西暦                                出来事
1900年
1901年 ラフマニノフがピアノ協奏曲第2番ハ短調を完成
1902年
1903年 6月4日 エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー誕生。サンクトペテルブルグで。
      (〜1988年1月19日)   ソ連が生んだ20世紀最大の指揮者の一人
10月1日 ウラジーミル・ホロヴィッツ誕生(多くの文献は1904年)
  →デヴィド・デュバル『ホロヴィッツの夕べ』(小藤隆志訳 青土社 2001年)23n参照
    生誕地はキエフでなくて、キエフから80q離れたベルディチェフだそうである
    ユダヤ人に対する規制が緩和されるとともに、まもなく一家はキエフに移住
12月31日 バイオリニストのミルシュテインがオデッサで誕生
   ホロヴィッツとミルシュテイン自身の生年月日についてミルシュテンはつぎのように証言している。
《私は1903年の12月31日に生まれた。22年後、同い年のピアニストのウラジーミル・ホロヴィッツ(ヴォロージャと呼んでいた)とロシアを去って西欧に行こうとしたとき、私たちは年齢を一歳若くごまかさなければならなかった。そうでないと兵役のために国外に出ることを許可されない。これが後にいろいろなところで私とホロヴィッツの生年が1904年になっている理由だが、実際はそうではない。》(ミルステイン「ロシアから」5n)
ロシア社会民主労働党第二回党大会(再建大会)。
       レーニン率いるボリシェヴィキとメンシェヴィキへの分裂
ライト兄弟が飛行機で初飛行
1904年 プロコフィエフ(13歳)がペテルブルグ音楽院に入学。
《ピアノはアネット・エシポフから学んだ。彼女は有名な教師テオドール・レシェティツキーの、多数の妻の一人だった。レシェティツキーのレッスン室からは、パデレフスキー、シュナーベル、ガブリロヴィッチ、フリードマンといった有名なピアニストが輩出し、エシポフも当時、最上のピアニストの一人と認められていた》(ショーンバーグ『大作曲家の生涯』下 共同通信社1978年 226n)
 
日露戦争始まる 
1905年 1月9(22)日 血の日曜日事件→第一次ロシア革命が起こる
5月 日本海海戦でバルチック艦隊が日本海軍により殲滅させられる

ユージン・フランシス・チャールズ・ダルベール(バックハウスの先生)が、
シューベルトの即興曲 D.899 第3番を録音する
 これは、ピアノロールに録音されていて、生々しい美音で再生されている。
CDは、BELLAPHON 690−07−012
このCDには、1931年までの録音が収録されている。
自作以外に、ショパン、バッハ、ドビュッシー、サン=サーンス、リストなど。

1906年 ゴリデンヴェイゼル(ゴールデンワイザー)がモスクワ音楽院の教授となる(〜1961年)
下のCDで、ゴリデンヴェイゼルの演奏が聴けます

 →リヒテルさん自身の評価
 《ピアノのロシア学派の三本の柱、それは(国を離れ、私の知るかぎり、教鞭をとったことのなかったラフマニノフを別にすれば)ゴリデンヴェイゼル、イグームノフ、それにネイガウスでした》(「リヒテル」69n)
9月25日 ドミトリー・ショスタコーヴィチ、サンクト・ペテルブルグに生まれる
ストラヴィンスキーがリムスキー=コルサコフのもとで作曲を学ぶ(〜1909)
1907年 ラフマニノフがピアノ・ソナタ第1番ニ短調作品28を作曲
1908年 6月21日 リムスキー=コルサコフが死去
《彼の死とともに、ロシア音楽の偉大な一時代は終わった。次の時代の幕は、二年後にストラヴィンスキーの『火の鳥』の初演によって切って落とされた。》(「大作曲家」中 288n)
1909年 プロコフィエフが「悪魔的暗示」を作曲:反ロマン的傾向
5月 ロシア・バレエ団が、パリのシャトレ座で「ロシア・シーズン、オペラとバレエ」を上演
1910年 ロシア音楽のひとつの流れとしてのプリミティズム
 →代表はストラヴィンスキーとプロコフィエフ
3月6日 プロコフィエフ自身がピアノ・ソナタ第1番を初演
ストラヴィンスキー「火の鳥」作曲
1911年 プロコフィエフがピアノ協奏曲第一番を完成
    →リヒテルさんのCDの紹介。1962年にキリル・コンドラシン指揮のモスクワ・ユース管弦楽団との録音

