□■リルケノート003 「 リルケの父母 」 ■□

 古い一葉の写真がある。
 1873年5月24日付けとなっている。
 二人の若い男女の結婚記念写真なのだろうが、ウェディング衣装とは見えない。
 新婦は22歳 新郎は35歳だ。

 左側に位置する新郎の体型は引き締まっており、スマートである。
 右手を白っぽいズボンのポケットに入れ、左手は自然に体に沿っておろしている。
 衣装のことはチンプンカンプンなので説明の術をしらないが、白黒写真のうえでは黒っぽいチョッキに黒っぽい礼服?タキシード?を着ている。
 まっすぐカメラの方に顔を向け、頬には立派に手入れされた(ぼくからみれば滑稽な)鍾馗さんのような顔に倍するほどの頬ひげを貯え、しかも、ぴんぴんにとがらせている。
 男の見栄がバリバリの写真である。

 写真の右側には、椅子に腰掛けた女性がいる。
 黒っぽい小さな帽子を頭に載せ、民族衣装なのか大きなストライプが数本横に走るスカートを穿いている。
 右手は軽く顎の下に添えているようにもみえる。
 左手は膝のうえに自然に置かれている。
 体全体を左側に向け、顔はわずかに正面に戻している。
 だが、彼女の視線がカメラレンズをとらえることはない。
 その視線は右側に向かっている。
 右側には新郎が立っているのだが、その新郎に視線を注ぐことない。
 視線は水平方向に新郎を通り越している。
 男性はすでに述べたように、まっすぐ正面のカメラを見据えている。
 まるで自分の世界に入り浸っているようにもみえる。

 つまり、こちらの気のせいか楽しそうなカップル写真にも、幸せあふれるカップルにも見えない。
 それぞれがそれぞれに取り澄まし、相互が相互の無関心を演じているようだ。

 19世紀末のことだ。日本でいえば明治維新からほんのわずかの年数が経たほどの時代だ。
 写真の撮り方も撮られ方もまだ確立していなかったということだろうか。
 愛し合うカップルの写真あれば、まして新婚のカップルの記念写真であれば、(いや、普通の複数の人物写真でさえ)互いに目と目をあわせるほどの演出を施さずとも、少なくとも二人の視線は同じ方向を向いているものが通常だと思うのだが、そうではないところが、なかなか個性のある、あるいはクセのある写真となっている。

 この二人が2年後に生まれるリルケの父母だ。

 リルケの父ヨーゼフ・リルケは、現在のチェコ(ボヘミア シュヴァービツ)で1838年に生まれた。
 三男だった。
 彼の次兄に従い軍人の道を進んだ。
 リルケノート002と重複するが、弟も軍人の道を選んだ。
 最初に軍人の道に入った次兄は陸軍中尉で死去とあるが、その死因を説明する資料を知らない。
 兄に倣って軍人となった末弟(四男)は昇進が期待できないことをに絶望。砲兵大尉の時、自殺したと記録にある。
 三男、つまり、リルケの父は、少年時代、歩兵教習所に入り、ついで陸軍高等教習所、さらに砲兵学校中隊に進み「どこにおいても抜群の成績を示し」たと文献資料にある。※1

 ヨーゼフは1856年伍長に昇進。
 砲兵第一連隊に「生徒隊長」として配属され、同隊勤務中に曹長に昇進した。
イタリア統一戦争にからんで1859年に出征。弱冠21歳で、ある要塞の司令官となったが敗戦の憂き目にあう。
 戦後、連隊学校の教官に任命されたが、慢性化した「頸部(咽喉部?)疾患」による休職等がたたり、軍隊内の出世競争から落ちこぼれていくこととなった。
 時代はナショナリズム台頭のきな臭い時代だ。軍人志望者は巷にあふれている。
 どんどん後輩が彼を追い越して出世していく。
 出世街道から取り残されてゆく状況に耐えきれず、ヨーゼフ・リルケ自ら1865年に軍隊から退いた。矜持の高さゆえの挫折は、弟フーゴに通ずるものがあったか。

 軍隊退役後、兄ヤロスラーフのコネ・ツテでトゥルナウ・クラルップ・プラーク鉄道会社に就職し、管理部、地方都市の駅長、倉庫の管理役の履歴を経て、最後にボヘミヤ北鉄道の監査役となった。決して貧しい生計ではなかったようだが、夫婦の見栄を満たすほどの裕福でもなかったようだ。
 
 父ヨーゼフの評価は、母ゾフィーの評価同様、好意的なものもあれば非難めいたものもある。
 たとえば、リルケ家の家政婦が頻繁に入れ替わったのは、父ヨーゼフに原因がある(その詳細は不明だが)と推測するものがある。
 また、街中を散策する父ヨーゼフは「平服姿の、たくましい騎兵将校さながらの上品な伊達男」で「美しい深窓の令嬢たちに深い眼差しを面と向かって投げかけるのだった。」と、ちょっとあぶないオヤジ像風の証言もあるが、同時に、かたくるしい、きまじめな人ではあったが、思いやりが深く純情無垢の人であったとの記述も文献に見受けられる。 ※1
 しかも、この相矛盾するような記事が同一者による執筆だから、ヨーゼフ氏はすこしとらえどころのない人物だったのかもしれない。

