リルケは、彼の家系が古い名門貴族に繋がるものだと最後まで信じていた。
 1903年4月3日、リルケ(28歳)はエレン・ケイ女子宛の書簡に次のように綴った。

「 私の家柄は古いのです。1376年にはすでにケルンテン Kärnten の古い貴族に属していました。後(少なくとも一部は)、ザクセンやブランデンブルグに移り、17世紀と18世紀の初めの2,30年間には三つの勢力のある分家に分かれて富み栄えていたのでした。それから没落したのですが、訴訟争いで全財産をなくし、そして財産も領地もすっかり失い、貧困、ほとんどなんとも言いようのない状態になりました。暗黒のうちに約一世紀が過ぎたのち、私の曾祖父がふたたび勢力をとりもどしました。彼はリンデ河畔のカメニッツの城主でした。(ボヘミアのその城には苦しい過渡期のあいだに先祖の者が移住して来ていたのでした。)彼は古い伝承を蒐め、まさに失われようとしていたもの、一族の非常に古い名を忘却の淵から救ったのでした。しかし彼の後すぐ、また没落が始まりました。私の祖父は子ども時代をまだカメニッツで過ごしたのですが、後には他人の土地の管理人となりました。私の父は(一家の伝統にしたがって)将校の生活を踏み出したのですが、後に官吏生活に移りました。父は鉄道官吏で、ある私立鉄道のかなり高い地位についていますが、かぎりない誠実さでここまで勤め上げたのでした。父はプラーハに住んでいます。そこで私は生まれました。27年前に(カトリックの洗礼を受けて、ルネ・マリアという名がつけられました。)母の家系については私は何も知りません。彼女の父は富裕な豪商でしたが、その資産は放蕩息子のために倒れてしまいました。・・・ 」(1903年4月3日 エレン・ケイ女子宛書簡)

 上記書簡記述同年、次第にベストセラーとなってリルケの名を世に知らしめることとなる「旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌」が上梓された。
 同書について、1914年2月16日付けピアニスト・ベンヴェヌータへの書簡にリルケは次のように綴っている。
 「ぼくの祖先(1662年?)で、トルコ人に向かって馬を騎っていた旗手クリストフ・リルケの『歌』・・・ぼくはその詩を書いた。」(※1)

 また、その2年後、父の葬儀に接し、作成した父への追悼詩「若き日の父の肖像」には、「ほっそりとした貴族ふうのその制服の・・・」と、貴族の面影をなお父に求めている。

 また、彼は自らの遺言状に、彼がその後裔と信じ、また、彼の曾祖父が用いたケルンテンの近辺に領地を有していた名門貴族の紋章を、自分の墓碑に彫り込むよう指示している。
墓碑へ詩文(※2)の他にザクセンの古貴族リルケ家につながる紋章の彫琢を指示してまで、そこにこめようとした彼のアイディンティティのありざまとは何か。
 いま、このことを分析する意図も意志も能力もないが、リルケのこうした貴族ルーツへの執着、貴族幻想に、ぼくは彼の内的世界の不安の防衛機制をみてしまう。
 この幻想の固着はリルケの詩の世界の深部に根を下ろしている気がする。
 やがて、彼リルケは、彼の一族を受けいれなかったオーストリアやプラハを嫌うように、妻子を顧みず擬制の貴族となって寄食寄寓の放浪をはじめる。
 あれほどに詩を究めようとしたリルケもまた、人の子であった。
 もっとも人の子であったがゆえに、彼は詩人であり得たにちがいない。

 では、そもそもリルケのルーツは「ケルンテンの古い貴族の一員」だったのか。
 これを確認する前に、くだんの「リルケ」という名前の由来を調べておこう。

 星野慎一氏の研究によると、オーストリアのケルンテンという山岳地帯に古貴族リルケ一族が発祥している。(ケルンテンは、ヴェニスに至る現オーストリア国南部ケルンテン州と同じか?)
 今日も残るオーストリアのほぼ中央部に位置するChahenturum(シャッヘントゥルム)の城を居城(現在廃墟)としていたが、ケルンテンに勃発した宗教一揆のために16世紀後半、Steiermark(シュタイエルマルク)に居を移したと、ケルンテン歴史協会が保存する古文書に記録があるとのこと。
 この一族の貴族カスパア・リュルコ(Casper Rülko)が1513年文書に用いた印章(猟犬と兜の模様)を模した印章を晩年のリルケが用いている。

