埼玉県高麗郡の巾着田 群生する曼珠沙華 自宅近くの白い曼珠沙華
谷川岳 一瞬晴れた時撮影する 妙高山登山口の燕温泉
露天風呂「河原の湯」ニコル氏絶賛の湯でもある
この2年半、自宅近くを散策するぐらいでほとんど出かけていません。足が踏ん張れないのです。プールから立ち上がる時、
プールに落ち込む時もあります。我ながら情けなく思います。アウトドアは大好きです。大自然の中で飲み、食べる、汗を
流す。これほど気持ちいいことはありません。しかし、いまは欲求不満を我慢しています。
三点セットの泳ぎ、モータボートでぶっ飛ばす心地よさも素晴らしいものがあります。三浦海岸で見つけた、海の宝石「ア
オウミウシ」などは感動ものです。
山、ハイキング、釣り、etcこれといった情報をお待ちいたします。どんなことでもメールをください。いつかどこかでご
一緒できるかもしれません。
●10月4日(土)正丸・伊豆ヶ岳に登る。
メンバーはS、M、Kちゃん、加藤の4名。
8時30分に所沢に集合、約10時に正丸駅を出発する。美しい集落から沢を登り、正丸峠へ。ここまでは皆いろんな声が飛
びかっていたが、だんだんと声が出なくなる。
伊豆ヶ岳に約12時20分到着。ここで昼食にする。ここが今回のメインのところで、一番見晴らしが良く、人もたくさんい
た。Sさんはお菓子などあまり持ってくるつもりはなかったようだが、奥さんから、あなたが食べるわけではないのよと、
叱られ、重いリックを背負っていた。だからかはさだかではないが、思っていたよりも時間がかかり始めた。ここは健脚向
けの14.5キロ、約5時間のコースである。
眺望は思ったほどは良くなく、まだ紅葉は早い。杉林の尾根道ばかりで失望である。
子の権現は、比叡山天台宗の古刹。二体の仁王像が睨みを利かしている。ここで4時過ぎ、急いで下山する。道中楽しく過
ごしているが、どこかおかしいと気づき地元の人に道を聞く。国道299を右に折れたころには5時過ぎ、あたりは真っ暗で
時々電柱の光があるだけである。
西吾野駅に着いたときは6時過ぎ、偶然、1時間に1本の電車が10分後にくる。ついていた。飯能駅で缶ビールで乾杯。帰路
に着いた。お疲れさまでした。

●皇居一週マラソン
11月1日(土)3時過ぎにK氏と一緒に半蔵門から走り始める。皇居一周は初めてであり、K氏の後を付いていく。土曜日の
せいか思ったよりも空気がきれいであった。
お堀の土手は草刈り機で刈られ、草のにおいが漂っている。水面に浮かぶ葉は、まるで水鳥のようであった。ここまで平坦
な道であるが、竹橋をすぎると坂道を上っていく。言うなれば心臓破りの丘、と言えるけっこう長くやっかいな坂である。
約28分の走行であり、最初としてはこんなものでしょう。(一人納得)
その後、バンドゥー風呂で汗を流す。狭いお風呂のため、なかなか込んでいました。自宅やジムではシャワーなど自由に入
れるが、都会の真ん中ではこれも贅沢といえるかもしれない。
平成16年1月4日撮影
団地内の公園において白梅、紅梅
1月4日撮影
紅梅の木の蓑虫。ジムからの帰り偶然に見つける。
小手毬
5月2日、椿峰で撮影。数年前、伊豆に植え付け楽しんでいたころを思い出す。ピンポン玉ぐらいに大きくなっていた。
芝桜。秩父の羊山公園の芝桜を見たい。
ウサギは3年前から飼っている。冬の日にベランダに出してみる。
オタマジャクシ。トトロの森の中の溝池。い水面
を覆い尽くすがあまりいない所を撮す。昨年はこ
こで、オニヤンマの卵の産み落としを見る。
野の味は強烈
陽射しがじりじりと照りつけ、こめかみや首筋から汗が伝い落ちていく。陽炎の中で木立は揺れ、逃げ水が現れている。
鬱蒼とした森の中、セミの悲鳴に包まれかすかな空気の流れは葉を揺らしている。ヤブッカに食われながら撮影したヤマ