彼が死去したとき、地方紙に訃報が掲示され、次のような記事が添えられた。
  「リルケ氏は、極めて腰の低い人で、プラークの全市民に親しまれていた人であった。
 美しい白い髯をなびかせた氏が、毎日、午後、幾人かのプラークの名士連とともに、グラ-ベン街をあちらこちらに散策していた姿は、よく人目にとまったものである。」※2
 
 どうもただ単に「かたくるしい、きまじめな人」だけでもなかったのかもしれない。
 鉄道官吏を勤め上げ、年金生活に入ったのち、 父ヨーゼフはリルケが31歳となった年に死去した。享年68歳。

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 父ヨーゼフより十三歳年下のリルケの母ゾフィア・エンツは、1851年プラハにて枢密顧問官という肩書きをもつカール・エンツとその妻カロリーネとの間に生まれた。

 エンツ家の祖先は、エルザス(アルザス)に居住していたらしい、と星野慎一の記述にある。
 ゾフィア(通常はフィアと名乗った)の祖父の時代にボヘミヤに移住し、ブラーク(プラハ)にて土木監督官を務めていたが、息子(ソフィアの父)は、貯蓄銀行に勤め、出世して枢密顧問官兼貯蓄銀行重役となり、プラハの名門社会の一員に属した。
 フィアは裕福な生活環境のもとでなにひとつ不自由なく成長したのだろう。
 フィアとヨーゼフのなれそめなど、三文記事的なミーハー情報は不明であるが、エンツ家は後に放蕩息子のために没落したようだ。
 つまり、フィアは、これまでの裕福な生活の延長線上に、格好いいヨーゼフと結婚したのだろう。
 
 だが、フィアは瞬く間にその夢が壊されてゆくのを知る。

「 私の子供時代の家はプラハの狭い賃貸しアパートでした・・・・ささやかな所帯は、実際は名もない小市民のそれでしたが、外見は豊かそうに装っていました。着るものも人目をあざむくのが肝要で、なにがしかの嘘なども当然とされていました。」 とリルケは後年述懐する。※3

 「 フィアの持参金が底をついた後は、体面をとりつくろうために実際にいくつかの工夫がこらされなばならなかった。安物のワインが極上品のレッテルを貼ったビンに入れられて食卓に出され、社交的つどいの際には、部屋を広くするために皆のベッドをひと所に寄せ集めたりしたので、ときにルネは金色の鳥の飾りがついた黒い衝立のかげで眠らねばならなかった。」※4

 そのような日常をおのれに重ねてフィアが書いたある小説への感想文が文献資料に搭載されている。
「 あらゆる不幸な夫人、無上の喜びと確信をいだいて誤った結婚生活にとびこみ、激しい怒りにあふれ深く傷つけられてふたたび這い出してきた婦人、母性とか愛とかは、世のしきたりというわけで15,6の小娘の頃から念入りに言い聞かされてきたものとは、どうやら違うらしいことに気づきはじめた婦人、また、自分の女中や夫、あるいはまったく意のままにならぬ別の男性に不満をつのらせる婦人--このような婦人のだれもが自分の物語をつづり、学校で習ったつたないドイツ語で、のしかかる運命の重さや人生の不公平さ、際限もなく大切にふくませた、満たされぬ夢の数々などを物語るのでしょうか--いや、物語るどころか、わめき叫び、泣き声をあげ、ののしり、騒ぎたて、荒れ狂い、嘆き訴えるものなのでしょうか? 」※4

物心ともに幻滅を味わったフィアが夫ヨーゼフと別れたのは、結婚10年後のことだった。

 肉体的男性的権威コンプレックスへの代償のように父に貴族幻想をもとめたリルケ。
 これに対し、リルケに母乳を与えることを拒み、先に生まれ夭折した娘の身代わりのように幼いリルケを女装させ、リルケから性を奪った母。(リルケは5歳まで--フィアの記述によると7歳まで、女の子の恰好をさせられていた)
 その母を、リルケはやがて嫌悪し、母を拒否する至る。
1915年以後、リルケが母と会うことはなかったという。
 だが、幼少期、彼に夢を注ぎ、フランス語を教え込み、あるいはシラーの詩句を憶えさせ、どんな環境のもとでも身だしなみを整える教育を施し、あるいは、学校の行き帰り、乱暴な子供たちから彼を守りつづけて過保護な愛を注ぎこみ、夫との離婚後リルケを引き取ったのはフィアだった。
 フィアはフィアなりに、リルケを愛したのだ。
 そのリルケが、母から自由になれるはずなどない。
 リルケは母に囚われ、母を拒み、母を求めた。
 やがて、リルケはさまざまな女性遍歴を重ねていくことになるのだが、それは与えられなかった乳房をさがす嬰児のような心の必然だったと考えるのは通俗に過ぎるだろうか。

 リルケはこうして母を失い、そして、さらに彼自身の妻子を失いもする。

 人の生とは、かくも残酷な拱門をくぐれと人に強いるものなのだ。
 母フィアは、リルケが死去した5年後に亡くなった。享年80歳。

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 ※1 星野慎一 「若きリルケ」
 ※2 1906年3月4日づけプラーク日報 
 ※3 1903年4月3日エレン・ケイ宛書簡
 ※4  ヴォルフガング・レップマン 河出書房新社 リルケ全集別巻「伝記-生涯と作品



                         -2016.10.07
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