での実験的作品が歓迎されていた。ウセフォロド・メイヤーホルト、ウラジミル・マヤコフスキー、ニコライ・オフロポコフら、創造力豊かな芸術家に占められていた演劇界は、伝統と見れば片っ端から粉砕していた。セルゲイ・エイゼンシュタインは映画に新次元をもたらしていた。絵画と彫刻では、モダニズムが公式スタイル並みに取り扱われ、ナウム・ガボらの構成派が主流として頭角を現していた。革命から出てきた創作者たちは、彼らと芸術とロシアの政治が同じ方向に進んでいると、本気で信じ込んでいた。画家のカシミール・マレヴィッチは「立体派と未来派は1917年革命の政治、経済生活を予言した革命的な芸術であった」と述べた。しかし1930年には、価値観全体が変化し、歴史の皮肉によって革命ロシアが、革命とは正反対の、凡庸で決まりきった表現の芸術を生産し始めた。 この変化は一つには、スターリンのブルジョア的性格を表しているが、それにもまして、レーニンの言葉(そしてレーニンの言葉は神聖にして絶対服従すべきものだった)から発祥した、ソビエトの公式教義によるものだった。ロシアの芸術理論と官僚は、出発点として「芸術は人民に属する」というレーニンの言葉を援用した。芸術はソビエトのプロパガンダの道具となり、社会主義リアリズムが生まれた。独裁制においては芸術は常に、ほぼ同様な形で処理され、異なるのは用語だけである。ヒトラーはアヴァン・ギャルド美術と音楽を禁止するとき、それらがボルシェヴィズムの退廃文化を表しているからだと主張したが、スターリンは、退廃的な帝国主義的、資本主義的な形式主義であるとの理由で、同じアヴァン・ギャルド芸術を締め出した。 冒険的な音楽はどんなものでも、ソ連では禁止され、作曲家は書くことができず、聴衆は聴くことができなくなった。一切の十二音音楽、バルトークやヒンデミットの全作品、『ペトルーシュカ』以後のストラヴィンスキーの全作品(となると、ほとんど何も残らない)、抽象主義の気配がいささかでもある作品はすべて禁止された。国内は鎖国状態になった。外国出版物は持ち込みを許されず、外国ラジオ放送は電波妨害を受けた。ソビエトの作曲家は、世界で起こっている出来事を知る手段がほとんどなくなった。ロシアの美術、文学、音楽は、いまわしい画一主義のとばりで覆われ、批評家―――すべて政府の教義に関する公式スポークスマン―――は、音楽をそれ自体の価値でなく、その教義的純粋さに基づいて評価するために、異様な特殊用語を発明した。...作曲家が最も恐れた非難は「形式主義」であった。この言葉の正確な意味はだれも知らなかったが、もし作曲家が形式主義という非難を受ければ、行いを改める方がよいということになった。大体において音楽上の形式主義とは、何にもよらずモダンで不協和音的なもの、何によらず「悲観主義的」なもの、何によらずソビエトの労働者の英雄的理想を反映していないもの、のことであった。「形式主義とは一度聴いただけでは理解できない音楽に与えられた名前である」とプロコフィエフは言った。》「大作曲家」下234n 2月3日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第27番 を録音 第2回ショパン・コンクール開催 国際コンクールとなる 3月6日〜23日 参加者は、18カ国 89名 第1位 アレクサンドル・ウニンスキー(フランス) 第2位 イムレ・ウンガール(ハンガリー) 第3位 ボレスワフ・コン(ポーランド) 第4位 アブラム・ルーフェル(ソ連) 第5位 ラヨシュ・ケントナー(ハンガリー) 第6位 レオニード・サガロフ(ソ連) 3月21日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第31番と第32番 を録音 3月22日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第24番と第30番を録音 3月25日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第9番と第18番 を録音 6月28日 プロコフィエフが自作のピアノ協奏曲第3番を演奏。録音 NAXOS 8110670 ![]() 10月31日 ベルリンでフルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルのサポートでプロコフィエフ自身がピアノ協奏曲第5番を初演 11月1日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第13番 を録音 11月11日 ホロヴィッツさんが、ハイドンのピアノ・ソナタ変ホ長調Hob.XV−52を録音 11月12日 ホロヴィッツさんが、リストのピアノ・ソナタを録音 11月19日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第19番 を録音 11月28日 ウィルヘルム・バックハウスが、アドリアン・ボールド指揮のBBC交響楽団とブラームスのピアノ協奏曲第一番をスタジオ録音 CD EMI 7243 5 66418 2 2 |
