□■ リルケノート004 ■□
   
 - 「リルケの誕生と死」(1) [ 要らない子 ]

 

1875年12月4日 ルネ(・カール・ヴィルヘルム・ヨハン・ヨーゼフ)・マリア・リルケはオーストリア帝国プラハにて七月子として生まれ、
1925年12月29日水曜日の早朝、スイスのレマン湖畔モントルーにて没した。

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 1873年5月24日 リルケの父母、ヨーゼフ・リルケと自らをフィアと名乗ったゾフィア・エンツはプラーク(プラハ)にて結婚した。 
 結婚早々、フィアは結婚相手に幻滅を見ることとなる。
 まもなく女の子が生まれた。イスメネ(またはイスメーネ)と名づけられた。

 ソフォクレスの『アンティゴネ』にイスメネという名前が登場する。
 イスメネは、オイディプスとオイディプスの母との間に生まれた四人の子どもの末娘である。
 イスメネは、真実のおぞましさに耐えられず自らの両目を刺しつぶして盲目となったオイディプスのその後を甲斐甲斐しく支え孝行をつくした。(ソフォクレス『アンティゴネ』)
 もっとも、リルケ家にさずかった最初の子イスメネと、アンティゴネのイスメネの関係の有無はどの文献資料にも言及がないので、両者の関係は不明。

  残念ながらリルケ家のイスメネは誕生まもなく夭折する。
 この死は、フィアにとって大きなショックを与えた。
 (もし、イスメネが生存していれば、リルケの一生も大きく変わっただろうが、もちろん、これはナンセンスなifのお話だ。)

 娘を喪った母の失意のなか、フィアは、次の子を妊る。
 母は、早世した娘の生まれ変わりとして女の子の誕生を望んだという。
 しかし、月足らずで産声をあげた第2子ルネ・リルケは男の子だった。

 1922年12月17日付けのゾフィアから息子への手紙
 「それは、明るい、想い出にみちた祝祭日でした・・・雪がたくさん積もっていました。けれども、わたしたちは5時には思い切って家を出て、おばあさんを訪ねました。(12月)4日がおばあさんの誕生日でしたから。・・・・8時頃、急にわたしの気分があるくなったので、夜分でありましたが産婆さんを呼びにやりました。」※1

 祝祭日に姑のご機嫌伺いをすることが、リルケの父母に厳しく義務づけられていたのである。
 母の手紙の行間には、降雪の日、姑の機嫌を損なわぬよう降雪の日の訪問のせいで未熟児出産となったとでも訴える非難の意図が文面に感じられる。

 こうして生まれてきたリルケだが、笹川美明は次のように記述している。

 「彼は五歳までは少女のように育てられた。それはイスメネの代わりという気持ちが母親の心を離れなかったからである。ルネ・リルケは少女の服を着て、髪を少女のように長く編み、人形を持って遊んだ。フィアが人に話したところによると、ルネは人形の着物を脱がせたり、小さなベッドや台所を作ることをしたがった。そしていつまでも人形の髪を撫でつけていたりしたというのである。・・・・・
 或る時、行儀が悪いと叱られたルネは母親に償うつもりで母の部屋のドアを叩いた。・・(略)・・彼女がお入りというと、ルネは亡くなった姉イスメネを気取って入ってきた。そしてこういうのだった。
 『イスメネはお母さんのお傍にいるわ。ルネは要らない子よ。わたし、あの子を追い出してしまいましたの。女の子の方がずっと可愛いんですもの。』」※3

 上記引用にみる亡くなった姉になりかわり「ルネは要らない子」と告げて、母のご機嫌をうかがう様子は、出典は不明なのだが、リップマンのリルケ伝記にも採り上げられている。
 幼児の「ごっこ遊び」だったと受け止めるとしても、なんとも陰惨で、衝撃的なシチュエーションだ。
 あっ、病んでいる、と幼児リルケの内奥を覗かずにはいられない。
 
 かといって、母親は母親なりに、リルケを愛し、教育した。
 フランス語に堪能になったのも、幼くしてシラーの詩に親しんだのも、身だしなみ、エチケット(晩年、たった家政婦とリルケの二人だけの切り詰めた生活にあっても、夕食時にはタキシード身につけ、貧しい食卓に向かった)の美学をしみこませたのも、離婚後リルケを引き取ったのも母の「愛」の所産だった。

 リルケはこうして、生まれ育てられた。
 あたかも、生まれるやいなや、リルケの魂の奥に詩の主題がなだれ込んでしまった、ぼくにはそのような印象を感じるほどだ。
 いや、このことはひとりリルケに特殊なことではないかもしれない。
 人は誰しもが、生まれ落ちるや否や、詩の主題、幻想の主題を引き受けながら成長してゆくにちがいない。
 そのことに、いつ、どのように、どこまで深く、あるいは浅く、気づくか、それとも、気づかないまま己を通過するか、気づきながらもこれを本能的直感的に抑圧するか、その抑圧を無器用にやり損ねてしまうか、等々の差異によって、それぞれの生の風景を異ならせているのかもしれない。


 余談だが、
 彼の出生4年前、労働者政府パリ・コミューンが打ち立てられた。 
 17歳のランボウはそのパリをさまよった。
 その4年後、つまり、リルケが生まれた年、ランボーはペンを折り、沈黙の世界に身を委ね、やがてアフリカにて武器商人となり、片足を失う。
 同年、 キャロル『不思議の国のアリス』、その前年にはトルストイ『戦争と平和』、マラルメが『半獣神の午後』初稿を書き上げ、ゾラが自然主義文学を打ち立てようとしていた。
 ドイツでは、11ヶ月まえにシュバイツァー、5ヶ月前にトマス・マン、4ヶ月前にユングが誕生し、同年にアンゼルセンが没した。日本では上村松園、柳田国男、野口米次郎らが生まれた。
 ラサール派とマルクス派が合同しドイツ社会主義労働党が結成され、ゴータ綱領が成立した。
 資本主義が高度化しつつあった欧州において近代階級闘争とその組織化が激化していたのだ。
 その三年後にはゲオルゲが生まれる。ニーチェはまだ執筆活動を始めていない。ポール・ヴァレリーとマルセル・プルーストは4歳の幼児。いじめられっ子フランシス・ジャムは7歳になったところだ。ヘルマン・ヘッセやホフマンスタールは、まだ生を受けるに至っていない。
 リルケ生年は、サンサース「死の舞踏」、ビゼー「カルメン」、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」が初演された年でもあった。
 日本では、ようやく東京にガス燈が灯り、太政官令で平民にも苗字をつけねばならないと国民に命令し、福沢諭吉が『文明論之概略』を著した。


※1 星野慎一 「若きリルケ」より
※2 笹川美明 「リルケの愛と恐怖」
※3 リップマン「リルケ 生涯と作品」より   小島衛訳


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