一月 うららかなお正月ですね

 

元日  

 

初詣(元日)

平成十三年の新年の東京は快晴に恵まれ、うららかなお正月を過ごすことができました。

朝七時過ぎ、輝かしい初日を拝めました。遙か西を見ると、雪化粧をした富士山の頂上も見えていました。お屠蘇でほろ酔いになってから氏神様に初詣。天候にも恵まれていましたので、最近では一番の人出でたいへん賑わっていました。

景品(一等はハワイ旅行。末等は十等)付きおみくじという企画があったので新年の運試しをしてみたところ六等があたりました。巫女さんがカランカランと鐘を鳴らしてくれてくれました。六等以上は神楽殿の近くに名前が出るということで、元日からお目出度いことがありました。

 

明治神宮にて(正月二日)

明治神宮に初詣。二日も天候に恵まれました。たくさんの常緑樹に囲まれた神宮の森に入るとビル風もなく、マフラーもいらないくらいでした。初詣の老若男女を善男善女と言うのだと思いますが、善男善女で大変な賑わいでした。年輩の方よりも若い人の数が多かったような気がしました。

明治神宮のおみくじは明治天皇さま、昭憲皇太后さま(お名前は明治神宮ホームページによりました)のお詠みになった和歌の「大御心(おおみこころ)」ですが、ひとついただいて帰ってきました。帰り道、家族で直会(なおらい)をしてきましたが、ビールが美味しくて、いい気分になって帰路につきました。

「大御心(おおみこころ)」は、明治神宮ホームページでも紹介されています。URLは 大御心(おおみこころ) です。

 

七草(正月七日)

一月七日に松飾りを下げます。そして、七草粥を食べます。「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ これぞ春の七草」と小学生の時に覚えました。実際には、すずしろは大根ですし、なずなは、ペンペン草と言っていました。私は関東ですので、普通に食べるお粥はお醤油味でしたが、七草粥というと塩味のことが多かった気がします。七草粥には小さなお餅も入っていたと思います。

「白いものには神様が宿る」ということと関係しているのだろうと思います。お正月のお餅の色も真っ白ですし、七草粥も真っ白です。日本の神様は八百万(やおよろず)の神といわれますが、七草粥の中にはどんな神様がおいでになるのかと今更ながら真剣に考えています。「お米には神様がおいでになるから粗末にしてはいけない」と言われてたべている精米も真っ白です。

七草の材料は、子どもの頃には母がひとつずつ八百屋さんで買っていた気がします。学生時代に、母は”七草セット”を八百屋さんで買っていたと思います。そして今年、我が家には七草の鉢植えが飾られています。小さな丸くて浅い植木鉢の中に七草が植わっています。これを七日まで鑑賞して、その後、お粥にしていただくというものです。この鉢植えを見ていると「短い大根を作ったのかなあ」とか、想像に飽きないのですが、子どもに七草のことを話すときには便利です。

 

成人の日 

最近では女性の晴れ着姿がよく似合う成人式ですが、私は自分の成人式をしっかり行っていないのです。両親は何らかの形に残したかったと思っていたようでした。しかし、私の若気の至りで、試験やクラブ活動のせいにして、おろそかにしてしまいました。

成人式。古くは元服の意の解釈でしょうか。年齢は今の成人式の方がずいぶん高いですし、元服に季節があったとは思いません。さて、レディーの皆様には失礼いたします。源氏物語に、元服する男子を、仕えている女官が「湯に入れる」という記載があったと思います(源氏物語をしっかりと読んでいませんので、うる覚えですが)。「湯に入れる」とは、見えそうで見えないような表現で、私は真の意味を知りませんが、何らかの性的な意味を持っていると思います。奥ゆかしく、おおらかな表現です。源氏物語は平安貴族の物語ですから、私(たち?)の生活に置き換えて考えることは無理があります。しかし、あえて、「湯にはいれる」のならば、私も成人式をやっておけば良かったと、最近になり思います(笑)。現在では、成人になると「お酒が飲める」「タバコが吸える」となり、源氏物語から比べると、奥ゆかしくもなく、胸のときめきもないもので代用されている気もします。かみさんと子どもに叱られますので、この位にします(笑)。

