メール14<ジャミー先生へ>

 「医者は大変ですね。一種の肉体労働でもありますね。ご苦労さまです。」については、体力があるから医者になったのではないので、正直言って辛く感じることがあります。入院患者さんを診ていますと、医療は一日だけで終わるものではありません。毎日、適度な休息をとって明日に力を残しておかないと、助かる患者さんも助からなくなると思うことがあります。多くの医師の労働条件は過酷だと思います。命と接していますので、精神的な重圧も大きいです。命を預かっているというと、パイロットの話を思い浮かべます。太平洋横断飛行のジェット機のパイロットは複数で、10時間以上のフライトでは、どちらかが完全に休息している時間があります。一般に病院の当直では、警備員さんには3時間程度の仮眠時間が保証されているようですが、医師には決められた仮眠時間はありません。いわば常に待機の状態で、患者さんが落ち着いているときに休んでくださいという暗黙の了解で仕事をしています。一度、患者さんが重症になれば一睡もしないで夜を明かすということもあります。

 では、Cureからcareの時代へ(4):私の外来診療2

 5)成人病項目の軽度の異常には甘く、癌には辛く

 成人病(最近は生活習慣病と言うようになったそうです)とは、高血圧・糖尿病・高脂血症・痛風などを指します。これらは、医師の指導(食事や運動などの生活習慣に対する指導)と、それを守る患者さんの心掛けが大切だと言われています。医師の指導は成人病の治療に欠かすことのできないものですが、私は患者さんの体質(遺伝子、生物学的多様性)や、私達を取り巻く生活環境・社会環境の方がより重要であるという認識を持っています。日本の高度成長以前の食生活は、食卓においては米、味噌、塩、穀物が主役でした。現在はどうでしょうか。スーパーマーケットには多くの食材が並び食卓は豊かになり、摂取カロリーも高くなりました。成人病が増える要因は十分に揃ってきています。成人病の代表である糖尿病患者さんは、日本では1,000万人以上といわれています。では、成人病が増えている現代の日本人の平均寿命はどうなっているかというと、現在も世界のトップレベルです。成人病は増加していますが、現在の日本人の寿命が縮んでいるわけではありません。成人病の予防は、将来の健康に備えてのものです。予防医学とも呼ばれています。従いまして、現在の平均寿命が縮んでいないからと言って、成人病を軽んじるわけにはいきません。しかし、現段階では、成人病が増加しているにもかかわらず、平均寿命が伸び続けているのは事実です。平均寿命が伸び続けている理由の一つとして、成人病が強く出ている日本人は不幸にも早く亡くなってしまいますので平均寿命を下げますが、成人病を生むことのできる豊かな社会環境が感染症等で早死にをする人(乳幼児死亡を含めてのことです)を減少させているということがあるのではないかと思います。現在のところ、後者の影響がより強く平均寿命に反映されているため、平均寿命は押し上げられているのだとと思います。ということは、豊かな社会環境のもとでも成人病に負けていない人もたくさんいるわけです。負けないどころか、成人病を生むことの出来る社会の恩恵を受けて、長生きしている人がたくさんいるということになります。成人病に罹患し重症化してしまうことは残念なことですが、残酷な言い方をすれば、成人病が重症化してしまう患者さんはこの豊かな食生活の環境において、環境に対する適合性が悪いと言えるのではないでしょうか。生物は様々な環境に適合するために、一つの種の中にも多くの多様性を持って存在しています。例えば、気候でいえば、寒さに強い/暑さに強い、食料でいえば、飢餓に強い/弱い、などがあると思います。人類の歴史の90%以上は飢餓と戦っていましたので、人類にとっては摂取した食物をいかに効率良く貯えるかといことが、歴史的に見れば大切なことだったと思います。成人病と食事の関係を、極論を以て言うならば、高血圧は塩分の過剰に弱い人=少しの塩分でも生きていける人・糖尿病はカロリーの過剰に弱い人=少しのカロリーでも生きていける人・高脂血症は脂肪の過剰に弱い人=少しの脂肪でも生きていける人・痛風は蛋白質の過剰に弱い人=少しの蛋白質でも生きていける人、と言い換えることも出来るのではないかと思います。これは解釈としては正論ではありませんが、このような考え方で成人病をみることも時には必要だと思っています。もちろん、成人病の中には生活を正してもコントロールがつかず、本当に困っている患者さんもいらっしゃいますが、医者から「軽い糖尿病」などと言われた患者さんにお話しすると、共感を得られる解釈です。