スクリャービンがピアノ・ソナタ第6番と第7番を作曲
ストラヴィンスキーが「ペトルーシュカ」を作曲
6月 ロシア・バレエ団が「ペトルーシュカ」を上演。団の人気は頂点に達する
下の写真は、ストラヴィンスキーとダンサーのニジンスキー
1912年 プロコフィエフがピアノ・ソナタ第2番を完成
8月7日 プロコフィエフ自身がピアノ協奏曲第1番を初演
  リヒテルさんの演奏は、つぎのCDで聴くことが出来ます。
     1952年 モスクワ  コンドラシン指揮のモスクワ・ユース交響楽団 MELODIYA 29468−2
     1954年5月  プラハ  アンチェル指揮のプラハ交響楽団と SUPRAPHON COCO−80745
写真は、MELODIYA 29468−2

夏 ウィーンでリヒテルの父テオフィルとのちに母となるアンナ・パヴロヴナ・モスカリョーワが出会う。母は父の生徒になる。つまりお母さんもピアノを弾いたわけである。
 ←アンナ・モスカリョーワ(リヒテルさんのお母さん)
1913年 5月 パリのシャンゼリゼ座でストラヴィンスキー作曲のバレイ「春の祭典」を上演。
   大きなスキャンダルを生む。指揮は、ピエール・モントー、振り付けはニジンスキー
8月23日 プロコフィエフ自身がピアノ協奏曲第2番(第1版)を初演
ラフマニノフがピアノ・ソナタ第2番変ロ短調作品36を作曲(1931年改訂)
ニキシュがラッパ式のマイクでベートーヴェンの交響曲第5番を録音
1914年 2月5日 プロコフィエフ自身が、ピアノ・ソナタ第2番を初演
   →このソナタをリヒテルさんは演奏者としての最後の年(1995)に繰りかえし演奏している
     1950年6月23日 モスクワでのライヴ録音 RUSSIAN MASTERS RM 10
     1964年12月30日 モスクワでのライヴ録音 RUSSIAN MASTERS RM 03
     1965年2月9日 プラハでのライヴ録音 PRAGA PR 250 015
     1965年4月19日 ニューヨークでのライヴ録音 DOREMI DHR−7758
     1965年4月22日 ニューヨークでのライヴ録音 AS DISC AS 340
     1989年2月20日 ウィーンでのライヴ録音 LONDON 436 451−2
     1994年5月19日 ルードヴィヒブルグでのライヴ録音 LIVE CLASSICS LCL 472
6月15日 サラエヴァでオーストリア皇太子暗殺(第一次世界大戦のはじまり)

リヒテルの父母が結婚(父テォフィルさんが42歳のときです)。
新婚旅行先は、ウィーン。
だが、サラエヴォ事件を知り、ロシアに急いで戻る
プロコフィエフがルビンシュタイン賞をうける
1915年 3月20日 スビャトスラフ・リヒテルさん誕生(ジトーミルにて)
ジトミルは、キエフから西に120q、オデッサからは北に440qの小都市。

まもなく父テオフィルはオデッサ音楽院の教授にむかえられる

一家はオデッサへ移転

      オデッサ市については、以下のサイトの写真をお借りしました。
       http://odessa-ukraine.hypermart.net/

オデッサには、オデッサ音楽院や、オデッサ・フィルがあり、オデッサ歌劇場もありました。また、たくさんの音楽家が演奏会を開きに来訪していました。作曲家のグラズノフ、有名なバイオリニストのアウアーや後にリヒテルさんの先生となるゲンリヒ・ネイガウスさんなど。
 また、市内には大きなユダヤ人居住区があり、そこから世界的な音楽家が育っています。ピアニストのギレリスさん、バイオリニストのミルシュテインさん、レオニード・コーガンさんロイスマンさん、などなど。

オデッサを海からみた写真。1905年の第一次ロシア革命で戦場となり、多くの労働者が殺害されたポチョムキンスカヤ階段が見えます。


リヒテルさん一家は2年ばかりジトーミルとオデッサを行き来して過ごしました

オデッサで、グラズノフの生誕50年を記念するコンサートが開催される。12歳のミルシュテインは、グラズノフの指揮でグラズノフのバイオリン協奏曲を演奏する(「ロシアから」18n)
4月27日 アレクサンドル・スクリャービン死去


