メール30<ジャミー先生へ>

 台風にもじゃまされずに天候にも恵まれ楽しい夏休みを過ごせました。本日は明日からの仕事に備えております。では往復メールの続きをお送りいたします。

 Cureからcareの時代へ(9):お医者さんと職人気質

 前回の最後を「医療は、作家、芸術家、学者に近い気持ち、もう少しわかりやすく言えば、味にこだわる頑固なラーメン屋さんなどの職人気質をもつことから始めなければならないと思っています」と結びました。先生からは「医療は技術であると同時に、それ以上にアートであるべきでしょう。アートは損をすることです」とコメントしていただきました。先生のコメントは私の意見を代弁して下さっているようだというお返事もお書きしました。私は「作家、芸術家、学者」という職業や、「職人気質」という言葉を、生産性重視の立場ではなく、真実を探求したり信念に基づいて生きることの代名詞として用いたつもりです。先生の言葉をお借りするならば、経済的には損を承知の職業ということになるでしょうか。本日は、まず、生産性を重視しない生き方についてお書き致します。

 私の身近にも生産性を重視しない生き方を目指した人がいます。おそらく私の父もその一人でしょう。私の父は教員でしたが、東京都立大学で国文学(言語学)を専攻し修士を修めました。私は子供の時に「うちにはずいぶん本があるなあ」と思っていましたが、父が学者になろうとしていたということを知ったのは小学校の頃でした。父は私に金田一京助先生の旅行に同行した時の話を聞かせてくれましたが、その時に、父は国文学の学者になりたかったということを知りました。その話を聞いた時に、父が虎ノ門の国立教育研究所などに勉強に行っていたことも思い出しました。その後、私は父に「どうして学者さんではなくて、学校の先生をしているの?」と聞いたことがありました。父の返事は「学者じゃあ喰っていけないからだよ」だったと思います。昭和40年代という時代背景もありましたので、私は、研究や学問は生活にゆとりのある家庭の人がするものだと解釈しました。このメールの論旨に合わせて表現すれば学者は非生産的である(お金にならない)ということになろうかと思います。父の影響で幼い頃から私は、学者という仕事は真実を追究する立派な仕事だが、非生産的である(喰っていけない)という考えを持って育ちましたので、生物学でエンドウ豆を使って遺伝の法則を発見したメンデルの話を授業で聞いた時には、遺伝の法則の発見よりも「メンデルさんは広い土地と研究できる自由な時間があったのだから、ゆとりのある家庭に育ったんだろうなあ」と変なことに感心したのを覚えています。今でも私は、「基礎医学の研究者は立派だが、研究者では食べていけない」と考えています。想像以上に貧乏だった大学の医局員時代の自分の経験の他に、子供の頃に父から聞いた言葉の影響もあるように思います。

 もう一人は父の友人の画家の先生です。東京芸術大学を卒業され、父と同じ学校で美術の教員をされていたそうですが、教員をお辞めになって画家になられました。先生は退職後も我が家に良くお見えになりましたが、おみやげは色紙に描いた絵でした。先生の口癖は「貧乏絵描きはおみやげを買えないから絵を持ってきたよ」でした。もちろん謙遜ですし、先生は現在、日展会員でいらっしゃいますので、その色紙の方が菓子折よりもずっと価値があるのですが、子供の頃の私にとっては「貧乏絵描き」という表現が印象に残りました。実際に画家が非生産的な職業であるかどうかは私が決めることではありませんが、歴史的に見ても、美術館に展示されているような絵を描いた有名な画家には大抵パトロンがついていました。パトロンがついていたということは一人では喰ってけなかったわけですから、画家をはじめとして芸術家は理想を追求したり表現たりする仕事としては立派ですが、儲けようと思って始める仕事ではないと思います。

 前置きが大変長くなってしないましたが、医師としての私の信条は、非生産的といわれても仕方ないが、納得できる医療を提供したいということです。いきなり言うのはとてもこそばゆいので、前置きが長くなってきてしまいました。では、私自身どういうつもりで医師の道を選んだかというと、医学部に進学しようと思った時は、高校生の目から見た医師の社会的な地位の高さと収入に憧れたことは事実です。おそらく両親が持っていた医師に対するイメージも、私の抱いていたものと大差のないものだったと思います。正直なところ、私が現在のような考え方になったのは、医学部卒業後です。医学生の時に献体をして下さった方の解剖実習などを行いながら、人生の意味や幸せについて考える機会はありましたが、現在のような考え方ではありませんでした。甘い考えを持っていた私は、医学部卒業直後に医師というのは労働の内容や負わされる責任に比べたら、割に合わないことを感じました。病棟や外来で、治療しているのにも関わらず病気に悩み続ける患者さんや、治療の甲斐なく亡くなっていく患者さんに遭遇していくうちに、医学の崇高さだけではなく無力さを感じるようになりました。医師という職業は誰もが認める神聖な職業です。病院に勤め、患者さんの診療に従事してから、私は神聖な職業の本当の意味が理解できました。高橋先生は「患者を食い物にしたり、生徒を食い物にする話はあとを絶ちませんが、患者の弱みと無知に付け込んで毟り取るような禿げ鷹商法は言語道断」と論破されましたが、私も医学部を卒業した後に、ようやく悪い誘惑から解放されてきたように思います。医師というのは、小さな時から馴染みの深い職業です。純粋な気持ちで、「病気をしたらどんな医者にかかりたいか」「どんな医者は嫌か」ということを考えると、その答は簡単に出てきます。要は医師となった私自身が、その理想像を目指せるかどうかの問題なのだと思います。言い訳になってしまいますが、実際にはまだまだ不完全にしか実行できていません。結婚して子供もできましたので、好き勝手に理想だけを追い求められない現実もあり、理想と現実に挟まれながら今でも悩むことがあります。生き方について、煩悩から抜け出せないというのが本当のところですが、少なくとも今の私には、医者になったのだから高級車を買いたいとか、別荘を持ちたいとか、ブランド品で飾りたいとかいう豪勢な生活ができて当たり前という考えはなくなりました。