 以上の事を踏まえた上での私の成人病に対する診療姿勢を御紹介します。食欲は本能ですから、美味しそうなものがあれば食べてしまうものです。ですから、一応の指導はしますが、概して成人病項目の異常については私は甘い評価をします。具体的な数字を挙げるとコレステロールについては220mg/dl以上で高コレステロール血症という事になりますが、心臓病などの基礎疾患のない初診の患者さんであれば、コレステロー値が260mg/dlでも薬剤をすぐには使わずに、生活療法で対応したいと考えています。コレステロールの薬剤による管理については、薬剤の使用によって死亡率が低下するという統計など、薬物療法の有効性を示すいろいろな論文が出ています、しかし、薬を使えば副作用の問題が出てきます。全ての成人病の患者さんに対して、早くから内服薬を投与して厳しく管理することが本当に患者さんの幸福な人生につながるかという事については、疑問を持っています。そのため、薬物治療の開始の時期については慎重に考えています。

 それよりも、このような豊かな生活環境にもかかわらず、成人病と反対方向の異常値の出る方がいます。すなわち栄養が悪いということです。現代の豊かな社会で普通の生活をしているのにもかかわらず、栄養が悪いということは、癌などの消耗性疾患が隠れている可能性があります。このように、成人病と反対方向の異常値の方が、患者さんの生命に差し迫った疾患が存在する可能性がありますので、私はこの異常値を見た時にはより厳しく対応するように心掛けています。

 外来で癌などの重大な疾患を見つけること、それもできるだけ早く見つけること、たとえ進行癌であっても手際良く見つけることが、患者さんや家族との信頼関係を築くことになります。その信頼関係は、患者さんが終末を迎えた時に大きな力を発揮します。医師の能力には限界があると思いますので、貴重な外来診療時間は、命に直結するような異常値に重点を置いて診療したいと考えています。

 6)わからない時にはわからないと言う

 私の勤務している病院は一般病院ですが、総合的な診療科が揃ってはいません。従って、初診で外来を受診された患者さんが、手に負えない場合には外来で処置をしながら専門の病院に電話連絡をし、救急車で搬送するということがあります。常勤の専門医がいないために、当院では急性心筋梗塞や脳外科絡みの病気(くも膜下出血など)を専門的に治療することができないからですが、ここでお書きすることは、それとはニュアンスが違う内容のお話です。

 学生の時に「内科では問診(患者さんの話を聞くこと)で診断の8割が可能である」という講義を受けたことがありました。新卒の頃は、患者さんの話を聞く、問診の要領も悪かったですし、経験が乏しかったということもあり、問診はあまり重要ではない、少なくとも診断の8割が可能ということはないと思っていました。しかし最近は、患者さんが何を言いたいか・何を求めているかについて、出来るだけ慎重に聞くこと、すなわち問診の重要性が理解できるようになりました。前述のSMAPの診療姿勢も、その表れです。問診は主として患者さんの診察をする前に行いますが、その段階で、どんな病気らしいか・何を困っているか・どうして病院に来院したかという事を把握し、大体の病気の見当を付けられるという事ができるようになると、血圧測定や、胸やお腹の診察をしている間に、この患者さんと病気をどのように検査し治療するかという方針を考えられますので、診療の効率も良くなります。簡単な作業としては、患者さんが診察の支度をしている時に、問診で推察した診断の確定に必要な検査用紙にチェックを入れることが出来ます。また、この時間を利用して、問診の段階で「私には治せない病気だろう」とか「私の専門とは全く違う分野の疾患のために私が診療するよりも、専門のドクターに診療してもらう方が良い」とか「精神的なものから来てる可能性が大きいから心療内科の分野だろう」と思った時には、どのように話したら患者さんが受け入れやすいかという方法を考えることが出来ます。いわゆる3分間の診療の中で、「熟達した医者は100項目以上のチェックができる」ということを聞いたことがありますが、何をチェックすべきかという判断のためにも、的確な問診が不可欠だと思います。実際の日常の診療では、血液検査などを始める前の問診と診察の段階で、「わからない」と感じることがあります。そう感じた時に私は、「私にはわかりません」という事を患者さんに告げるか、あるいは、一度“あたりをつけた”検査をしてから、それでもはっきりしない場合には「専門の先生の意見を伺いたいので紹介状を書きたい」と言うようにしています。わからないままで、不十分な治療を続けていては患者さんが不幸ですし、良好な信頼関係も成立しません。また、紹介されるドクターの側にしても、フレッシュなうちに紹介される方が、専門家として、腕の振るいようがあると思います。「わからない」けれども「患者さんが弱っている」と判断した時には、患者さんには一旦入院してもらい、患者さんの安全を確保してから専門の病院を探すこともあります。

