メール48<ジャミー先生へ>

 Cureからcareの時代へ(16):論語読みの論語知らずにならないために

 高橋先生から「死への準備教育」の重要性を伺った時に、日本は物質的に豊かになり、医療水準も健康診断や癌検診から成人病のコントロール、救急医療体制に至るまで世界的な水準にありますが、今の日本の臨終は果たして幸せなのかということを考えました。「Cureからcareの時代へ」をお書きする前から孤独な死や、無機質的で心の温もりがない死を迎える患者さんがいらっしゃることは知っていました。物質的には豊かになったが、心を忘れがちであると言われて久しいですが、それは臨終についてもあてはまるのではないかと思ったこともありました。「Cureからcareの時代へ」の中で、「死」を中心に私達の医療を見つめ直してみると、医療の現場にはまだまだ改善しなければならない問題がありそうです。

 医療は文化の一部、医学は科学の一部であると考えますと、文化・科学が今日ほど発達していなかった時代に、未発達の医療や医学の隙間を埋めていたのは人の心ではなかったかと思います。医療や医学が進歩するにつれ、医療現場には医療器械や薬品が増えた結果、医療現場に人の心を差し挟むスペースがなくなったと錯覚してしまい、私達はあえて、医療に心を介入させることを控えてしまって来たのかもしれません。医療現場に人の心を積極的に介入させるのに必要なものは、医薬品でも医療機器ではなく、生と死を理解し見つめる勇気と道徳観ではないかと思います。私にとって、死の理解には高橋先生の「死への準備教育」が大変参考になりましたし、道徳観は論語をはじめとする東洋の哲学書で学びました。

 「死への準備教育」では、「死は誰にでもやってくる」という紛れのない事実の再認識と逃避しない姿勢を教えていただいたと思います。道徳観については人の道に外れなければ人それぞれの規範は異なってもよいのではないかと思います。私が論語を先達の英知として大切にする理由は、父から子供の時に聞いた「人間は科学の進歩により物質的には豊かになったが、精神的には2000年以上前の論語の精神を越えられていない」という言葉が頭に焼き付いているからです。高橋先生からいただきました「死への準備教育」と、父から受け継いだ道徳観を大切にして、心の通う医療を目指していきたいと思います。

 話は変わりますが、高校2年生の時に高橋先生のクラスで北陸の修学旅行に行きました。永平寺にも寄って座禅のまねごとをしたのを覚えています。その後、永平寺のドキュメントをテレビで見ました。修行僧の生活は想像をはるかに超えるつらい毎日のようでした。取材のスタッフが若い修行僧に「今の喜びは何ですか」と質問したところ、一人の若者は何も答えられませんでした。別の若者は「炊事一つを取ってみても、昨日できなかったことが今日できるようになることが私の喜びです」と答えました。こちらの答えは優等生の答えだと思いました。優等生の答が表面的なものなのか、心に刻み込まれた魂の叫びであるかはその後の行動を見ればわかると思います。そのことと同じように、今までの往復メールでの議論が「論語読みの論語知らず」と言われないように行動に注意していかなければならないと感じています。不行き届きの点もあろうかと思いますが、今後の診療を寛容な目でご覧いただきたいと思います。

 もし私が10万年前に生まれていたら、体力も強い方ではありませんので、今の年齢になるまでに狼に食べられてしまっていたかも知れません。少なくとも長生きはできなかたでしょう。平和な世の中に生まれたことを感謝することから始めなければならないと思います。人類の歴史上まれにみる幸せな時代に生まれたことに感謝することから自分の医療を考え直してみたいと考えています。

 ありがとうございました。

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ポコ