第35回定期演奏会曲目解説
本文へジャンプ 2007年1月3日 

ファリャ/ バレエ音楽「三角帽子」第2組曲

スペイン民族楽派の大家として知られるファリャが、ロシアバレエ団の依頼によって作曲したものが、バレエ音楽「三角帽子」である。この物語の原作は、スペインの小説家ファルコン作の小説「三角帽子」であり、権威のシンボルである三角帽子をかぶった代官が、美しい粉屋の女房を、権力を用いて我が物にしようとするが、反対にさんざんな目にあってしまう、という、スペインのアンダルシア地方の民話が基になっている。

このバレエ曲から、作曲者自身が主要部を抜粋し、2つの組曲を編集した。バレエ曲後半部分の抜粋が、本日演奏する第2組曲である。

3曲で構成されるこの曲の1曲目は「近所の人たちの踊り」で、粉屋夫婦と近所の人たちが、聖ヨハネ祭の夜にセギディリャの踊りに興じる場面である。

2曲目「粉屋の踊り」は、バレエでも1曲目の続きとなっており、粉屋の主人がアンダルシア地方の民族舞踏ファルーカを踊る場面である。

終曲は「終幕の踊り」で、悪代官が逃げ帰ったことを喜び、村人全員でホタの踊りを踊って祝う場面で、喜びが頂点に達したところで幕が降りる。

なお、バレエ初演の時の舞台装置と衣装を担当したのは、あのピカソであった。

(K.E)

ラフマニノフ/ ピアノ協奏曲第2番 ハ短調

ラフマニノフは、1873年、帝政ロシアのノグゴロド県で生まれた。9歳のとき家の破産でペテルブルクに移り、叔母の援助でここの音楽院に入る。12歳でモスクワ音楽院に入学、18歳でピアノ科を、翌年作曲科を卒業し、その卒業制作で大金メダルを受賞、音楽家として順調なスタートを切った。

ところが、1897年の交響曲第1番の初演で、オーケストラの不備から「絶対的失敗作」という酷評を受け、大きな精神的打撃を受け、さらに、1900年にトルストイと会見した後、「自分の音楽が誰にも必要ない」という考えに取り憑かれ、強度の神経衰弱に罹ってしまった

その治療に当たったのが当時モスクワで著名な精神科医であり、素人音楽家でもあったダール博士であった。博士の親身で献身的な治療により、彼は不信と絶望の中から立ち直り、作曲活動を再開することができた。

その第1作がこの協奏曲である。曲は2、3、1楽章の順で作られ、1901年に初演されて大成功を収めた。演奏後の楽屋で、興奮しながら「あなたの協奏曲は・・・」と言いかけた博士に、彼は「いいえ、私のではなくあなたのですよ」と、深い感謝を込めてこの曲を献呈している。

当時、感傷的でノスタルジックな作風に対し、「こんな砂糖水みたいなものは、じきに駄目になってしまう」という批評もあったが、豊かな叙情性と、極限といって良いピアノ技法の見事に調和したこの曲は、彼の代表作にふさわしく、高い人気を得ている。

(H.I)

ドヴォルザーク/ 交響曲第9番 ホ短調 《新世界より》

チェコの国民楽派を代表する作曲家の一人であるドヴォルザークは、この曲をニューヨークの音楽院院長時代に作曲しています。同時代の他の作品同様、この曲もスラヴとアメリカ(黒人霊歌やインディアンの民謡)の要素を結びつけた独自の音楽となっています。

しかし、それはそのまま使われているわけではなく「自国の民謡の精神を創作に反映させるのが作曲科の義務だ」と主張する通り、彼の感覚に触れた音楽となって現れているのです。

彼はこの交響曲のなかで特徴的な主題を書き、新世界アメリカの地を匂わせると同時に、故郷ボヘミアを望郷し、その精神を曲の支柱としています。この曲はアメリカを描いたというよりも、アメリカで強い刺激を得つつも望郷の情が交錯する、いわば祖国ボヘミアの音楽による手紙なのです。

第2楽章のイングリッシュ・ホルンのメロディーは、「家路」という歌であまりにも有名ですが、これはアメリカインディアンの英雄叙事詩「ハイアワーサの歌」の中の「森の葬式」を読み霊感を受けて作曲したと言われています。

ここで使われる音階は5音音階(ドレミソラ)を基本としていますが、黒人霊歌の多くはこの5音音階でできており、また、我が国の民謡の多くもこの5音音階で作られているのが、この曲が広く日本人に親しまれている原因なのかもしれません。

(E.K)