□■リルケノート005 ■□
        「リルケの誕生と死」(2) [ 純粋な矛盾 ]


リルケはその生涯にわたって各国各地を転々と放浪した。
1921年の書簡にリルケは次のようにしたためる。

「私はただ第一歩を踏み出すためだけにでも、もう家族や故郷の束縛から逃れなければなりませんでした。」※1
 この意味はなにか。


 彼の逃亡は、1892年リルケ17歳、年長の女性教師との駆け落ちからはじまり、1902年クララとの家庭関係の実質解消(後段参照)を経たのち、ドイツ・オーストリア各地はもちろん、ロシア、スウェーデン、デンマーク、ベルギー、フランス、スイス、イタリア、スペイン、エジプト等々に及ぶ。
 第一次世界大戦後、荒廃した欧州から亡命するかのように、リルケはスイスを拠点とするに至る。
 そのスイスで終焉の地として落ち着く先が「ミュゾットの館」だ。

(リルケの予定では、このミュゾットをもいずれ引き払うつもりだったらしい。
 ミュゾットの館に腰を据えたのは1921年7月から1925年12月の誕生日を迎えるまで。
 それ以後はもっぱらサナトリウムの床に臥すことになる。 )

 1921年某日、リルケは、スイス、ヴァレー州(仏: Canton du Valais・独 Kanton Wallis州)シエル(シエール:Sieere)の不動産店の店先で一葉の写真に出会う。(写真ではなく「絵葉書」であった、という説もある。※2 )

 シエルの街はずれのこの館を老いた女性所有者は「ミュゾット(ムソー)の城(Chateau de Muzot)」と呼んだ。( ※3 )
 13世紀頃に建てられた「城」であるという。
 水道も電気も通っていないうえに、規模から見ても「城」と呼ぶのはいかにも仰々しく、幽霊が出没するとのいわくつきの館であるが、このことがことのほかリルケの食指を動かした。(※5 の書簡にことこまかにリルケ自身が書き添えている。)

 なお、リルケは後ほど述べる遺言状に、幽霊となってさまよう女性に迷惑をかけることを慮り?同女性が埋葬されている同地域の墓地に自分を埋葬しないよう指示したとの話が残されている。( ※6 ) 

 そのようなビックリおまけつきの田舎の古い一軒家であるが、レップマンは「家賃は月額250フランという法外なものだった」と記している。 ( ※4 ) 
 躊躇するリルケに対し、物件探しに協力していた恋人で舞踏家パラディーヌ・クロソウスカ(メルリーヌ)オイゲン・シュピロ(1874-1972)は、是非この「城」を借りるように強く勧めた。
 数日後、リルケは賃借契約を結んだ。こうして彼の最後の住まいが定まった。
 リルケには貧弱なアパートの一室に暮らすなど、想像だにできなかったに違いない。

(さてここで少し余談。
 グーグルマップ上でミュゾットの館を訪ねるオンライン旅行というのはいかが?

 ミュゾットの館の地理的な位置関係は次のとおり。
 スイス・イタリアの国境にそびえるマッターホルンから約40Kmほど北上すれば、ローヌ川に沿って整備されているローヌ高速道路にぶつかる。道路線形上に「9」の数字が置かれて道路がそうだ。
 ローヌ高速道路にぶつかったところから道なりに西へおおよそ7~9Km視点を移動すると、「シエル」にゆきつく。
 鉄道駅シエルから北北東にわずか1kmあまりの位置に、東方向に「ムーラン道路」と「ミユージュ道路」に分岐するロータリーを確認することができるだろう。(ロータリー南レストラン Restaurant la Croiseeが目印)
 ロータリーのすぐ東側、つまりムーラン道路とミュージュ道路に挟まれて緑地に囲まれた三角地がある。
 当該三角地の南側はリルケ居住往時と同じ畑地のようだ。その畑に接して北側にぽつんとたつ建物を発見できるはずだ。
 地図を航空写真にして、該当する建物上でマウスの右ボタンをクリックするとストリートビュー画面で確認できる。
 そこがミュゾットのの館だ(ストリートビューで Premnade R.M.Rilke の道路標識が確認できます。)

 ややっこしい案内をしましたが、要するにグーグルマップの検索窓に「スイス シエル Restaurant la Croisee」とキーワードをほおりこめば、即座に、上記館のそばへマップがあなたを案内する。
 ストリートビュー?で御覧になればおわかりになるが、周囲には随分民家などがぼちぼち建て込んでいる。開発が進んでいるのだろう。