  また、ザクセン領地内ドレスデン官文書保管室の1348年付古文書にフライブルグ(現スイス・チューリッヒの北方、ドイツ西南部?)の太守をした貴族ヨーハン・リルケという人物を確認することができるということだ。(現ザクセンは、ライプツィヒ・ドレスデンにまたがるドイツ南東部)
 実は、この人は、リルケが書いた「旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌」の序文にあるランゲナウの荘園を所有していたヨハネス・リュルコと同一人物ということだ。つまり、かの詩は、実在の人物を題材にしている。
 その後、リュルコ一族は所有する荘園を拡大しており、ニーダーランゲナウの教会には、このリルケ家の家紋のついた洗礼盤というものが残されているらしい。
 この一族は、リュルケ(Rülko)とも、ルレケ(Ruleke)とも、ルリケ(Rulike)とも称され、1440年頃ザクセンからボヘミアに移住したことがわかっている。

 つまり、古貴族リルケ家は、ケルンテンのリルケとザクセンのリルケの二つの系統が認められ、その両者の関係性などはつまびらかになっていない。
 いずれにせよ、「リルケ」は、どうもケルンテンのリルケとザクセンのリルケの混交によって形成された幻の家系とも考えられるようだ。その幻の古貴族リルケの後裔と信じていたということになる。
 だが、こうした思いいれは、ライナァ・マリア・リルケひとりの所産ではなかった。

 リルケ本人以上?に、己を貴族の後裔と信じていたものが、リルケの伯父(父の長兄)ヤロスローフ・リルケだ。
 彼は、自らのルーツ調査に努め、なんとか、己の体内に貴族の血が受け継がれていることを証明し、もって貴族の栄誉の復興を願った。(社会的上昇志向の強いヤロスローフが当時の上流社会の一員に参入するためには、彼らが由緒ある血筋・門地にあることをなんとか証明したかったにちがいない。)
 彼の調査によっては、彼が渇望する貴族の明確な出自証明を得るに至らなかったが、後年、叔父ヤロスローフは州議会議員となり、時の権力者オーストリア皇帝よりリュリケンの騎士リルケとの称号を与えられ、念願の世襲貴族の地位を得るに至る。時、1873年、リルケ誕生の前年のことだった。
このこともリルケの貴族幻想を強固に支える基盤のひとつとなっているのだろう。

 リルケ一族のルーツがある程度判明したのは、1932年、つまりリルケ逝去7年後、フライシュマン教授という学者の調査による。(星野慎一 『若きリルケ』より)

 リルケ家がドイツ農民の出であること、もっとも古い祖先は1625年に亡くなったと推測されるドーナート・リルケであること、そのドーナート・リルケか等数えてルネは九代目の子孫にあたるものであることなど。(星野によると、ドーナートの戸籍等は、新しいもの?なので、文献資料価値としては不十分だということらしい。)
 つまり、この限りでは、詩人リルケの先祖に貴族出自を証明するものはないということになる。

 ドーナート以後、リルケに至るまでの世代交代を上記『若きリルケ』をメイン資料として追跡してみよう。

 1608年リルケから数えて八代の祖(ドーナート)の後継者マーテス(又はモッツ)が生まれる。彼は農業・酒屋・鍛冶屋を兼業し、村長にもなっている。(当時の農業は零細だったので、なんらかの副業で生計を維持していたようだ。)
 彼は90歳で没した。妻はマーリ。 彼らの間に八人の子どもができるが、農業は長男ミヒャエル(六代の祖)が継いだ。
 ミヒャエルと妻マリア・エリザベットの長子ヨハネス(五代の祖)は、生家の農業を継がず、妻アンナ・マルガレータの実家を継いだとあるが、職業等詳細は不明。

 1719年5月 ミヒャエルの跡を継ぐこととなる三男ヨーハン・フランツィスクスが生まれる。
 この人が、上記ヤロスローフがルーツ調べを受託した系図学者がテュルミッツの教会の過去帳から発見したリルケの高祖父にあたる。彼は、村会議員からテュルミッツの村長にも就いたが、1800年テュルミッツを去る。
 1775年 リルケの曾祖父ヨーハン・ヨーゼフが生まれる。彼は、リンデ河畔のカメニッツ荘園やミロシッツやナクテンフォルフロースの荘園を所有。のちにこれらを手放すこととなり、ノスティーツ伯家の農場管理者となり、晩年、同伯の執事としてプラーク(プラハ)で逝去した。
 上記荘園の取得や放棄のいきさつ、原因など、これも不明。
 リルケがエレン・ケイ宛にしたためた上記手紙にある「カメニッツの城主」とあるのは、このことである。
 曾祖父は、森林官の娘マリア・テレジアとの間に五男三女をなしたが、長男が夭折したため1988年生まれの次男のヨーハン・バプティスタ・ヨーゼフがリルケ姓を継いだ。この人がリルケの祖父である。

