区民響ティールーム

大久保三郎さんを偲んで

港北区民交響楽団のコントラバスのメンバーでパートリーダーの大久保三郎さんが、平成10年11月11日午後3時24分、急性肝不全のため突然逝去されました。あまりの突然の訃報に団員一同悲しみと茫然自失の思いに覆われました。

大久保さんいや大久保先生は昭和5年2月26日生まれ享年68歳、東京芸術大学音楽学部楽理科を卒業後横須賀市立高校に一時赴任し、同時に学生時代から手掛けていたNHKの放送番組のアレンジを引き受けていました(当時の放送は全て生放送で、テーマミュージックもBGMもオリジナルかアレンジを使用し生演奏で行われていました)

数年後NHKに通う機会が多いことと三田にある慶応大学付属中等部の器楽部から指導を頼まれたことがきっかけで同校に移籍し、65歳の定年まで勤務されました。(区民響に参加されたとき、経歴や立場は必要としないことからこっそりと参加しようと思ったら、メンバーの中に教え子がいてばれてしまったというエピソードがありました。)

昭和32年NHKテレビ体操のスタートと同時にピアノ伴奏者として起用され、翌33年全国夏休みラジオ体操の伴奏者として活躍、画面でもお馴染みの顔となり今年(平成10年)の夏半ばまで一生活躍をされました。また先生は学生時代の同級生唯是震一氏(作曲家・生田流正派家元)の依頼により正派音楽院の学理講師として尽力されました。

大久保先生が区民響に参加されたのは1990年、先生が還暦の年でした。

「私はコントラバスを持っています。少々弾きますが練習に参加して良いでしょうか?」、春先の夜我が家に掛かってきた電話の声を昨日のように覚えています。

当時練習のときコントラバスは大久保先生ただ一人という時期が暫く続きました。通常ならば目立ってしまうため練習に参加するのが億劫になり、自然に足が遠のき止めてしまうケースが続いていましたが、大久保先生は嫌な顔を一つせず指揮者の過大な注文も泰然として受け止め、夏休みラジオ体操のスケジュール以外は全て練習に参加していました。

私たちが大久保先生を尊敬するのはただ年の功だけでは有りませんでした。先生は区民響の運営や計画・企画に口を挟んだりクレームを呈することは全く有りませんでした。一方コントラバスをはじめ大型楽器の運搬や会場設営には率先して常に先頭に立って協力し、活動環境の完成に尽力されました。現代の若いものが嫌がってあまり積極的になれないことに、自ら範をたれていたのです。年長者の行動に団員一同頭の下がる思いがします。

大久保先生の努力に因り維持されたコントラバスパートは、今や大久保先生を含めて6名の優秀なメンバーが集うようになり、区民響のオーケストラとしての体裁は大久保先生によって完成したのです。

大久保先生の最後の活動の場は7月26日、新設の「みなとみらいホール」で行われた区民響の『サマーファミリーコンサート』でした。その勇姿はCATVで放映された映像に残されましたが、その直後NHKの夏休みラジオ体操に参加半ばにして病に倒れ、一時容態は好転し見舞いに訪れたメンバーに退院後区民響の活動にすぐ復帰する希望を話していましたが、残念にも病に打ち勝つことがかないませんでした。

いまはただ団員一同謹んで先生のご冥福をお祈りする次第です。

合掌

港北区民交響楽団団長 中村 信介


区民響機関紙「ポコ・ア・ポコ」第21号(1998年12月26日発行)より収録



Last update:Dec.27 1998
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