ブドウの実は、紫の宝石のよう。私のカメラではマクロにならずボケてしまう。一房のみ採ってきて食べるがまだ酸っぱ
い、しかしブドウの味は強烈であった。

ヤマブドウの実を採ってきた。きれいに洗い乾かして瓶に入れ、氷砂糖を敷き詰めホワイトリカーを注ぐ。ふたの部分を
ビニールで覆い輪ゴムでくくる。さ〜て一年後にはどんなヤマブドウ酒になっているやら楽しみである。今年の梅酒もだ
イブよくなってきている。いつも待ちきれず、一年を待たずして無くなってしまうのだ。また、おもしろ意味を見つけた
のでお酒に漬けようかと思っています。
今年の梅干しは、しその葉を入れすぎて真っ赤になってしまった。二度ばかり干し上げたのでもう一回天日に干して保存
すれば完成です。

今年はカラスウリがやたら目につく。青と白の縦縞の実やしぼんだ花が草むらや樹にからみついている。写真がないのが
残念です。まだ夜の気配が残るひんやりとした空気の中、四方に真っ白なドレスを広げて懸命に咲いている姿は、まこと
に風情があって見るものに感動を与える。日が昇り始める頃には精も根も疲れ果てベッドに倒れかかるように花を隠す姿
にはあまりにも現実と夢の隔たりに悲しさを感じる。何故かというと、一夜の世界にきらびやかに咲こうとする花の意志
は見いだすが、スポットライトのない深暗の世界にけなげさと哀れさを感じます。
昼間の姿はお世辞にもきれいとはいえない服(葉)をまとい、まるで化粧を落とした夜の蝶の人生ともだぶってくる。し
かし、馬鹿にするんじゃないよ! ありがた迷惑さとうそぶいているようでもある。
6年前にここ椿峰公園で玉虫を捕まえて事がある。このところお目にかかったことがないと思っていたら、今朝の新聞に
「どこに消えたタマムシの姿」の投稿文が載っていた。今まで(田舎)6匹捕まえているが、保存そのものに問題があり
どこえやったら不明です。虹色に輝く羽が美しく、初めて手にした時の感動は今でも忘れません。法隆寺の国宝「玉虫厨
子」などが有名です。
タマムシはケヤキなどの樹皮に産卵し、孵化した幼虫は木に穴を開け2、3年後に成虫になるそうです。所沢はケヤキ並
木が多いし国立のケヤキ並木など丹念に探せばいるかもよ? 
高麗の巾着田の曼珠沙華を島田さんと見に行く
10日ぐらい遅かったようで、花が咲ききったところがあり所々汚かった。また、ひと人で撮影するような気分にならな
かった。ここは早めに切り上げ、高麗神社に足をのばしてみた。高句麗(現在の中国東北部から北朝鮮の地域)は紀元前
1世紀頃建国され、約800年東アジアの大国として栄えた騎馬民族国家です。
高麗神社(写真)は渡来人高句麗王若光を祀る社。若光の渡来は「日本書紀」によると天智天皇5年(666)10月。その
後七国(駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野)から高句麗人1799人が武蔵国に移り、高麗郡を創設する。この
時、郡の長官として任命されたのが若光で、未開の地を開拓し先進的な文化を伝え、この地に没した。この功績をたた
え、霊廟を建立し「高麗明神」と称して高麗郡の守護神とした。
展示してある瓦の紋様が面白い。玄武、麒麟、鳳凰、白虎の壁画「四神図」は高松塚やキトラ古墳壁画へ影響しているそ
うです。
ヤマブドウとガマズミのお酒
そのほかにヤマボウシの実とカリンの実を焼
酎に漬けました。ヤマボウシのお酒はほのか
に生食したときのほんわかした香りがありま
す。ガマズミのお酒は赤く見た目には美しい
が、香りはありません。
カリン酒は風邪気味のときに飲もうと思って
います。1月ころにまろやかになるでしょう。
この中で抜群にうまいのは、ヤマブドウ酒で
紫色のなかに野趣あふれる味は格別です。田
舎の親戚が長野、新潟にヤマブドウを取りに
行き40キロ採取して、一升瓶にして20数本