 祖父ヨーゼフは、彼の父が手放した荘園を再度取得しようとしたが、それもかなわず、シュペルニング城に居住して、ヒルティッヒ伯の財産管理の職についた。
 1807年祖父ヨーゼフは、ボヘミアに生まれたヴィルヘルミーネ・ライターと結婚。彼女は、ブーディンという町の町会議員兼裁判官の娘で、「勝ち気な婦人で、何事も遠慮会釈なく、バリバリとやりぬかねば承知できないたちであった。リルケの母は、この姑のために、度々洗濯戸棚を徹底的に整頓しなほされたりしたことや、日曜日ごとに恒例になっている姑訪問をやらずに教会へ行ったりすると、ひどく怒られた・・・」(星野『若きリルケ』より)
 
 祖父母は四男一女をなした。
 長男 ヤロスラーフ (生年?) 公証人会議所長 及び 代議士を務め、ケルンテンのスラブ系の古い貴族であるフォン・リルケ家と自分の家系のつながりを強く信じ、系譜学者に調査を依頼したが、結果として、関係は否定されたものの、オーストリア皇帝より世襲貴族の地位を得たことは上記のとおりである。
 次男エーミールは、陸軍中尉で死去。(生年、死因等不明)
 三男ヨーゼフがライナー・マリア・リルケの父 1838年9月25日 ボヘミア・シュワービッツ(現チェコ、プラハより東北へ60~80Kmスヴェーボジツェ?)に生まれた。
 四男フーゴ(生年?)は、プライド高く、昇進に絶望して砲兵大尉のときに自殺。
 長女ガブリエレ(生年?)は他家へ嫁いだ。

 上記のとおり、男子の系統は、長男及びリルケの父が残ったが、長男ヤロスラーフの息子二人は夭折しており、結果、リルケ」姓は、ひとりライナー・マリア・リルケのみが継ぐこととなってしまった。


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※1
  「 やさしい母さん
    誇りに思ってくださいね、-- ぼくは旗を掲げてゆくのです。
    心配しないでくださいね、-- ぼくは旗を掲げてゆくのです。
    ぼくを愛(イト)しく思ってくださいね、--ぼくは旗を掲げてゆくのです。」

           『旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌』より 塚越敏訳

  ぼくはこの詩行に、リルケの「母」への思慕を見てしまう。
  だがこの母は、リルケを産んだ母であろうか。



※2(リルケの墓碑詩文)

   Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
   Niemandes Schlaf zu sein unter soviel
   Lidern.
   

   「 薔薇 おお 純粋な矛盾 よろこびよ
      このようにおびただしい瞼の奥で なにびとの眠りでもない
      という」             富士川英郎訳

    「 ばらよ、おおきよらかな矛盾、
      あまたの瞼の下で、だれの眠りでもないという
      よろこびよ、」          生野幸吉訳

    「 薔薇、おお純粋な矛盾の花
      そのようにも多くのまぶたを重ねて
      何びとの眠りでもない よろこび。」 高安国世訳

    「 薔薇よ ああ 清らかなる矛盾よ
      誰が夢にもあらぬ眠りを あまたなる瞼の蔭に隠す
      歓喜(よろこび)よ。」       星野慎一訳

    「 おお薔薇 純粋なかなしい矛盾のはなよ
      はなびらとはなびらは 幾重にかさなって眼蓋のように
      もはや誰のねむりでもない寂しいゆめを
      ひしとつつんでいるうつくしさ」   大山定一訳

    「 薔薇よ おお 純粋な矛盾、よろこびよ
      かくも多くの瞼の下で だれのでもない
      眠りであることの。 」       小島衛訳

    「 薔薇よ、おお 純粋な矛盾よ、歓喜(よろこび)よ、
      開きつつ なお 限りなく閉ざされている おびただしい瞼の蔭で
      何びとの眠りでもない 眠りであるという。」 小林栄三郎訳

    「 薔薇よ、おお純粋なる矛盾、
      それだけ多くのまぶたの下に、誰の眠りも宿さぬことの
      喜びよ 」         (ウィキペディアより 訳者?)


※ 上記文中に挙げた地名 テュルミッツ、ニーダーランゲナウ、リンデ河畔のカメニッツ、
  ブーディン等々の位置不明



※参考資料

 大山定一・谷友幸他 「リルケ書簡集」Ⅰ・Ⅱ (人文書院)
 星野慎一 「リルケ研究第1部 若きリルケ」
 大山定一 「文学ノート」
 ヴォルフガング・レップマン 河出書房新社 リルケ全集別巻「伝記-生涯と作品」
 河出書房新社版 リルケ全集
 彌生書房版 リルケ全集
 新潮社版  リルケ選集
 アンジェロス 「リルケ」
 ホルトゥーゼン 「リルケ」
 モーリス・ツェルマッテン「晩年のリルケ」   他
 リルケの墓 :  http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-sijin.htm#rilke
          http://92363747.at.webry.info/200901/article_15.html


                        -2016.09.30 
   

□■リルケノート002  リルケの先祖■□