1933年 | 18歳 オデッサ歌劇場の副指揮者になる。 ジトーミルでダヴィード・オイストラフのリサイタルを聴く。伴奏者のピアノを聴いて、自分もリサイタルを開くことを決意する。 オデッサのすべの教会の破壊がおこなわれる リヒテルさんの父はドイツ領事館でピアノ教授をしたあと、尋問されるなど、ソヴェト当局と音楽院の敵意にさらされ、やがて職を追放されることになる。それらは後年の銃殺刑と無縁ではなかっった 2月17日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第15番 を録音 4月9日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第2番 を録音 4月10日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第6番 を録音 4月11日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第22番と第23番「熱情」 を録音 4月12日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第11番と第20番 を録音 4月13日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第26番「告別」 を録音 4月23日と24日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第1番 op.2-1を録音 プロコフィエフが亡命先から帰国する 10月15日 ショスタコーヴィチさんのピアノ協奏曲第1番の初演 ピアノは作曲者 12月21日 ホロヴィッツがトスカニーニの娘ワンダと結婚した |
1934年 | 19歳 リヒテルさん生涯最初のリサイタル![]() 3月19日 オデッサの海員会館でリヒテルさんは生涯最初のリサイタルをひらく(19歳)。幻想ポロネーズ、スケルツォ第4番、バラード第4番、ノクターン作品55の1と2、作品10のエチュードから2曲、作品28にエチュードから8曲などオール・ショパンのプログラム。音楽界からは黙殺される。 4月2日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第14番「月光」 を録音 4月23日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」と 第10番 を録音 4月24日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第28番を録音 4月25日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第12番と第21番「ワルトシュタイン」 を録音 4月26日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第3番 を録音 4月27と28日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番 を録音 この年から、ムラヴィンスキーは、キーロフ歌劇場の副指揮者とバレー指揮者となる 8月 第一回ソ連作家大会が開催:ジダーノフ演説 →「社会主義リアリズム」をかかげるこの演説はソ連の文化に深刻で重大な影響を及ぼす →この演説は『党と文化問題』(国民文庫 大月書店 1954)に全文が掲載されている。 12月1日 キーロフ暗殺:スターリンによる”大粛清”の幕開き |