 

どんと焼き 左議長(さぎちょう)(正月十五日)

正月の松飾りや注連縄(しめなわ)などを各戸から集めて広場や畑など一定の場所に積み上げてお焚きあげする行事。正月十五日を中心に行われる火祭。

子どもの頃は「どんと焼き」と呼んでいましたが、正しくは左議長のようです。左議長の語源は、鳥追い行事との関係で鷺鳥の意味だとする説や、馬上で毬打ちする漢土伝来の遊技に使用するスッテキを意味する毬杖(ぎじょう)に由来する説など諸説があるということです。また、火を焚いて焼くのですが、あえて「お焚きあげする」と教わったように思います。お正月に、良い年を迎えるために神棚や門、玄関などに飾ったものは、神様のことに使ったものだから、火を使って神様のもとに返すということで、あえてお焚きあげすると言っていたのではないでしょうか。

寒さの中のお祭りですが、お祭りには楽しいこともありまして、どんと焼きの火でお餅やお芋などを焼て食べました。時には、かたくて食べられないものがあったりもしました。食べられないというのは何だか神様に申し訳ない気がして、後ろを向いて口から出して、もう一回、火の中に入れてお焚きあげしなおしたりしました。このごろは、ダイオキシン問題との関係が難しいようですけれど。

 

厄払い

私も前厄の年になってしまいました。厄年で『【縮刷版】神道事典』(弘文道)を見ますと、「災厄の多いとされる年齢。・・・厄年は本来還暦や古希などとともに年祝(としいわい)にあたり、晴れの年でもあったという。そして神輿担ぎや宮座の加入など、神事にかかわり、物忌(ものいみ)斎戒(さいかい)が求められた。したがって役年の意味に用いられる場合もある。現在では晴れの歳という感覚は薄れて、普請や新しい事業を始めることなどを慎む禁忌の感覚だけが強く残っている」とあります。つまり、もともとは、神事に関係する年回りだから、身を慎むために家を建てたり新しい事業を始めないという意味のようですね。これで何となくすっきりしてきました。

厄払いは立春前までに神社仏閣にてご祈祷していただくもののようです。

 

宮中歌会始

宮内庁ホームページ(さすがにリンクは失礼かと思いますので遠慮します。念のためURLは、http://www.kunaicho.go.jp です)によりますと、人々が集まって共通の題で歌を詠むことを「歌会」というそうです。万葉集にもその記載はあるそうです。天皇がお催しになる歌会を「歌御会(うたごかい)」というそうですが、年の初めの歌御会を「歌御会始(うたごかいはじめ)」と、特別に区別しているそうです。歌御会始の起源は、遅くとも鎌倉時代中期まで遡ることができるそうです。その後、脈々と受け継がれ今日に至るそうですが、平成十三年のお題は「草」でした。歌会始のために宮内庁に提出する和歌を詠進歌(えいしんか)と言いますが、私も昨年はじめて、詠進歌をお送りいたしました。歌会始までは、発表してはいけないきまりですが、すでに歌会始の儀もすみまして、一般から詠進して選に預かった歌も宮内庁ホームページに披露されております。さすがに、みなさんものすごくお上手です。

平成十四年のお題は「春」ということも発表になっておりました。

 

だるま市

だるまさんに目を入れて願掛けをする。そのだるまをいただく だるま市もお正月の行事です。この時期を逃してしまうと、新しいだるまさんを手に入れるのが難しくなってしまいます。さて、昨年、私は「だるまさんの目、左右のどちらを先に入れるのが正しいのか?」ということ考えてしまいました。それまでは何となく、片方の目を入れておりました。こういうことは、本にもなかなか書いてありませんし、だるま市が終わってしまうと、誰に聞いて良いのか難しい問題です。その疑問を、インターネットの神社と神道ホームページ http://www.jinja.or.jp で質問してみました。そうしましたら、ある神主さんから「当家では代代だるまの目は左そして右と入れております」というお返事をいただきました。また、「ちなみに当家では両目を入れないとだるまの目が見えなくて縁起が悪いと言われております」ということも教えていただきました。