 当時の様子として、1921.07.25 タクシス夫人あての書簡に次のように書き添えている。

「これはシエールから約20分、かなりけわしい坂をのぼったところにあり、あたりは比較的不毛でなく、泉があちこちに湧きこぼれ、流れ落ちている。いかにもたのしげな田舎らしいところです。--下の谷や、山の傾斜や、おどろくべき空の深みなどが眺められます。すこし左上手の葡萄畑のなかに・・・小さな、田舎ふうの教会があるのですが、これもここに付属しているものです。・・・私は自分で「小さな城館」と言いましたが、これはこのあたりいたるところにのこっている中世の領主館の完全な典型なのです。」( ※5 )

 なお、グーグルマップ「Chateau de Muzot」と検索すると、なんと、「ミュゾットの館」ならぬ分譲?賃貸?マンション・ミュゾットに案内されてしまいます。)

 ところで、上記のとおり、高額な賃料の「ミュゾットの館」であったが、その賃借料をリルケが支払ったわけではない。
 パトロン頼みのリルケのことだ。ナニー・ヴンダリー=フォルカルト(リルケが篤い信頼を置いていた製革工場主の妻。ただひとり彼女がリルケ臨終に添ったとリップマンは伝記※4に書き込んでいるが、他の資料では、臨終に付き添ったものは看護婦以外に誰も居なかったとの記述もある。)が従兄弟のヴェルナー・ラインハルトに連絡をし、ラインハルトがリルケになりかわり館の賃料の支払う支援を行うこととなった。(館所有者は、短期の貸し出ししか念頭に置いていなかったようだが、後に物件はラインハルトが購入し、リルケに生涯居住を保証した。)※4 

 リルケはこの館に籠もって驚異的な詩作活動に入る。
 その完成を断念しかけていた「ドゥイノの悲歌」第7、8、9、6、10、5、そして改めて第7歌の新しい稿を創作し、10年ごしの執筆を終えた。
 また、その間、「オルフォイスへのソネット」を書きあげる。

 「ドゥイノの悲歌」は、改めて説明するまでもなくリルケにとってのいわばライフワークであり、彼の到達点だった。
 つまりリルケは1895年詩集「家神への捧げ物」(または「家神捧幣」など)からドゥイノの悲歌・オルフォイスまで、一貫して生と死という二つの極を跨ぎ立つ己をひたすら見つめ続けたのだとぼくは思う。

 「ドゥイノの悲歌」完成につづいて、リルケはポール・ヴァレリーと懇意になる。
 あわせてフランス語詩集「果樹園」(1926.6「ヴァレーの四行詩」付)、「薔薇」(1927刊行)、「窓」(1927刊行)など、最後の代表作を生んでゆく。
 これらはもっぱらフランス語で創作されたことから、リルケはドイツ語を棄てたと非難されるほどだったという。

 さて、『ドゥイノの悲歌』の最終的な完成にたどり着いた1922年2月以後、リルケの体調の悪化が顕在化してきた。 
 1923年夏には、医師から療養を指示され一ヶ月間サナトリウムでの療養生活を余儀なくされる。
しかし、状態は改善をみせず、原因不明の疲労感、食欲減退、腹部の病的な過敏愁訴は進行するばかりで、翌1924年8月には体重は50kgを切ってしまう。
 改めて療養所に入るが、回復の兆しはなく、経済的な理由も重なり、ミュゾットに戻る。

 その後、「医師のところへ行くのをできるだけ先に延ばしたあと、ついに堪えられぬ痛みに苦しめられ、11月30日、ジェニア(リルケが同年9月に雇った若いロシア人女性秘書)に伴われてヴァル=モン(サナトリウム)に赴いた。
 そこでの診察の結果、彼は白血病に冒されていることが判明。それも稀にしかない、特別に痛みを伴う型のものであり、まず内臓に症状が現れ、最後の段階では口腔や鼻の粘膜にも黒い膿疱を形成するという種類のものであった。これらの膿疱は破れて出血し、こうした状態を病む患者には何も飲むことができなくなってしまうため、リルケは痛みとならんで、癒やされることのない渇きにも苛まれることになった。」 ※4

 リルケの生命を奪った白血病の診断結果が明らかになる少し前に(晩秋)に、リルケはいくつかの遺言状をしたためる。
 
 「もしも、私が重病に陥り、最後に精神もまた錯乱してしまうような場合には、司祭が援助を申し出てきても、一切それを遠ざけてくださるように・・・・・『開かれた世界』をめざす私の魂の動きにとっては、どんな仲介者としての司祭も有害であり、厭わしいであろう。」※4 と覚悟めいた指示を行う。