1935年 | リヒテルさん20歳 『1935年から36年にかけて、自宅のベルが鳴るたびにこわい思いをしました。夜はとくにそうでした。それに関係した変な夢のことを今も覚えています。...この夢は、明らかに呼び鈴への恐怖に関係しています。もちろん逮捕が頻繁な時代でしたから。歌劇場の状況はおそるべきものでした。「粛清」の時代です』(「リヒテル」60-61n) シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタの校訂版=シュナーベル版を出版. 2月13日 フィッシャーさんが、バッハの平均率クラビア曲集第2巻第2番を録音 3月17日 ホロヴィッツさんが、トスカニーニ指揮のニューヨーク・フィルとブラームスのピアノ協奏曲第1番を演奏 CD APR 6001 3月20日 リヒテルさん20歳の誕生日 6月2日 ホロヴィッツさんが、ドメニコ・スカルラッティのソナタ ト長調 KK.125(L.487)を録音 ホロヴィッツさんは、ドメニコ・スカルラッティのソナタの真価を認めて、レパートリーに組み入れた先駆者です。しかし、リヒテルさんは、スカルラッティは演奏も録音もされていません。 6月3日から7日 フィッシャーさんが、バッハの平均率クラビア曲集第2巻第1番、第3番から10番を録音 6月4日 ホロヴィッツさんが、ドメニコ・スカルラッティのソナタ ロ短調 KK.81(L.33)を録音 11月3と4日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラービア」を録音 リヒテルさんは、1974年1月20日付けの《音楽をめぐる手帳》にこの演奏のことをつぎのように書き記されています。 『そう、メトロノーム指示を決して信用してはならないのだ。その証拠が《ハンマークラヴィア》を弾いたシュナーベルの録音だ。文字通り聞けたものではなく、到底受け容れ難い。』(『リヒテル』287n) 11月5と6日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第16番 を録音 11月6日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第5番 op.10-1を録音 11月11日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第4番 op.7 を録音 11月12日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第7番 op.10-3を録音 11月15日 シュナーベルさんがベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第25番 を録音 この年、アルフレット・コルトーがシューマンのパピヨン作品2、クライスレリアーナ作品16を録音する CD DANTE HPC004〜5 に収録 下のCDは別のレーベルから出ているもの ![]() |
1936年 | スターリンがショスタコーヴィッチ批判 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を観劇後に「荒唐無稽」 ![]() 6月3日から6日 フィッシャーさんが、バッハの平均率クラビア曲集第2巻第11番から24番を録音 ![]() 8月19日〜24日 モスクワ裁判 ジノヴィエフ、カーメネフらに死刑宣告(ふたりともボリシェヴィキの最高幹部) ガリーナ自伝から 『1936年8月、ショスタコーヴィッチのオペラの周辺で怒りが渦巻き、彼自身がボリショイ劇場の前で逮捕されるのは今日か明日かと思っていたとき、労働組合会館の十月革命ホールでは異様な道化芝居が演じられていた。それはトロツキストの見せしめ裁判であった。そこに登場する役者はジノーヴィエフ、カーメネフ、スミルノーフ、エフドキーモフ、バカーエフ、ムラチコーフスキー、テル=ヴァガーニャンその他であった。これら革命の幹部たちはすべて銃殺され、その妻、子供、両親たちも、同じように強制収容所に送られるか、投獄されるか、銃殺されるかした。そしてそのすぐ近くにいたのが一群の若い音楽家であり、ワルシャワ、ヴィーン、ブリュッセルでの国際コンクールの入賞者であった。彼らはボリス・ゴールドシティン、リーザ・ギーレリス、ダヴィート・オイストラフ、マリーナ・コゾルーポヴァ、エミール・ギレリスであった。彼らがモスクワに帰ってくると、スターリンの命令で、彼らはすべて勲章とアパートと自動車と賞金をあたえられた。彼らの多くは、生存中は国家の収集物である高度の品質の楽器を提供されたのだ。この国には宣伝者が必要であり、国際社会はこうした新しい星たちの光に眩惑され、その蔭で何百万人の奴隷の群れが共産主義のスターリン的大工事現場に閉じこめられているのが目に入らなかったのである。』(『ガリーナ自伝』 237-238n) 11月 カザルスさんがバッハの無伴奏チェロ組曲第2番と第3番を録音 |
