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「歌劇フィデリオ」序曲/ルードウィッヒ・フォン・ベートーベン
ベートーベンが作曲した唯一の歌劇として知られていますが、序曲は今日演奏する曲のほかに3曲も作られました
「歌劇フィデリオ」はサブタイトルに<または夫婦の愛>となづけられ第1版(3幕1805年)第2版(2幕1806年)の題名は「レオノーレ」として発表されました。
しかし第1版(3幕)が不評であるり、改作の第2版(2幕)も自身気にいらなかったため現在の第3版(2幕1814年)が作られたのです。
その結果その都度序曲が作曲され、第1版の序曲は「レオノーレ序曲第2番」Op72a、第2版の序曲は「レオノーレ序曲第3番」Op72bそして第3版の序曲が「歌劇フィデリオ」序曲として今日演奏されるものです。
しかし、他に第3版のためにこの「フィデリオ」序曲とは別に作曲されたと思われる「序曲ハ長調」Op138があり、こちらは「レオノーレ序曲第1番」と呼ばれています。いかにベートーベンが市民革命期の理想主義的ドラマのこのオペラに心血を注いでいたかが分かります。
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フルート協奏曲第2番ニ長調K314/ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト
映画「アマデウス」で作曲家サリエリに嫉妬されるモーツァルトですが、サリエリならずともこの天衣無縫な音楽に魅せられ、たくさんのモーツァルトファンが存在します。しかし、プレーヤーとしてこのモーツァルトの楽譜に向かうと底抜けに明るい楽譜の陰から、チョッピリと意地悪なモーツァルトの顔が、そこここにからかうように現われます。
アマチュアーにとってこんなに憧れて、美しい音楽なのに悪戯の落とし穴だらけ、そしてニヤニヤしているモーツァルトの楽しげな顔が楽譜の横から浮かんでくる。~個人的なモーツァルトのイメージです。
でも何故そんなモーツァルトを演奏するのでしょうか。極めて民主的に(?当然)運営されている区民響では、昨年秋これからの演奏曲目の希望を(実力も顧みず!)団員のアンケートによって募ったところ、協奏曲は圧倒的にこのモーツァルトのフルート協奏曲とドボルザークのチェロ協奏曲の2曲でした。アマチュアーの好みが良く分かる結果でした。
因みに、交響曲の希望曲は30人が40曲を希望し、希望が集中した曲は一つもありませんでした。いかにオーケストラの運営が難しいかお分かりいただける!?と思います。
今日フルートを独奏して頂く綱島在住の萩谷康一さんは奥様もフルーティストで、ごいっしょに西ドイツのシュツットガルトに留学し、日本ではよくデュオーでリサイタルを開かれるおしどり音楽家です。
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交響曲第5番ホ短調Op64/ペーター・イリイッチ・チャイコフスキー
チャイコフスキーの交響曲は、4番・5番・6番と有名でよく演奏されます。そのなかでこの5番はベートーベンの「運命」に譬えられています。それは同じ5番であることと同時に、ベートーベンの「運命」と同じように冒頭に現われる<運命の主題>が各楽章に様々な形で用いられ、全曲に一貫したものとして構成されているからです。
アメリカ人は<ソ連は嫌いだがチャイコフスキーは大好き>だと言われるほど、よくチャイコフスキーの音楽を演奏します。昔、(30年~50年程前)現在のようなTVやビデオの無かった時代、映画が最大の娯楽であり情報源でした。ハリウッド映画全盛時代の音楽映画には、必ずチャイコフスキーの音楽が流れていました。
そしてその時代の名作「オーケストラの少女」や「カーネギーホール」その他二、三の音楽映画(タイトルは忘れましたが)に、今日演奏される「交響曲第5番」の一番有名な第2楽章が登場し、ストコフスキー等の華麗な指揮振りが瞼に焼き付いているのは45歳位以上のお父様やお母様ではないでしょうか。
美しく憂いに満ち、そしてダイナミックなチャイコフスキーの音楽は青春の思い出の音楽と言って良いでしょう。
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(Vl 中村 記) |
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