 さらに、娘ルートに渡されるべき家族の写真を例外として、ミュゾットにあるすべての家財はミュゾットの城を提供してくれたニケ(ナニー・ヴンダリー=フォルカルト)とヴェルナー・ラインハルトのものとすること、埋葬はミュゾットではなく、ラロンの古い教会の墓地に埋葬すること、その墓石には、彼の名前とリルケ家の紋章、そして三行からなる詩文(リルケノート002参照 この詩行は、『詩集 1906-1926年』所収の「おお 涙溢れる女(ひと)よ」の最終連でもある。)を刻んでほしいことなどを書き記した。

もはや彼は死を自覚し、死に臨み立ってしまったのだろうか。
 リルケ魂の歌を書いたキッペンベルクは、リルケはなお生を放棄せず、回復への期待を把持し続けたと証言している。
 もっとも彼の理念において、死は生の対極に立つものでも、双方が排除しあうものでもない。
  
「死とは私たちに背を向けた、私たちの光のささない生の側面です。私たちは私たちの存在の世界が生と死という二つの無限な領域に跨がっていて、この二つの領域から無尽蔵に養分を摂取しているのだという、きわめて広大な意識を持つように努めなければなりません。・・・まことの生の形体はこの二つの領域に跨がっているのであり、この二つの領域を貫いて、きわめて広大な血の循環がなされているのです。此岸というものもなければ彼岸というものもありません。あるのはただ大いなる統一体だけで、そこに私たちを凌駕する存在である「天使」が住んでいるのです。」※7

生の希みと死の予感に揺れ動きながら、生と死の超克のみちすじを詩のなかにリルケは探っている。
 「なぜ書かねばならないか」※9 との自問にどこまでも誠実であろうとし、詩にまことに真摯に対峙するリルケの姿にぶれはない。

とはいえ、肉体をむしばむ痛苦はリルケを翻弄する。
 12月、死を目前に、主だった友人などに、重篤な病に罹っていることを知らせる。

「親愛なるカスナー、これなのでした。私の肉体が三年前からしきりに警告してくれたのは。いま私は、みじめな限りなく苦しい病気に罹っています。いままであまり知られていない血液細胞のある変化が、この非常に怖るべき、全身にちらばっている病的経過の出発点となったのでした。そして私、この比較を絶した、名もない苦悩を正しく直視しようとしながった私は、いまこの苦悩に順応することを学んでいます。」※9

「奥様、ほんとうにみじめな、恐ろしい病気にかかて、いままで考えてみたこともないほど苦しんでいます。医者たちは何とか呼んでいるのですが、すでに何とも名づけがたいものとなったこの苦しみ。しかし、この苦しみは、これが自分の声だとぜんぜんわからないような叫びを三度か四度あげることしか教えてくれません。・・・・・」※10

 こうしたリルケの状況を、彼の死後、最後までリルケに付き添ったナニーは次のように記した。

「あるとき、急に私に向かって申しました。
 私の死ぬのを助けてください。
 私は医者たちによる死を死にたくないのです。---私は自由を持ちたい、と。
 それから死については、私は死をよく知っている! と申しましたし、また、生命は私に、
 もはや何も与えてくれない--私はすべての地獄の上におかれていたのです--とも申しました。 ・・・・(略)・・・

 病気の苦しみについては、とても筆ではつくせません。彼があのように苦しまねばならなかったことは、あまりにも情けないことでした。でも、すべての看護と、楽にしてもらったことにたいして、たいへん感謝していました。

 彼はときどき私と看護婦さんをとりちがえました--しだいに放心的になり、激しい咳をしたり--溜息をついたりしました--ああ、それは、胸がさされる思いでした--もう何もいただかなくなりました--死の眠りが始まるまで--彼の最後は、(医師と看護婦に対して)ただ感謝でした--そのようにして朝からまた朝にいたるまで--彼がかすかな、最後の呼吸をするまで。
 私はほっと息をついで、ありがたいことだ!と申しました。とうとう苦悩が終わった彼の安らかな死を、私はよろこびました。」※11

 極力鎮痛剤の服用を忌避し、まるで自己処罰を己に課すようにリルケは死の病と闘った。
 そのような状況のなかで12月中旬、つまり、死に向かってリルケは最後の詩を書く。
 あたかも挑戦状のように、その詩は吼えている。