 “わからない・治せない”ということについて、補足をします。7)でも触れる事ですが、患者さんが病院を受診する目的は体を治すためです。治すためには、病気を正確に診断するのが一番です。特殊な病気の場合、診断のために専門的な知識、特殊な医療機器や技術を必要とすることがあります。この場合、私自身(または病院)にその能力のない場合は、“わからない・治せない”ことになります。疾患名で言えば、前述の急性心筋梗塞やくも膜下出血の他には、膠原病や血液疾患・活動性のある結核(結核予防法の問題で専門施設での治療が必要です)などがこれにあてはまります。その他には、恥ずかしいことですが「本当に何がどうなっているの?」と考えてしまうような、どこから手を着けて良いのかわからない症状を持った患者さんも受診されることがあります。病気の確定診断が付かなくても、症状を抑えることができれば、患者さんとしては満足とはいわないまでも納得がいくと思います。症状を取る治療を対症療法と言います。症状を抑えている間に患者さん自身の自然治癒力により病気を治そうという治療方法です。対症療法も内科の治療のうちの有力な手段です。例えば風邪の治療がその代表です。風邪の約90%はウイルス感染ですので、通常の抗菌剤(抗生物質)は効果がありません。風邪のウイルスに効果のあるといわれている薬は、A型インフルエンザに対するアマンタジンという薬くらいで、その他にはほとんど有効な薬がありません。従って風邪の治療は、熱や咳などの症状を取る治療、すなわち対症療法が中心になります。その対症療法がうまく行かない時も“わからない・治せない”ことになります。

 「わからない」あるいは「治せない」と発言することは医師にとっては、屈辱的なことだと思います。実際に「わからない」あるいは「治せない」と言いたくないために、卒後間もないドクターの中には教科書とかマニュアルをもって外来診療に来る医師がいます。これは患者さんに対するエチケットに違反すると思いますし、患者を診てから教科書をカンニングしても手遅れです。字引的な使用や確認の手段に使用することはやむを得ないと思いますが、最初から教科書片手に診療するくらいなら「わからない」あるいは「治せない」と患者さんにお話しした方が誠意のある態度だと思います。

 7)患者さんは診断を付けてもらいに病院に来ているのではなく、治療のために病院に来ている

 この点については「Cureからcareの時代へ(2)」で一部触れていますが、外来診療という観点から考えてみました。

 当たり前の事なのですが、患者さんが受ける検査の数は少ないにこしたことはありません。薬をもらうことだけを望んで病院を受診される患者さんも大勢いらっしゃいます。しかし、最低限の検査は診断をつけるだけでなく治療上も必要です。患者さんの腎機能や肝機能により量の調節をする薬もあるからです。では、検査が過度になってしまう理由を幾つか考えてみました。

1.検査をするのはごく普通のことだという医師の認識

2.検査をせずに薬だけ出して、もしも癌などの重大な病気が隠れていたらいけないという医師の注意

3.主訴以外の基本的な病気の見落としをしてはいけないという医師の姿勢

4.疾患や症状に対する学問的興味が先行した場合

5.出来高払い制度下での医療の診療報酬に対して、経済学的効率の意識が医療に入り込んでしまった場合

 その他にもいろいろと理由はあるかと思いますが、1-3は医師の注意義務という点からすると至極当たり前の理由だと思います。しかし、患者さんとの会話というか同意の後に検査を申し込まないと、「勝手に検査をされた」と思う患者さんも出てくると思います。病気を持っているのは患者さんで、治してもらいたいと思っているのも患者さんなのです。しかし、そのアプローチの仕方を選択して、検査・治療のメニューを決める主導権は医師にあるという点が、医療が他の職種と違うところです。お腹がすいて何か食べようと思った場合には、お腹のすき具合と財布に相談してお店を決めて、そしてメニューも自分で選びます。しかし病院では、患者さんは「まな板の鯉」とは言わないまでも、自主的に何をしてくださいということはあまりありません。医学・医療というものがそれだけ複雑で難しいものであるということでしょうが、検査・治療にあたっては、患者さんの意志や同意をより一層重視する時期に来ていると思います。レストランで食事にあったワインの銘柄を教えてくれる方をソムリエといいますが、いつの日か医師がソムリエのように仕事をする時代が来るかも知れません。高橋先生のおっしゃるように「患者さんが自ら考え、学び、成長して自己決定する力を持つ」ことは、患者さんが検査・治療のメニューを選び、医師がレストランのソムリエのように専門的立場でその選択に対し助言をするという関係と考えています。

