「古今の異学の悟道者と申すは、上古の愚夫愚婦なり。上古の凡民には狂病なし。其悟道者には此病あり。先地獄極楽とて、なき事をつくりたるにまよひ、又さとりとて、やうやう地獄極楽のなきといふことをしりたるなり。無懐氏(ぶくわいし)の民には、本より此まよひなし。是を以て、さとり得て、はじめて、むかしのただ人になると申事に候。ただ人なれば、せめてにて候へども、其上に自慢出来て、人は地獄に迷ふを、我は迷はずとおもひぬれば、地獄のなきと云一事を以て、何をもかをもなしとて、いみはばかる所なく候。儒仏共に、世の中の此(この)無の見(けん)はやりものにて候」

『集議和書』巻二