漬けたと電話がありました。1000メートル
以上の高地でとれたヤマブドウが最高だそう
で、来年採取に行こうかと考えています。
今無性に食べたいものは、山で掘りたての山
芋のとろろ汁です。お店ででるとろろ汁は鼻
汁みたいでうまくありません。スーパーで売
っている山芋はほとんど畑でとれたもので、
やはり味は落ち、だし汁でのばすと濃度差が
はっきりし食欲が無くなります。
●柚入り手打ちうどん
昨日、所沢で野暮用をすまし7時20分に自宅に戻る。急にうどんを食べたくなり、椎茸、昆布、煮干しでだしを取り汁
を作り始める。柚子をすり下ろし小麦粉に練り合わせる(たまに、ほうれん草やよもぎを使う時もある)。だしに使っ
た椎茸、昆布はかき揚げの中に入れ、麺がゆであがると同時に食べられるようにする。
作っている途中に、女房、長男が帰ってき、3人の夕食になった。口に含むと香りが漂い、噛むと一段と増すようであ
る。隠しに卵も入っていてかなりのしこしこ麺になっている。唐辛子が利いた柚子入り手打ち麺のうまさに満足の団ら
んでありました。

●地震
東京に直下型の地震がきたら1万人規模の死者が出るなど、このところやたら新聞をにぎわしている。
東京湾上に地震雲が発生したりして不安にさせている。これというのも100年周期に起きている関東大地震や富士山の
微活動、浅間山の噴火、東北、上越、北海道など各地で起こっている地震がある。
今読んでいる「化石は愉しい!」では、隕石の衝突などであらゆる生物が死滅し化石になっていった。また、不思議な
のは、地球の地質年代にはっきりした境界があること? カンブリア紀、オルドビス紀、シルル紀、デボン紀、ペルム
紀、三畳紀、白亜紀など。そのつど生物が消滅もしくは終焉を迎えたこと。天変地異による大噴火で世界規模の酸性雨
で生物、動物を消滅させている。そういえば、三宅島も未だ生活できる状態になっていない。ここ数年、天変地異は世
界中で起きている。これらは地球温暖化による異常気象が引き金になっているのだが、エネルギー最大消費国のアメリ
カの逃亡ともいえる「京都議定書」からの脱退は大きな問題です。地球も新しい「紀」に入りつつあるのだろう。増え
すぎた人口問題は中国を除いて減少している。これは、種を遺すことを放棄し始めているのだろう。

●冬の日をのんびり過ごす
ユズ湯に浸かり、足の腱を伸ばしながら鼻歌を歌っている自分を発見する。それは「リンゴの歌」であり「川は流れ
る」などであり今の歌ではない。ユズをいじっていて、好きな食べ物はみんな健康にいい物だと感心する。リンゴ、ミ
カン、柿などの果物。タマネギ、ニンニク、トマトなどの野菜類。鶏肉の皮以外は嫌いな物はない。魚類も大好きで
す。
小泉さんが私のことを「頑張る人」と紹介してくれたけど買いかぶりです。ただ、自分の好きなようにしているだけ。
頑張ろうとは思っていないし、動ける間は自分なりに楽しみたいと思っているだけ。
たくあん漬けなども買ってきた方がやすいのにといわれるが、旨いものを食べたいし安心したものを食べたいと思いま
す。高速/ガソリン代10,000円、ぬか、昆布、小エビ、貝柱、干し椎茸、ミカンの皮やユズ、リンゴの皮、唐辛子、
塩など8,000円ぐらい。締めて18,000円のたくあん漬けとなる。本来ならば、柿の葉や柿の皮、茄子の葉なども入れ
てつけ込むのです。田舎バージョンに自分なりに発展させたたくあん漬け。自分としては旨いと思いますが他人の舌に
合うかは判りません。自宅のマンションにもたくあんを付ける人がいて、もらって食べてみるが旨くありません。人そ
れぞれ幼少時の舌があり、好みも違うのです。私は人に押しつける嫌いがあるらしいので要注意です。昨日、知人より
新巻鮭が届いたのであす出刃包丁で切り分け、頭はダイコンと煮ようかな?