亀山郁夫さんは、『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書)のなかで、スクリャービンについて触れて、つぎのように書いています。
『ところで、どのような革命もおおむね二つの段階を経ることで一つの大きな環を閉じる。ロシアの近代音楽史において第一次革命は、早くも1910年代前半に一つのクライマックスを形づくった。ここでもまた芸術の革命が政治の革命に先んじていた。西欧の音楽史に親しんだ人々は、機能和声法や対位法を否定し、複調やポリリズムを幅広く取り入れたストラヴィンスキー(1882-1953)やプロコーフィエフ(1891-1953)ないし、多少とも音楽に詳しい人であれば、無調音楽の先駆者として注目を浴びているロースラヴェツ(1881-1944)の名を思いだすかもしれない。しかし、音楽のジャンルでの革命、とりわけロシアでのそれは決してこれらの人々によって担われていたわけではない。周知のように、ストラヴィンスキーの実験のもつ歴史的意味は、1940年代初めにメシアンによる再発見を経るまで、ヨーロッパ楽壇では久しく忘れ去られる運命にあったが、祖国ロシアでも事情は変わらなかった。
 20世紀のロシア音楽史における第一次革命のにない手は、アレクサンドル・スクリャービン(1871-1915)である。象徴派的な終末論の土壌に、きわめて極端な唯我論を花開かせた彼の音楽は、和声の点でも、リズムの点でもいつのまにか突出した手法を生みだしていた。その典型例が、俗に「プロメテウス和音」と呼ばれる独自の和声を用いた後期のピアノ・ソナタであり、交響曲第五番「プロメテウス」だった。ちなみにこのプロメテウスとは、彼もその一人だった神智論者に共通する崇拝のシンボル・イメージだった。
 1917年の革命は、スクリャービンの死からわずか二年足らずで起こった。裏を返せば、プロレタリアート革命が勃発するつい二年前まで、彼の書斎では物質世界の終わりと魂の完全な解放という終末論的イデーに貫かれた「神秘劇」の革命が進められていたということである。アギト・プロプの具としての音楽の有効性を考えていたルナチャルスキーの当時の批評が興味深い。「スクリャービンの音楽は、革命をロマン主義的に表現した最高峰の傑作である」
 ストラヴィンスキーの手法がいかに斬新であれ、その革命がパリで起こり、しかもなお技法上の革命に留まるかぎり、純ロシア的な革命として認知されなかった。ロシア音楽における革命とは、ひとえに象徴派的な精神において可能な、人間存在の根本的変革を可能にするものでなくてはならなかったのだ。そういう意味で、1917年の歴史的スケールにみあう音楽が、神智論に傾倒し、ほとんど誇大妄想と言えるほどの宇宙論的な自我の音楽を夢想するスクリャービンのそれをおいて他になかったとしてもなんら不思議はない。のちのムゾの指導者となるルリエーも、「ロシアのシェーンベルク」ロースラヴェツも、微分音の開拓者でオラトリオ「存在の目」で知られるヴィシネグラツキーも、構成主義音楽の第一人者として活躍する「鉄工場」のモソローフも、スクリャービン音楽の燃えたつような意志とコスミックな感覚のプリズムを通じて革命を見つめていたということだ。』(136-138n)


プロコフィエフが「スキタイ組曲」作曲

ゲンリヒ・ネイガウス(1888〜1964)さんが、ペテルブルグ音楽院を卒業する。

 ネイガウスさんは、ウクライナの生まれのピアニスト。父ゲンリヒもピアニスト。叔父ブルーメンフィルドも有名なピアニスト。、ポーランドの作曲家のシマノフスキーは、母方の従兄弟にあたるなど、音楽家の家系に生まれました。父グスタフにピアノを習った後、ウィーンに留学し、1914年に帰国し、1915年にペテルブルグ音楽院の卒業が認められるのです。(「巨匠リヒテルの世界」30n参照)
1916年 レオポルド・アウアーがオデッサで演奏会。ミルシュテインに会う
12月 怪僧ラスプーチンがペテルブルグで暗殺される
1917年 3月 ロシア三月革命
ペテルブルグ音楽院でバイオリンを教えていたレオポルド・アウアーがロシアを去る
11月7日 ロシア11月革命。ボリシェビキが政権を奪取
12月23日 ラフマニノフが革命の混乱を避けスカンディナヴィア諸国へ亡命。 死ぬまで帰国せず
プロコフィエフが、『つかの間の影』(大部分)、バイオリン協奏曲ニ長調、古典交響曲などを作曲
1918年 4月15日 プロコフィエフ自身がピアノ・ソナタ第3番を初演
4月17日 プロコフィエフ自身がピアノ・ソナタ第4番を初演
キエフ音楽院でホロヴィッツは、ブーメンフェルトに師事しはじめる
夏 本格的な国内戦、外国の干渉戦争が開始される→オデッサは、赤軍や白軍がいれかわり奪取を繰り返した。
9月15日 第一回プロレタリア文化啓蒙組織全ロシア代表者会議がモスクワで開催される(〜19日)

11月1日 ラフマニノフが、亡命先のオスロからアメリカへ旅立つ
プロコフィエフもロシアを離れる。日本経由でアメリカへ。.

