本橋成一 映画へのメッセージ
「映画を撮りたい」 〜アルカジィ・ナボーキンに捧げる〜
本橋成一

 ぼくが初めてアルカジイ・ナボーキンさんに会ったのは1995年4月下旬のことだった。チェルノブイリ原発事故でもっとも汚染されたベトカ地区のバーブジェ村にひとりで暮らす、いわゆるサマショーロの老人である。
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 事故後、政府の指示で300人の村人はすべて移住したが、ナボーキンさんは頑として移住を拒否した。当時二頭だった乳牛は汚染のため買い手のないまま増え続け、そのとき27頭になっていた。「この牛たちに牛乳をもらって、自分で蒔いたじゃがいもを食べているよ」 これが初対面のぼくへの、ナボーキンさんの最初の挨拶だった。その世話が大変になったことを除けば、彼の暮らしは事故前と何も変わっていない。それにしても、なぜあんな汚染された土地に、当たり前に住み続けられるのだろう。僕は何度か彼のところに通 ううちに、ある日どうして移住しないのかと聞いたのだった。

 そのとき、老人はどうしてそんなことを聞くのか、という顔をして「どこへ行けというのか。人間が汚した土地だろう。」と答えたのだった。それはぼくにとって強烈なひとことだった。まるで他人ごとのようなその愚かな問い、そしていつの間にか、地球にやさしくなどという傲慢なことばを、平気で口にしていた自分が恥ずかしかった。  

 その日、仕事を終えたナボーキンさんはぼくを家の中に招き入れ、もう50年も弾き続けているというアコーデオンを聴かせてくれた。ところどころカタカタという音しか出ない壊れたキイ。思うように動かない指。しかし、その一曲一曲は妙に存在感に満ち、まるで彼の83年の人生そのものを歌っているかのようだった。ぼくはこのとき彼のアコーデオンを聴きながら、ひどく感動してしまった。あえて汚染されたこの地で生きるナボーキンさんの姿は、大地を汚したものへの無言の抗議であり、現代に生きる人間への痛烈なメッセージに思えた。そして、それはその場に居合わせたぼくに対するメッセージでもあった。彼は自らの肉体をもって、そのことを訴えかけていたのだ。

 ぼくはそのとき、なぜか映画というひとつのことばで、多くの人にこのメッセージを伝えることができたらすばらしい、と思ったのだった。

 帰国してからさっそく友人たちにナボーキンさんの写真や8ミリビデオを見せ、あのカタカタと鳴るアコーデオンの音色を聴かせながら、この映画づくりの夢を語った。撮影、録音、編集、そして資金集め。映画づくりは、決して一人ではできない。だからこそ大きな夢を語り、その年の暮れ、ようやく夢が実現に向けて動き出した。四人のスタッフとともにロケハンを兼ねて、ナボーキンさんを訪ねたのは年が開けてすぐの冬のことだった。 しかし、予想だにしない現実がぼくたちを待っていた。ナボーキンさんは、牛泥棒の手に掛かって殺されていたのだ。ぼくたちが撮影に来るつい二十日前のことだった。窓から雪が吹き込んだ無人のナボーキンさんの家を、ぼくは決して忘れることができないだろう。  このとき、映画づくりは終わった、と思った。

 しかしぼくはどうしても、ナボーキンさんから受け継いだメッセージを置き去りにすることはできなかった。  この映画の舞台となったドゥジチ村はぼくが六年間歩き回った汚染地域の一つだった。メッセージを語る舞台として、そこに住み続ける6家族の風景が浮かび上がった。

 1996年4月、撮影は始まった。春夏秋冬120日余りのロケの中で、撮りためたフィルムは、44,590フィート。この20時間38分の切り取った時間を前にして、ぼくはとても満足している。この満足はぼくのみならず、スタッフの皆、そして映画を応援してくれている人たちに共通の思いでもある。

  この映画の舞台となったドゥヂチ村の村人たちの暮らしぶりを観ながら、ナボーキンさんの残したメッセージを受け取ってもらえたらとても嬉しい。