 4の学問的興味が先行した場合というと、医師は珍しい病気を発見したら出世できるかのように思われるかもしれませんが、滅多にそんなことでは出世は出来ません。学問的興味とは、もっと純粋なものを指しています。医学も自然科学の一つですから、科学者としての向学心が学問的興味です。学会に報告するような病気や治療を見つけたとしても、それだけで大学病院で偉くなれるという簡単な図式があてはまらないどころか、その反対に、学会に出掛ければ旅費は自腹、医学雑誌に論文を投稿しても、原稿料を貰うどころか、掲載料を支払うという生活をしています。

 5のように経済学的効率の観点から検査や治療をされては、患者さんもたまりません。「医は仁術なり」を文字った「医は算術なり」という言葉もあるくらいですから、昔からあることなのかも知れません。医療法人に関する法律の改定の動きがありますが、病院経営に経済の原則が広く導入された場合には、経済学的効率の観点から検査や治療をされる患者さんが増加する危険があります。医学の倫理に対する十分な理解のない経営者は、「患者さんのため」という大義名分の名の下に、検査漬け・薬漬けの医療を目指す危険があります。しかし、儲かる・儲からないの尺度で仕事をしないのが医師の伝統であり誇りでもあります。内科の教科書の巻頭には、医師の道徳・倫理についての記述があり、“ヒポクラテスの誓い”や“Geneve(ジュネーブ)宣言”が掲載されています。看護婦さんの倫理観については“ナイチンゲール誓詞”が有名です。それぞれの内容は、誰でも知っている“あかひげ”先生の哲学と共通していますので、医療関係者の求めるべき姿は古今東西を問わないようです。中学生が社会科見学で病院を訪れることがあります。その接待役に指名された時には、まず“Geneve宣言”のことから話し始め、医療には経済の原則が当てはまらないことを知ってもらいます。

 8)治療は引き算で

 こちらは、薬漬け医療に対する自らの警告です。成人病を例に取れば、重症でなければ薬を使う前に、少なくとも1-3ヶ月の観察期間をおいて生活指導をします。軽症の患者さんには、パンフレットなどで勉強していただきます。中等症以上の患者さんには栄養士さんとの面接を受けてもらうようにしています。どちらの場合も基本は引き算です。すなわち、食べ過ぎない、お酒を控える、脂物を控える、塩分を控える、減量する、などなど。引き算の治療は、物の豊かな現代人には難しいことであるということは前述の通りですが、難しいからといって不可能ではないはずですので、まずは引き算の治療から入ります。また、治療中の患者さんの具合が悪くなった場合には、薬によって引き起こされているのではないことを確認します。この確認も、広い意味での引き算です。

 以上のような点に注意をして、私は外来診療をしています。

1998720

ポコ

 

 追伸:成人病は受診頻度の高い疾患で、治療をしている患者さんも大勢いらっしゃいます。本文の中で、「成人病項目の軽度の異常には甘く」とありますが、決して「成人病を甘く見ている」わけではありません。その証拠に、私が作りました成人病のポスターの原稿を添付ファイルとしてお送りいたします。外来の時間をさいて、患者さん一人一人に口頭でご説明するよりも、先ずこのポスターを見ていただいたり、出来合いのパンフレットをお渡しして、基本的な考え方を知ってもらうようにしています。その次のステップとして、疑問のある場合には診療中に質問を受け、個別に説明するようにしています。

 なお、実際のポスターにはGSHCと署名してあります。これは私の隠れたサインです。GSHCgrandson of Hara Chikazouで、私の祖父の名前が近蔵といいましたので、そのお孫という意味のつもりです。祖父は畳屋でした。私が幼稚園に上がる前に亡くなってしましました。とても優しいおじいちゃんで、私は畳づくりをみて遊んでいましたので、畳を縫う仕種、瓶ややかんに入った水を口に含んで畳表に吹き掛ける仕種などの真似が得意でした。もちろん、その頃の私の夢は畳屋さんになることでした。しかし、両親の話では、祖父は口癖のように「畳屋さんよりお医者さんが良いんじゃないか」と幼い私に言ってくれていたそうです。そういう時の祖父は本気だったようですが、他人が聞いたら冗談にしか聞こえなかったと思います。進学の時に一番お世話になったのは両親ですので、その御恩は忘れませんが、祖父母にも大変感謝しています。祖父、祖母はもう亡くなってしまっていますが、何かの形で恩返しをしたいと思っています。娘に私の祖父母の話をするとか、祖父の事あるいは祖父の父を知っている方との交流を大事にするということが、今でからでも出来る祖父母に対する恩返しです。今回は祖父に敬意を表して、私の署名に祖父のイニシャルを使わせていただきました。(図1-7、ネットでは省略)