1)二宮神社ホームページより
ご祭神 二宮尊徳翁
【生い立ち】
二宮尊徳翁(公文書では金次郎、自筆は金治郎)は天明7年(1787)、相模国栢山村(現在の小田原市栢山)の豊かな農家に生まれました。再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家は没落し、過労により両親は亡くなり、兄弟ばらばらとなり、親戚の家に預けられました。金次郎は朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強をして、先人達の教えを理解しようとしました。荒地を開墾して収穫をあげてお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻して、24歳までに一家を再興しました。
【積少為大:せきしょういだい】
毎晩独学で勉強していた金次郎は、夜間読書をするために必要な明かりの原料を得るため、荒地に自分で菜種を植え、たった一握りの菜種から7〜8升の菜種油を得た経験や、捨てられていた苗を大事に拾って、自分で荒地を開墾した所に丹精をこめて植えて育て、秋には1俵もの籾を収穫した経験から、自然の素晴らしさを知ると共に、小さな努力の積み重ねが大切(積少為大)だと学び、これらが後の行いや考え方の礎となりました。
【偉大なる功績】
大人になった尊徳翁は、生涯を世のために捧げ、小田原藩家老服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真公の命をうけて分家宇津家の桜町領の復興させるなど、自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、北関東から東北における各藩の農村の総合的復興事業(仕法)を行い、素晴らしい成果をあげました。大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳翁が仕を手がけた村々は600ヵ村以上にのぼります。多くの農村や藩を貧困から救い、独特の思想と実践主義で人々の幸福を追求し、数理・土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した世界にも誇れる偉人です。内村鑑三の名著『代表的日本人』のなかでも、19世紀末、欧米諸国に対し「日本人の中にも、これほどの素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として、紹介されています。
2)「☆☆ 賢人は語る! ☆☆」 1999年 1月 No.1 より
http://www.kbc-net.co.jp/aiiku/kenzin.htm より転載(「☆☆ 賢人は語る! ☆☆」については再下段に掲載)
第1回 二宮尊徳を取り上げます。ご存じのように尊徳は勤勉、節倹の人物として知られています。
【略歴】
1787〜1856年 元禄の世の豊かな時代が終演し、諸国が莫大な借金に苦しめられ、天明、天保の天災が相次ぎ、国民が非常な困苦を経験した時代に活躍された超一級の人物。近代日本の精神的支えとなった人物。
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★★★★ 生涯一途に世のため人のためを思い、国のため天下のために、益あることを務めよ
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★★★★ 二宮尊徳
【二宮尊徳について】
私(尊徳)が自分の家をつぶし財産を処分して、小田原から下野の物井の陣屋(現栃木県二宮町)に来たのは、4千石の復興一途に身を捧げるためであった。釈尊は、生者必滅の理を悟り、この理を広めるために、自ら家を捨て、妻子を捨て、世界のために身を捧げた。その事が出来たのは、次の真理を悟ったからだ。人は生まれ出た以上は死に至ることは定められている。長生きするといえども、100歳を超えることは稀である。例え100歳を超えるほど長生きしたとしても、ついには死に至る。若くして死んでも、長く生きてもその差は永遠の長さから見ればわずかである。人として生まれ出た以上、必ず死にゆくものであると覚悟するとき、1日生きればすなわち1日の儲け、1年生きれば1年の益である。従って、元々自分の存在は無に等しいものであり、自分の家も無きものであることを悟れば、あとはみな儲けである。私(尊徳)の歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し、民安かれと願ふこの身ぞ」とある。この世は誰でも僅かの間の仮の世であれば、この身も又仮の身であることは明らかである。元のあるじとは天を指す。この仮の身を我が身と思わず、生涯一心に、世のため人のためを思い、国のため天下のために、益のあることを務めることである。1人たりとも、一家たりとも一村たりとも、困窮を免れ裕福になり、土地が開発され、道や橋が整い、安穏に暮らせるようにと、ただそれを願い、務めとし、怠らないようにしている。これが私の一生の覚悟である。(参考文献 二宮翁夜話の精神 佐々井信太郎著)
何と素晴らしい考え、又覚悟ではないだろうか。今日、自らの欲望や富、出世が第一になっている人が多い。しかしどのように富を積んだとしても、いつか人間は死に至るのである。その時、命の与え主である神のみ前に出なければならない。確かに、尊徳のように世のため人のために自らの人生を費やすことの方が報いが大きいのは明らかである。そのために私達が生まれてきたのだから。そして真の平和な社会はそのような考え方から生まれるに違いない。
【二宮尊徳についての解説】 にのみやそんとく 1787〜1856
江戸後期の農政家。通称は金次郎。相模国栢山(かやま)村(神奈川県小田原市)の農民の子として生まれ、はやくに父母と死別したため伯父にあずけられる。農作業を手つだいながら独学で読み書き・算術をおぼえた。夜なべ仕事や荒れ地に菜種を植えることで、少しずつ財をためて田畑をもち、20歳のとき生家を再興。田畑を小作地として人に貸し、自分は雇用人となって効率よく現金をかせいだ。
奉公先で才覚がみとめられ、1818年(文政元)小田原藩の家老服部家の財政立て直しをまかされると、きびしい倹約と小田原藩からの借用金運用によってこれを成功させた。さらに藩士のために五常講という金融制度をもうけ、藩に枡(ます)の統一も意見している。つづいて小田原藩から分家の旗本である宇津(うつ)家の財政再建を命じられ、23年には一家で宇津家の領地の下野(しもつけ)国桜町領(栃木県二宮町・真岡(もおか)市)へうつり、荒廃した農村の復興にとりかかった。
尊徳は、農民の生産力に応じた消費を分度(ぶんど)としてさだめ、生活の勤倹と最新の農業技術を指導。分度によって生じた富は推譲(すいじょう)と称して村に還元することをおしえた。これら一連の施策は報徳仕法とよばれ、天保の飢饉(1833〜36)をのりきって桜町領の再興をなしとげ、1837年(天保8)仕法を終了した。尊徳から指導をうけた農民も、小田原藩領や北関東・東海地域の農村で報徳仕法をおこない、下野国烏山(からすやま)藩・陸奥(むつ)国相馬藩・小田原藩でも実施された。42年に御普請役格で幕府にとりたてられ、53年(嘉永6)日光神領での仕法を命じられ、55年(安政2)今市にうつるが、翌年死去。著作は「三才報徳金毛録」など。
門人たちは、幕末〜明治期に各地で結社方式の報徳社運動を展開する。運動は明治政府の農業政策とむすびついて全国に普及、1924年(大正13)には大日本報徳社が結成された。1891年(明治24)幸田露伴「二宮尊徳翁」によって、薪(まき)をかついで読書にはげむ少年二宮金次郎像が提示され、これが国定教科書に採用されたことで修身(道徳)の教材としてひろく知られるようになり、全国の小学校の校庭に金次郎の銅像がたてられた。
【資料提供先】「☆☆ 賢人は語る! ☆☆ 」
「☆☆ 賢人は語る! ☆☆ 」 発行: Aiiku Soft (愛育ソフト)
HomePage: http://www.kbc-net.co.jp/aiiku/kenzin.htm E-Mailアドレス: aiiku@kbc-net.co.jp
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