 仕事の面では納得できる医療を提供しつつ、家庭をあまり犠牲にせず無理のない生活をしていくこと、これが私の理想なのですが、この両立は難しいことだと思います。そのお手本になるようなヒントをテレビで見つけました。それは、頑固なラーメン屋さんの姿勢でした。ここでは頑固なラーメン屋さんとしましたが、職人気質の考えの方でしたら何の職業でもお手本となると思います。テレビでは頑固なラーメン屋さんが時々紹介され、私もラーメンが大好きですので身近に感じていますので、例として取り上げます。

 味を保つために限定販売したり、昼間だけしか営業しなかったり、アルコール類を出さなかったりするラーメン屋さんがあります。これは店主の裁量です。また、マスコミの取材に対して取材拒否をする頑固な店主を見たことがあります。「変わっている」などと言われることもありますが、取材拒否ができる店主は立派だと思います。世間に媚びないということもありますが。それ以上に職人としての自信と信念がなければできないことだからです。すなわち、“信念を持って料理をしている→美味しい→テレビや雑誌に出る→客が増える→儲かる→忙しくなる(または新しい職人さんを雇う)→仕事が雑になる→味が落ちる→自分の信念に反する”または、“信念を持って料理をしている→美味しい→テレビや雑誌に出る→客が増える→儲かる→忙しくなる(または新しい職人さんを雇う)→仕事が雑になる→味が落ちる→人気がなくなる→客が減る→自分の好きな仕事ができなくなる”という堕落のプロセスを心得ているのだと思います。その頑固な店主の考え方の基本となるものは「良いものを提供したい」という信念であり、「良いものは大量生産ができない」という考えもあるかも知れません。上手に工夫をすれば堕落のプロセスの通りにならないですむ方法があるのかも知れませんし、お客さんが増えたところでさらなる発展を目指すという生き方もあるとは思います。しかし、そういったことを考えるよりも毎日のお客さんを大事にするところが頑固な店主たる所以なのだと思います。

 職人さんの仕事にしても医療にしても、提供するのもは工場生産をしている商品ではありませんので、合理化にも限界があります。従って、良い仕事ができる、あるいは納得のいく仕事のできる限界は自ずと決まってくると思います。その限界点を越えてしまったしわ寄せは、自分に跳ね返ってくると同時に医療であれば患者さんに波及してしまいます。仕事の限界という点では人間の体も同じような仕組みになっています。たとえば心臓です。健康な人の安静時の心臓は、最大仕事量の30%位の仕事しかしていません。緊急時には100%の仕事をすることになるわけですが、100%で働ける時間は限られています。私たちの心臓が無理のない範囲で続けられる運動強度は、年齢などによっても違いますが、概ね最大仕事量の50-70%というところです。その仕事量でも、継続できる時間は20分から30分が限度です。これはトレーニングにより向上させることはできますが、それにも限界があります。心臓だけでなく生物の他の臓器には、それぞれの限界があります。この限界を超えてしまってはいけません。ならば臓器の集合体である人の体にも限界があります。その限界を超えない範囲内でなければ、いくら良い仕事をしたとしても長続きしません。私の医師としての理想像は、ある程度の余裕を持ちながら、職人気質を持った学者であるということです。職人気質とは、前述の頑固な店主の考え方の基本と思われる「良いものを提供したい」という信念を持つことであり、学者の使命は真実あるいは理想を追求することであり、学者の生き方とは生産性を重視しないことを誇りにすることです。

 ただし、いくら職人気質な学者といっても医療は対人関係の仕事です。現代社会で仕事をしていく以上、頑固ばかりでは通せず、屈服しなければならないものがいくつかあると思います。私はその最大のものは時間だと思います。時間を超越して仕事をする医師の診療を「アインシュタイン風診療」と言った大先輩のドクターがいらっしゃいました。これは、時間を超越していることを相対性理論のアインシュタインに掛けたジョークです。例えば外来患者さん一人一人の診療に30分も1時間もかけるのは、アインシュタイン風診療の最たるものだと思います。しかし、この問題は理想と現実のすり合わせをしながら、個々の医師が考えることですから、同じ理想を持っていたとしても見解が分かれる可能性があります。私の場合は、医療機関は非生産的であるといっても、時間は大切にしなければならないという立場で考えています。外来の順番を苦痛に堪えながら待っている患者さんも受診されているわけですから、診療にはある程度のスピードが必要だということです。では、どの位が妥当なスピードでしょうか。病院の外来診療は「3分診療」と批判されますが、内科で一人の患者さんに対して外来で費やすことのできる時間は、実際に3分程度だと思います。患者さんの入れ替わりに1分かかるとして、一人の患者さんの総診療時間は「3分診療」の場合4分、「5分診療」の場合6分となります。従って、1時間に診療できる患者数は15-10人、午前中の3時間の診療時間内に診ることのできる患者さんの総数は45-30人という計算になります。患者さんにとっての平均3-5分の診療時間はとても短いと感じられるために「3分診療」という言葉が出てきたのでしょうけれど、この範囲で良い診療をするスピードが必要だと感じています。一方、入院患者さんの診療形態は時間の制約が少し穏やかになります。それでも一人の患者さんにつきっきりというわけにはいきません。限られた時間の中で的確に診療するのも職人の技の一つだと思います。

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ポコ