●今朝、お茶畑は霜で一面覆われていた。先週まで白い花が咲き、刈り込まれた茶木の上に雪が乗っているようだった
が、霜に当たり茶色く崩れていた。その向こうには朝靄のなか一条に昇る落ち葉焚きの煙。餅つきの杵の音が聞こえそ
うな年の暮れのひとこま。陽炎の中にスイセンの花が4つ咲いていた。爪木崎のスイセンも咲いているだろうな?朝霜
に 茶の畝白く 山際を 煙たなびく 餅つきの音

●玄関に生けているローバイが咲き芳香を放っている。長瀞の宝登山はローバイで黄一色になっていることだろう。
私のイメージの日本の四季は、福寿草、ローバイ、マンサク、菜の花、フリージャーなどの黄色で始まり、梅、水仙
(黄色が入っている)、モクレン、コブシの白になり、桃や桜のピンクになる。そして、様々で絢爛豪華の色になっ
ていくように思います。まだ椿峰では、ローバイがチラホラでマンサクは咲いてはいない。林を超えると、中学校の
プールは一面氷が張り、体育館の屋根は霜で覆われ陽が当たっているところのみモウモウと水蒸気があがっている。ま
た、茶畑も霜で覆われていた。歯の回り3ミリぐらいが凍り、葉の真ん中は凍っていない。白と緑の対比がきれいで冷
たそうだが趣がある。それにしても、寒暖の差がありすぎて体が持たない。
冬の日のお茶畑と柿の木。雪や霜が降ると畝が真っ白になり幻想的
になる。17・1・8撮影
日だまりの蓑虫。ここは西風が当たらないので暖かそう。
三寒四温でだんだんと暖かくなってくる。このところ寒いといっても、上州の空っ風で育った私にはあまり苦にはならない。
山向こう(新潟、長野)で雪を落とした冷たい風が、台風並みの風速で頬をたたいていく。しびれるような冷たさです。風
には小豆大の小石が飛び交い、2〜400メートル上空を覆う砂塵は目を痛め、黒涙の跡を残す。
今、地球の温暖化により数度は高くなっているが、私が東京に出てきた頃もなんて暖かいところなんだろうとびっくりした
ことを覚えている。また、北千住方面にいった時の感想は、空気の匂い、汚れ、そして緑の少なさに驚いた。それ以来、不
便さはあるが自然があるところにすんでいる。
会社も含めると30数回の引っ越しを経験する。「住めば都」とはよく言ったもので、どこの土地(場所)でも思い出深いも
のがある。17・2/14
毎週のように雪が降っている。今朝7時頃ベランダより撮影する。
こんな日はどこも出かけたくないが、4箇所の打ち合わせがあり午後より出かける予定。都内はほとんどが溶け、6時頃の所沢でもだいぶ雪は溶けていた。今年4回目の雪かな?
