然るに神道におきて、此人死て後に、いかなる物ぞとまをす安心なく候ては、人の承引し候はぬもことわりに候、神道の此安心は、人は死候へば、善人も悪人もおしなべて、皆よみの國へゆくことに候。善人とてよき所へ生れ候ことはなく候。これ古書の趣にて明らかに候也。・・・(中略)・・・神道の安心は、たゞ善悪共によみの國へ行とのみまをして、其然るべき道理を申さでは、千人万人承引する者なく候。然れども其道理はいかなる道理とまをすことは、実は、人のはかり知べきことにあらず、儒佛等の説は、面白くは候へども、実に面白きやうに此方より作りて、當て候物也。御國にて上古かゝる儒佛等の如き説を、いまだきかぬ以前には、さやうのこざかしき心なき故に、たゞ死ぬればよみの國へ行く物とのみ思ひて、悲しむより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、その理屈を考える人も候はざりし也。

『鈴屋答問録』より