 

大寒(だいかん)

二十四節気の一。太陽の黄経が三十度に達したときをいい、太陽暦では一月二十日頃にあたります。また、大寒は冬の季節を表す言葉でもあります。「寒(かん)」は、立春の前、三十日間をさします。その前半十五日を小寒、後半十五日を大寒といいます。大寒は、一年で最も寒い季節と言われています。平成十三年一月二十日(大寒)に、東京は雪になりました。今年は、シベリア寒気団が強いようです。

武道では、寒中稽古というのがあります。寒の間に心身を鍛えるために、あえて、寒い間に稽古をするというものです。また、寒中水泳などの行事のある地方もあります。

 

大相撲初場所

現在、大相撲本場所は、年六回開かれますが、やはり、初場所は一番華やかなです。大相撲初場所は、現在、両国国技館で開かれています。相撲の土俵の上に屋根がありますが、この屋根は、神明造りといって、伊勢神宮をはじめとする本殿建築様式を踏襲しています。

相撲の歴史は、古くは古事記まで遡ることが出来ます。現在の両国国技館の正面入り口には、相撲の歴史に関する四つの壁画が掲げられていますが、そのうち、玄関を入って右手前の絵は、建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の力比べの絵です。この力比べは、大国主神の國譲りの神話と関係します。建御雷神は、鹿島神宮や春日大社などの御祭神で、建御名方神は諏訪大社などの御祭神です。

これだけ相撲の歴史が古いと、「国技館」とうい名前の由来もうなずけます。

 

雪の翌日−ヒヨドリ二題−

今年は例年になく雪が多いようです。昨日(一月二十七日)は大雪でしたが、今日は爽やかな晴天です。

もう八十歳を越える御近所のお爺さまの話では、大正時代から昭和初期にかけて、大雪の翌日の晴れた日には、野鳥を捕りに出掛けたと聞きました。田圃の畦道に餌をまき、一面の雪で餌を探している野鳥(ヒヨドリなど)を、番傘の竹に鳥もちを付けた仕掛けで捕まえたそうです。そのヒヨドリを焼いて食べるのが楽しみだったというお爺さまの笑顔は、自慢げでもあり、お爺さまのお父様との懐かしい記憶のようでもありました。

私の実家のお稲荷様のお社のすぐ側には祖父が植えたと思われる柿木があります。今は大分大きくなりました。秋にはおよそ二年に一度、柿が実ります。昭和四十年頃の祖父と祖母の会話です。祖母「せっかく沢山なるようになったけれど、死んじゃったら食べられないね」。祖父「死んじゃったら、鳥になって食べに来るから・・・」。母と私は、この祖父の言葉を覚えていますので、柿の実が成っても全部は採らないようにして、鳥になってやって来ると話していた祖父と祖母のために残しておきます。

番傘の竹に鳥もちを付けた仕掛けの話から七、八十年が過ぎた雪の翌日の今日、私の家のベランダにもヒヨドリが餌を探して飛んできています。夜が明ける前から鳴き声も賑やかでした。「鳥になってくる」と言った祖父、それの話を聞いていた祖母のことが忘れられず、野菜の切れ端としなびてしまったミカンをナイフで半分に切ってベランダに置いてみました。しばらくして、ヒヨドリが一羽やって来ました。首を丸めて長いくちばしでミカンを啄んでいました。そして、遠くに向かって鳴いていました。まるで、誰かを呼んでいるかのように。

雪の翌日ヒヨドリを捕まえて食べたというお爺さまの話と、鳥になって食べに来ると言っていた祖父母の話。この二つは、頭で考えると矛盾するような気もしますが、私の心の中では、どちらもほろ温かい話です。