先日二人の編集者と飲んでいた時、山菜のことで盛り上がっていた。なぜが、コゴミのことがかみ合わない。その編集
者は長野出身でゼンマイのことをコゴミだと言い張る。その土地の呼び名があるので何ともいえないが、「コゴミ」は
「クサソテツ」の若葉である。まだ、葉がこごんでいるような様からコゴミと言われる所以なのです。確かに、ゼンマ
イも若芽の時は綿を被り、同じようなかっこうしているから「コゴミ」と言われるのかもしれませんね。
先日、わらび座のミュージカルへ行ったとき、「秋田おんど」と言うイベントガイドをもらった中に写真があるので載
せてみました。左がコゴミで右がゼンマイです。また、秋田では「タケノコ」といえば「ネマガリダケ」のことをいう
と書いてあった。普通は「孟宗竹」「和竹」のことである。雪の多いところでは、通常の竹は雪の重さで折れてしまう
ので広がらず、山の斜面の「ネマガリダケ」が重宝されたためと考えられる。焼いて食べたら旨いですよね〜。呼び名・
方言というものは、ふるさとの味とともに心の奥深く蓄積されている。
ベランダのモミジ(ノムラという品種)は古名をムサシノといいます。春先から秋まで紫紅色です。
今、暗赤色の花がいっぱい垂れ下がっています。かわいらしいが生命力というのを感じます。プロペラのような実にな
り、何処かへ飛翔していくだろう。楽しみです。
先日、弟からテングサらしきものを採ったから送ると電話があり、今日ものが届いた。確かにテングサで通常マクサといわれて
いるものである。かなりの量で、ひとつひとつきれいに洗いベランダに干した。これを6回ぐらい繰り返せば色素が抜け白くな
るはずです。ゴミや砂がついているので注意深く落とし、連休明けぐらいに一度ところてんを作ってみようと思っています。
岩波書店:カイコの
病気とたたかうより
お蚕様
私が育った甘楽町は、町の90パーセント以上が養蚕農家で締められていたと思います。私の実家では、170〜210万頭
(蚕の数え方は匹ではなく頭を使っていた)掃いて(卵から幼虫へ孵化させ、飼うことをいう)いました。いま読んでい
る本では農家は普通10〜15万頭飼っていたとあるので量がわかるというものである。
お蚕様(普通はこう呼ばれていた)の世話は女性の仕事であった。祖母はぜんそくで体が弱く、その分母親が一人で頑張
っていたのである。朝は4時頃から、夜は2時頃まで働いていた。蚕は完全変態する昆虫で卵、幼虫、蛹、成虫の四段階を
経て一生を終わります。蚕の卵は小さな植物の種子に似ていることから蚕種(さんしゅ))とか種と呼ばれていました。
これを孵化させるわけですが、温度を摂氏25度に保ち、一斉に孵さなければなりません。孵化は朝だけで、しないものは
翌日の朝になります。孵化した幼虫のことを毛蚕(けご)といい、羽箒で優しく掃き集め、桑の幼葉を細かく刻んで食べ
させます。しばらくすると桑を食べず、頭を持ち上げる時期があります。これを「眠」(みん)とか「休み」ともいう。
このあとに新しい外皮ができて脱皮することになります。蚕はこのような眠と脱皮を四回繰り返します。第一回の眠まで
を一令(れい)、脱皮から第二回の眠までを二令と呼び、五令まで続きます。
蚕は桑の葉がしおれたり水滴がついた葉は食べません。食べ残した葉に蚕の糞がつきカビが生え、病気などが起きるので
毎日のように床を変えなければなりません。また、蚕の発育をそろえるため、桑の葉の量を調整したり温度調節を一日中
しています。当然冷暖房はありませんので炭、練炭、水分、空調まで人間そっちのけでお蚕様のために神経を使っていま
す。令によっても飼育の温度は26度、27度、24度、23度と違います。これを怠るといい蚕はできませんし病気で全滅す
ることになる。母親は床についても一時間ごとに起きだし見守っていた。これに搾乳が朝昼晩と加わるのである。
蚕の病気は膿病、軟化病、硬化病、微粒子病などがあります。硬化病を紹介しますと、体がミイラ状になり、白や黒のカ
ビ(糸状菌)がつき、胞子となって飛散、増殖する病気です。すぐに取り除かないとすべての蚕を焼き殺すことになりま
す。予防のためにホルマリン消毒やDDT などが使われていました。結果的に母親はこれらの薬で帯状疱疹で10年間苦し