11月11日 第一次世界大戦が終結
3〜7歳までの4年間、革命の混乱で両親と別居を余儀なくされる
1918年の末に、スビャトスラフはジトーミルでチフスに感染する。
 そのとき、父母はオデッサにいた。ロシア革命に伴う内戦や干渉戦争のために、スビャトスラフを迎えにくることができなくなる。4年後にやっと家族のもとにかえる
1919年 3月4日〜6日 白軍が第一次総攻撃開始(ウラルからコルチャーク軍、南部でデェニキン軍、西部でユデェーニチ軍、北部で干渉軍とポーランド白軍)
8月23日 デェニキン軍がオデッサ占領

ショスタコーヴィチさん、13歳でペテルブルグ音楽院に入学を認められる
12月26日 ソビエト人民委員会議が文盲撲滅の布告
1920年 1月、白軍がオデッサを撤退
2月6日 赤軍がオデッサ占領
10月2日 青年共産同盟第三回全ロシア大会(レーニンの演説に注目)
11月3日 政治教育課全ロシア会議(レーニンの演説に注目)

この年、17歳のムラヴィンスキーは、父の死により、生計をたてるため、サンクトペテルブルグ大学を中退する
この年あたりにテープレコーダーの原理が発明される
1921年 3月 クロンシュタットの海軍基地で水平の反乱 →ネップへの転換への重大な契機
プロコフィエフの『三つのオレンジの恋』をシカゴ・オペラが上演。失敗、プロコフィエフはパリへ
10月 第二回政治教育課全ロシア大会
12月16日 シカゴでプロコフィエフ自身がピアノ協奏曲第3番の初演

冬 キエフのホロヴィッツの家にミルシュテインらの演奏家が招待され集まる。そのなかに、ブリュメンフェリトらとともに、ハインリヒ・ネイガウス、つまりリヒテルさんの師匠の姿があった(「ロシアから」60n

この年から、18歳のムラヴィンスキーは、国立バレー学校でコーチとして働き始める(〜1931年)
1922年 7歳のリヒテルさんは母に連れられてオデッサへ。家族と再会を果たす。四年間の空白の後
11月 エジプトでツータンカーメン王の墓が発掘される
1923年 8歳。

上の写真は、モスカリョーフ家を中心にした家族の写真。下段、向かって左から、画家であり、4年間母がわりになって育ててくれた叔母、リヒテルさん本人、祖父、母、父。
リヒテルさん
『8歳のころ、試しにはじめてピアノを弾いたときに発見した音楽に、夢中になりすぎてしまった』(「リヒテル」)

この年、20歳のムラヴィンスキーは、レニングラード音楽院で学ぶ(〜1931年)。
国立バレー学校でコーチとして働きながらである。
 作曲を、ウラディーミル・シチェルバコフに
 指揮を、ニコライ・マルコ(ショスタコーヴィッチの交響曲第1番と2番を初演)と
      アレクサンドル・ガウク(ショスタコーヴィッチの交響曲第3番を初演)に学ぶ
1924年 1月24日 レーニン死去
1月27日 レーニンの葬儀
《ロシア・アヴァンギャルド―――20世紀芸術の誕生の地という栄光を同時代のパリと分かちあったモスクワの、それもレーニン廟にまつわるエピソードから話しをはじめたのは他でもない。つまりこの運動が、モダニティの限界を競いあう純粋に知的なユートピアの実験であったというより、ロシアの土を執拗にひきずりつつ、もの言わぬ大衆を背負った権力との血なまぐさい格闘を抱えこんだ運動だったということを示したかったからである。ロシア・アヴァンギャルドとは、芸術家と国家の戦いと妥協のダイヤローグの記録でもあった。そしてここに述べてあった時代の記憶がしっかりと刻まれている。1924年1月、時代はなおも弾力に富んでいた。だが、レーニンの死がやがて訪れくる悲劇のサインであり、何人かの芸術家の耳もとに晩鐘のようにこだましていたとしても何ら不思議ではなかったろう。》亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』岩波新書より
3月9日 プロコフィエフ自身がピアノ・ソナタ第5番(第1版)を初演
5月5日 プロコフィエフ自身がピアノ協奏曲第2番(第2版)を初演