「 来るがよい おまえ 私が承認する最後の苦痛、
  肉体の組織のなかの癒やされぬ苦痛よ。
  精神のなかで私が燃えてきたように 見よ いま私は燃えるのだ
  おまえのなかで。薪は長らく逆らってきた、
  おまえという燃えたつ火に同意することに。
  けれどいま、私はおまえを育み おまえのなかで燃えるのだ。
  この世界での私の柔和は、おまえの憤怒のなかで
  ここのものではない地獄の憤怒に変わるのだ。
  まったく純に 未来からまったく企みなく自由に 私はのぼった、
  苦悩が乱れ重ねた火刑の薪やまに。
  いずこにあっても未来を購(アガナ)うことは もう確実に不可能なのだ、
  無言の貯えを内に孕むこの心を代償としても。
  いま見分けがたく燃えているもの、それはまだ私なのか?
  おお 生よ、生よ、外側に在るということ。
  そして私は燃えさかる火のなかだ。だれひとりいない、私を知るものは。」 ※4 


1926年12月29日の早朝、スイス・レマン湖畔の町モントルーのサナトリウム・ヴァルモン療養所でリルケはやっと酷い苦痛から解き放たれた。 享年51歳だった。
 
 翌年1927年、リルケの遺言により、シエルの隣村ラロン(シエルからほぼ10Kmほど東に位置。ドイツ語圏エリアに属する地域という。)の岩山にぽつんと建つ教会の一隅に埋葬された。※12※13
 埋葬には、キッペンベルク夫妻(夫は、インゼル書店店主。『旗手クリストフ・リルケの愛と死』をはじめ、リルケの主著を発行。夫人は、後年、和訳邦題「魂の歌=リルケ」を記す。また、彼女の一存で、リルケの印税の一部をクララに支給していた。)、上記ナニー・ヴンダリー=フォルカルト、リルケによって見いだされた女流作家レギーナ・ウルマン、かつての恋人「苦悩の胸像」といわれたルー・アルベール=ラザール、リルケの友人の女性ヴァイオリニストのアルマ・ムーディら数名が立ち会った。
 弔辞としてひとりの会葬者(※14)が下記「ドゥイノの悲歌」第一の悲歌の最終連前半部の朗読で別れのことば結んだ。

『結局 彼らはもはやこの私たちを必要としないのだ あの早く逝った者たちは。
 彼らはこの世の習わしからおだやかに離れていく ちょうどひとが
 母親の乳房から静かに離れて成長していくように。けれども私たち あのように偉大な
 神秘を必要とし しばしば悲しみのなかから
 至福な進歩をなしとげる--私たちは死者なしでいることができようか?』
                       (富士川英郎訳)

 ------------------------- この項 つづきます。

※1 1921.10.30 クサーファ・フォン・モース宛書簡
※2 矢内原伊作「リルケの墓」
※3 「ミュゾットの館」 http://nemurusyura.blog46.fc2.com/blog-entry-184.html
         http://nemurusyura.blog46.fc2.com/blog-entry-175.html
            http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4844_14205.html(堀辰雄) 
※4 リップマン「リルケ 生涯と作品」(河出書房新社リルケ全集別巻)小島衛訳より
※5 1921.07.25 マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス=ホーエンローニ公爵夫人宛書簡
※6 「リルケ」アンジェロス (富士川英郎・菅野昭正訳)より
※7 1925.11.13 ヴィルトルト・フォン・フレヴィチ宛書簡 富士川英郎訳 より
※8 1903.02.17 フランツ・クサフェル・カプスへの手紙より(高安国世訳)「若い詩人への手紙」所収
※9 1926年12月15日 ルドルフ・カスナー宛書簡 富士川英郎・高安国世訳 より 
※10 1926年12月22日 エルイ・ベイ宛書簡 富士川英郎・高安国世訳 より
※11 1927年2月16日 ナニー・ヴンダリー=フォルカルトから某夫人への手紙より
※12「 ブリッゲから二つ目のラロンは実に小さな駅だ。何しろ駅員が二人しかいないのだから。・・・思ったより遙かに水量が多く流れの激しいローヌ川を渡り、高いポプラの並木の間を北に向かって歩く。道はまっすぐにラロンの村の方にのび、両側は疎らな果樹園で、小さな青い林檎の実が沢山なっている。嘘のように爽やかで、明るく、人影は全くない。リルケの墓はどこにあるのか。それはラロンの駅におりた瞬間からぼくにはわかっていた。というのは、駅におりたぼくの眼は、葡萄畑や果樹園の向こうに嶮しくそそり立つ岩山とその上に光る尖塔に自然にひきよせられ、詩人の墓はあそこにあるのでなければならない、と直感したのだったから・・・・」
                      矢内原伊作 「リルケの墓」 より
※13 「ラロンの教会」 Google Map 「Museum auf der Burg, ラーロン 」で検索すればヒットします。
※14 エドゥアルト・コロディ スイス文芸家協会とシラー協会の依嘱を受けて告別の辞をのべた。