み、56歳で亡くなりました。どこの家でもそうでしたが、居間の畳まで上げ蚕を飼っていました。私の実家も例外ではな
く家中が蚕に占領され眠るところもなく、テント生活のようでした。
草の葉はしおれやすく、一日に3〜4回桑の葉を摘みにいきます。そして一日に4〜8回給桑をしています。私の記憶では
浅間の噴火で桑の葉に灰が積もり、すべての桑を川の水で洗い流し乾かして食べさせるということがありました。雨降り
も含めてこれは悲劇というしかありません。土間で火を燃し桑の葉を乾燥させる(しおらしてはいけない)訳だが、人間
はびしょぬれで体は冷え切っている。また、蚕は濡れ桑は健康を害し病気になりやすい性質を持っているのです。私は葉
を上から一枚一枚摘んでいったら、まむしを掴んでしまったこともあります。
蚕が桑を食べなくなり、体が透き通り繭を作る状態のことを熟蚕(じゅくさん)といい、まぶし(竹や段ボールで作った
床)に移さなければなりません。これが想像以上に骨の折れる仕事です。知り合いなどを集め、一家総動員で食事の時間
もありません。なるたけ一斉に熟蚕させるわけですが中にはへそ曲がりもいるので、ひとつひとつ手で拾い集めるしかな
いのです。遅れると除沙の中に繭を作り始めてしまいます。取り出すことも大変だが値段も半分以下になってしまう。そ
んなわけで徹夜作業になることもあります。学校もお蚕休みというものがあり、この期間はいかなくても良いのです。
蚕が桑を食べる音はザワザワと騒がしいが、繭を作るときはサイレントシーンというような雰囲気です。無音の中で何か
が動いている状態で夢の中みたいです。4〜5日で落ち着き、繭を掻き(まぶしから繭を抜き取ること)、繭の外側のケ
バ(まぶしと繭の接続部分)を取り除き、繭を乾燥させてから出荷される。乾燥は蛹を殺し蛾になることを阻止する事や
軽くすること。これらから繭の品質の維持のためである。通常は共同の乾燥場があるが実家では乾燥場も所有していたの
で、乾燥の手伝いもしていた。温度を見ながら薪をくべ、本を読んでいたように思います。蚕は背中に馬蹄形(半月紋)
を持っていた(無いものもいた)。また、頭と思っていたところは胸部であり、眼状紋を眼だと思っていたが眼らしいも
のはない。母親から頭部は口の上の茶色い部分で、そこに眼もあると教えてくれた鬼門も9対ぐらい合ったと思う。
いまでは、ナイロンなどの石油製品に押され、ふるさとの方では養蚕農家はほとんど無くなっている。必要なくなったま
ぶしなどは燃やされ、保存しようにもに無い。富岡製糸の歴史も読んで、見学してこようかなと考えています。私も社会
の教科書に載っているぐらいしか理解していなかった。だから、2回は見ているはずだが記憶にほとんど無いのである。
世代が交代し、養蚕をわかる人がいなくなっている。田舎の人たちに保存を呼びかけようかと考えています。
富岡製糸
私は養蚕と酪農を生業としていた農家の次男坊である。養蚕の大変さは意識としてはわかっているつもりです。私が6歳の
時から乳牛を飼い、私が高校を卒業しふるさとを離れた頃20頭前後、その後50〜70頭と増え、現在では15頭。兄貴夫婦
はあと数年で酪農は止めるそうです。これには訳があり、日本政府の酪農政策により止めざるを得ない事態に追い込まれた
ようである。そんなわけで、ふるさとのことを考えたら知っているようで何も知らないことに気づいて、読み始めたもので
ある。
赤煉瓦物語
明治維新政府が日本の産業の基礎作りのために作った官営・富岡製糸工場の物語です。大和に王権が成立する前から群馬を
中心にして広がった東国文化は、奈良や京都のように建造物は残されていませんが古墳や埋蔵文化財などによって証明され
ています。高句麗、百済、新羅などの人々が甘楽(良)のほうに渡来してきたと伝えられている。その中でも、蚕を飼い絹
を織るという技術もまた伝えられ、東国文化の柱になったとも考えられている。
徳川時代の初めまでは、宮崎宿が宿場(現在も門構えが残っているところがある)であった。柴連や大佛次郎らも物語の中
に書いている。しかし、中野七蔵という代官が、富岡を開田・開発して宮崎の住民を大移動させている。これは地場産業と