1937年 | 22歳 リヒテルさんモスクワ音楽院入学 リヒテルさんはネイガウスに演奏を聴いてもらい、所定の手続きなしでモスクワ音楽院入学を許可される。以後、ネイガウスの弟子となる ![]() ネイガウス先生とお弟子さん達。リヒテルさんもいますね。 ![]() 1月15日 シュナーベルさんがシューベルトのピアノ・ソナタ D959 を録音 第3回 ショパン・コンクール開催 2月21日〜3月12日 21カ国 79名が参加 日本からもはじめて参加者(原智恵子さんと甲斐美和さん)が 審査員には、バックハウスさんも。 第1位 ヤコフ・ザーク(ソ連) 第2位 ローザ・タマルキーナ(ソ連) 第3位 ヴィトルト・マウツジンスキ(ポーランド) 第4位 ランス・ドソール(イギリス) 第5位 アギ・ジャンポール(ハンガリー) 第6位 エディット・アクセンフェルト(ドイツ) リヒテルさんとおなじゲンリヒ・ネイガウス門下のザークさんが優勝 リヒテルさんは、ザークさんについても、語っていますね。 3月 4月 5月 6月12日 第2次モスクワ裁判 ショスタコーヴィッチの友人でもあった赤軍参謀総長トゥハチェフスキーらが死刑を宣告され、翌日銃殺された 夏 ショスタコーヴィッチが交響曲第5番を完成する →「それはまさしくみずからを救いあげるための錨であった」(「驚くべき」14n) ショスタコーヴィチ交響曲第5番初演 11月21日 ショスタコーヴィチ交響曲第5番がムラヴィンスキー指揮のレニングラード交響楽団によって初演 この年、アルフレット・コルトーがシューマンのダヴィット同盟舞曲集 作品6 を録音する CD DANTE HPC005 |
1938年 | 3月2日〜13日 第3次モスクワ裁判 ブハーリン、ルイコフらが処刑される ガリーナは、自伝のなかで、これらの被告にたいしても憎しみを隠していない。それは、正当な評価であろうか。 『.....今回は被告の中にブハーリン、ルイコフ、クレスティンスキー、ラコーフスキー、ヤーコダ―――NKVD長官だったサディストで死刑執行人―――が含まれていた。なぜ私はここでそうしたボリシェヴィキの名前を列挙しているのだろうか。私は彼らのいずれにたいしても同情していない。彼らはみんな同じ野獣の巣から出てきて、たがいに相手をむさぼり食ったのだ。』(『ガリーナ自伝』 239n) 6月 カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲第4番と6番を録音 全ソ連指揮者コンクール =ムラヴィンスキーが優勝 ムラヴィンスキーの運命をかける事件である。 これをきっかけに、レニングラード交響楽団の首席指揮者となる(〜1982年) リヒテルさんの「音楽をめぐる手帳」1972年1月27日から 『エフゲーニィ・ムラヴィンスキーは疑いなくわが国最良の指揮者である、その事実は1930年代末にモスクワで行われた指揮者コンクールの直後に決定してしまった。彼の振ったリストの《前奏曲》を覚えている。そのあとでは、ほかのコンクール参加者全員が口惜し涙にくれたものだった。』(『リヒテル』255〜256n) 11月 エドヴィン・フィッシャーさんが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品110を録音 CDは、URNIA URN 22.175 |
1939年 | 1月25日 シュナーベルさんがシューベルトのピアノ・ソナタ D960 を録音 1月26と27日 シュナーベルさんがシューベルトのピアノ・ソナタ D850 を録音 3月20日 リヒテルさんの24歳の誕生日 6月 カザルスさんがバッハの無伴奏チェロ組曲第4番と第5番を録音(6曲の録音の完成) ![]() 6月 ウィルヘルム・バックハウスがカール・ベーム指揮のザクセン・シュターツカペルとブラームスのピアノ協奏曲第2番を録音 CDは、EMI 7243 5 66413 2 2 8月23日 独ソ不可侵条約締結 領土分割の秘密の議定書もあり 8月29日 ルツェルン ホロヴィッツさんが、トスカニーニ指揮のルツェルン国際音楽祭管弦楽団とブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏 CDは、APR 6001 9月1日 ソ連がポーランド侵攻 11月29日 ソ連がフィンランドへ宣戦布告 40年3月12日まで ヴェルディニコフとバッハの二台ピアノのための協奏曲を弾く(CDで聴けるのは1959年12月21日の同じ顔ぶれでの演奏) 12月4日 国際連盟がフィンランドへの侵攻を理由にソ連を除名する |