9歳。リヒテルさんによれば、8幕15景からなる一種の芝居「ドーラ」を作る。一家で演じたとのこと。

オデッサ歌劇場でオペラを観て大感激!
『巨匠リヒテルの世界 昆田亨写真集』(東京新聞出版局 1987年)には、通訳の森田みどりさんのリヒテルさんへのインタビューが載せられています。それによると、リヒテルさんが心に残ったオペラとしてつぎのようなものを挙げています。『まず、幼少の時、オデッサで観たリムスキー=コルサコフの「皇帝の花嫁」。それとヴェルディの「アイーダ」。これもたぶん1924年頃だったと思う。火事で焼けたオデッサの歌劇場は美しく再建されたが、人々の生活は飢餓に悩み、破壊のあとの苦しみの渦中にあった。あの時の強烈な印象は今なお残り、その後に観たあらゆる「アイーダ」も及ばない。』(同書 101n)
下の写真は、オデッサ歌劇場の内部です
1925年 バス歌手シャリャーピン海外旅行へ。ロシアに死ぬまで帰国せず
ショスタコーヴィチさんが、交響曲第一番を作曲(19歳)
1926年 11歳。リヒテルさんは『私の人生で一番耐えがたい時期が到来した...つまり学校です』いっています。ロシアではなく、ドイツ人学校へ。
1月28日 ハンブルグでピアニストの代役をつとめたホロヴィッツがチャイコフスキーのピアノ協奏曲で聴衆に衝撃をあたえる。ホロヴィッツの名声の伝説の日である。

5月26日 ショスタコーヴィチ交響曲第1番の初演
       ニコライ・マルコ指揮のレニングラード・フィル。フィルハーモニー大ホール
1927年 ベートーヴェン死後100年の年にあたり、シュナーベルが七回のチクルスでピアノ・ソナタの全曲演奏
下の写真は、シュナーベルさんです。シュナーベルさんのベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタの演奏を聴いて感激しました。中身がいっぱいつまった演奏でした。シュナーベルさんのサイトもあってもおかしくないと思うのですが。


第一回ショパン・コンクール開催される
1月23日〜30日
  第1位 レフ・オボーリン(ソ連)
  第2位 スタニスワフ・シュピアンルスキ(ポーランド)
  第3位 フジャ・エトキン=モシュコフスカ(ポーランド)
  第4位 グリゴリー・ギンスブルク(ソ連)

この年から翌年にかけて、カペー四重奏団が歴史的名盤の録音をする
 EMI TOCE−6169〜74
 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー1番」
 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第10番「ハープ」
 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 作品11
 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番 イ短調 作品132 など

この年、ショスタコーヴィッチの交響曲第2番が、ニコライ・マルコ指揮のレニングラード交響楽団によって初演される

12月 第15回ソ連共産党大会 トロツキー派が失脚する
下の写真はトロツキー
1928年 この年、アルフレット・コルトーがシューマンの謝肉祭 作品9 を録音する
 CD DANTE HPC004
1月12日 ホロヴィッツがニューヨークに衝撃的デビューを飾る

3月20日 リヒテルさんの13歳の誕生日
11月 カザルス・トリオ(Vl ディボー Vc カザルス Pf コルトー)が
    ベートーヴェンのピアノ三重奏曲「大公」を録音
  CDは、EMI TOCE−8822

この年、ラフマノノフとクライスラーがいくつかのヴァイオリン・ソナタの録音を行う
 ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ 第8番
 シューベルト ヴァイオリン・ソナタ イ長調 D574
 グリーグ ヴァイオリン・ソナタ 第3番
CDは、STRINGS QT 99−382


ドイツのフロイメルが紙に磁性材を塗布するタイプの記録材をもちいたテープレコーダーを開発
ネップ(新経済政策)の終焉
1929年 14歳。オデッサの海兵宮で伴奏ピアニストの仕事をはじめる
4月 ソ連第16回党競技会で、第一次5カ年計画が正式に採用される
この年あたりにSPレコード(78回転)が出だす。
  
まだダイレクト・カッテングの時代であるが、録音が芸術品としての形をととのえはじめる。
    →『演奏家の思想』(音楽之友社 クラシック音楽の20世紀シリーズの一冊)
     『200CDクラシック名録音』(立風書房) など参照
4月13日 フィラデルフィア
  ラフマノノフが、自作のピアノ協奏曲第2番を録音する
  ストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団
 CDは、NAXOS 8.110601

この年アルフレット・コルトーがシューマンの交響的練習曲 作品13 を録音する
 CD DANTE HPC005