二月 節分と初午

 

節分

冬至と春分の中間の日が立春で、その前日が節分です。節分には豆まきをしますが、これは災厄や邪気を祓う行事です。豆まきは大豆を炒って神棚などにお供えした後に、「福は家、鬼は外」のかけ声とともに、屋内外に豆を撒きます。私の実家では、「鬼は外、福は家、福は家」と言っていましたが、地方によって言い方が違うようです。この豆まきは鬼追いのためとされていますが、もともとは屋内外の神様へのお供え物だったとも言われています(『神道のしきたりと心得』 神社本庁教学研究所監修 池田書店)。同書には、「豆を打って鬼を追う行事は室町時代に中国の明の習慣を取り入れたものと考えられています」と書かれています。

節分に、豆まきだけではなく、柊(ひいらぎ)などに刺したイワシなどの頭を焼いて、戸口に挿して疫神などの侵入を防ぐ行事もありました。柊に刺す魚は、臭気のあるものが好まれたようですので、鰯などが選ばれたようです。子どもの頃、あちこちの玄関に柊に刺さった魚の頭があるのを見て「気持ち悪いなあ」と思いましたが、最近ではめっきり少なくなりました。「鰯の頭も信心から」という諺がありますが、このことを言っているのでしょうか。

 

豆まき

今年は前厄ですので氏神様の神社の豆まきに参加いたしました。参加した皆さんは背広やジャケットの上に裃(かみしも)を着けます。お祓いを受け、宮司さんの祝詞奏上、参拝者の玉串奉奠の後、御豆の入った大きな升をいただきました。神楽殿に上っての豆まきになりました。豆だけではなく、お供物のミカンや福豆の袋なども升の中には入っていました。宮司さんが鏑矢を射ってから、私たちは「福は内、鬼は外」のかけ声とともに、参拝の方のおいでになる方に向かって、豆まきをしました。鏑矢をはじめ豆やミカンは縁起物だそうで、参詣の皆さんが取り合い(言い方が悪いですが)をしていました。子どもと一緒に出掛けましたが、私は、子どもが受け取れるようにミカンをひとつ投げました。豆まきの後、直会(なおらい)があり、御新酒などをいただきました。笑う角には福来ると言いますが、直会は和やかでした。陽ざしも良く、大変けっこうな豆まきをいたしました。

余談ですが、裃というのは肩が突っ張っているので隣の方に触れやすく、また、袴というのは階段が上りにくいというのもよくわかりました。

 

初午

立春後の二月最初の午の日に、お稲荷様をお祭りする行事。私の実家は、祖父の本家のお稲荷様をお祀りしていますので、子どもの頃から初午や二の午は特別な日です。祖父の本家は、神奈川県二宮の出身だそうで、神奈川県秦野市の白笹稲荷神社のお稲荷様をお祀りしています。

二月初午をお稲荷様の縁日とする由来は、伏見稲荷大社の御祭神が稲荷山に降臨されたのが、和銅四年(七一一年)二月十一日(または九日)で、その日が初午だったという伝承によるということです。伏見稲荷大社の御祭神は、宇迦之御魂(うかのみたま)大神、佐田彦(さたひこの)大神、大宮能売(おおみやのめ)大神、田中大神、四大神(しのおおかみ)で、総称して稲荷五社大明神です(『【縮刷版】神道事典』 弘文道)。

二月初午のお祭りの説明には、伏見稲荷大社の御祭神の鎮座と結びつける説明の他に、春に山の神が降りてきて田の神となり、秋には山に帰っていくという全国的に存在する民間の信仰と結びついたもので、山の神迎えが初午へと定着していったという説明もあるそうです。

私は小さな頃から、「奉納 正一位 白笹稲荷大明神」と筆で書いた五色の旗をお稲荷様にお納めしていました。昨年からは、この旗を私の子どもも書くようになりました。油揚げ、鯛などのお供物とともに、子どもに配るお菓子なども一緒にお供えしますが、このお菓子をいただくのが楽しみでした。

なお、実家では、父が初午には秦野市の白笹稲荷神社にお参りに行き、二の午に家のお稲荷様のお祭りをしておりました。それを引き継ぎ、実家のお稲荷様は二の午にお祭りをすることにしております。

 

建国記念の日(二月十一日、紀元祭) 

わが国の建国は古くから記紀の神武天皇建国説話に基づいて語られており、その即位の日をもって「建国記念の日」が定められている。

神武天皇の御神名は古事記では神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)です。

 

祈年祭(二月十七日)

トシゴイノマツリとも言われ、一年の豊穣を祈願するお祭をする日です。その成立は、律令国家時代に、当時広範に行われていた春の農耕儀礼を母体に、中国で行われていた大祀祈穀を参照して天武天皇四年(六七五年)に令制国家祭祀として立制されたものと、最近は考えられています。秋の収穫祭である新嘗祭(にいなめさい)と対置されています。