して養蚕業の発展を見越して便利のいいところに移ったようである。徳川幕府の終わり頃、フランスやイタリアでは産業革
命が起き合力機械を使った近代産業が栄えていた。しかし、蚕は流行性の病気で全滅したため、日本や中国に絹糸を頼るし
かなかった。特に養蚕業の盛んであった群馬、長野、埼玉の農村が盛んであり活気にあふれ、商人や農民は裕福な生活をし
ていた。世の中は、動乱期で武士階級は攘夷、尊皇だと血眼で争い、暮らしは火の車であった。
こんな中、生糸輸出は最重要な国策として近代化。推進として政府は富岡を選んだのである。なぜかというと、交通の便が
よい中山道筋で養蚕の盛んなところが候補に挙がった。
1. 伝統的な養蚕地域である。
2. 水が鏑川と高田川が使える。
3. 降雪も少なく、適度の乾燥をもたらす風土地帯であること。
4. 動力の燃料として石炭も近くから得れること。
5. 地元の積極的な受け入れ態勢(最初は反対)。
などから選んだ。確かに風光明媚で災害はないところである。フランスの技師・ブリュナが決定したようである。
富岡製糸工場は南北に104メートル二階建て瓦葺き、総煉瓦積み。繰糸本棟は140メートルの繰ガラス張り、瓦葺きの建
物である。木は自然信仰の聖地であった妙義山をメインに富岡周辺、甘楽まで木は伐られました。小幡藩の街道筋は立派
な杉並木がありましたが、すべて工場用材として伐られてしまったそうです。生まれ育ったものとしては面影は何もなか
ったです。
煉瓦とセメントはその当時日本ではほとんど使われていません。粘土は甘楽町の福島地区で見つかり、煉瓦焼きの試作を
瓦職人が作ったようです。あの見事な赤煉瓦倉庫を見たことがあるならば感動せずにはいられません。屋根瓦との調和も
見事です。目地には漆喰は代用され、これがいっそう美的感覚を引き立たせていると思います。
工場は完成し、いざ工女の募集となりましたが人は集まりませんでした。娘を差し出させば、生き血を吸われて生きては帰
れないというデマが流れていたのです。そこで、新生日本の国造りのため、誇りと自負に燃えて良家のエリート子女や士族
のお姫様が伝習工女として全国から集められます。なれない寄宿舎生活と10時間の長時間労働で病気にかかり亡くなった人
も少なくありません。亡くなった伝習工女の墓は富岡市の竜光寺に残され、今でも供養されているそうです。フランスから
総勢15名(女性4名)。首長ブリュナの月給は600ドル(他に賄料150円)女工の最低月給で50ドル(他に賄料56円)と
いう高給であった。ちなみに日本人の工女は最高の人で年俸25円、最低で9円というものであった。月給に直すと平均が1円
ぐらいだったのである。しかし、13歳〜20歳の若き乙女たちは頑張った。余暇も花見から盆踊り、自主芝居と楽しんでい
たようです。
春先、新聞やテレビで皇后が養蚕をしていることが報道される事がある。蚕糸業は女性が支えてきた経緯から皇后と皇太后
が激励のために富岡製糸を訪れている。このときより毎年お蚕様を飼い、桑を食べさしているのである。
今日で11日間、毎日朝6時にテングサを洗い天日にあて乾燥させてきた。だいぶ色も落ち、きれいになっている。50グラム
を洗い、2リットルの水に大さじ2杯の酢を入れて40分どろどろに溶かす。
これをフキンで漉しゴミを取り除き、パッドごと冷蔵庫に入れ冷やす。トコロテン突きの大きさに切って、酢、醤油、トウ
ガラシをかけて食べてみた。鮮烈な味わいの食べ物になった。夕食後のデザートとしてトコロテンとあんみつを作るつもり
だ。家族たちの喜ぶ笑顔が目に浮かぶようです。昼間撮った11日目のテングサを写真にアップしています。写真を撮ろうと
している間に、海苔を千切られてかけられてしまった。ここはハサミで細かく切るべきであったトコロテン写真。
今、椿峰ではヤマボウシが至る所に咲いている。
葉の上に白い総包片ができ、その中心に小さなグ
リーンの花を固めている。これが秋には、赤く熟
れ果肉を食べるのである。白い花のような物は花
ではありません。
私は生食で食べたりお酒に漬けたりして楽しんで
います。
outdoor2に続く