小鳴門公園

小鳴門公園入口にて

鳴門市瀬戸町堂浦 2009年09月27日
北緯34度13分20秒 東経134度35分19秒 (WGS 84)


2009年夏のある日のことである。高速道路の祝祭日上限1000円の影響からか、この日の鳴門スカイラインは混んでいた。各休憩所、展望台は多くの車でいっぱいで、車を停められそうもない。近場で車を停められ、ゆっくりできそうな場所がないかと地図をめくると、「小鳴門公園」という文字が目に入った。

「ここなら近いし、もしかして空いてるかも。」

と、地図を頼りに下道に降りて公園を探す。しかし目的の場所に着いても公園らしきものは何もない。「公園はなくなったのかなぁ。」と思いつつ、道路脇に車を停め、ちょっと歩いてみる。

すると、左の写真ような、なんとも雰囲気の古い建物を見つけた。近づいて正面から見てみると、「小鳴門公園」と大きく書いてある。目的の公園はどうやらここらしい。

「なんか、うらさびれた門だなぁ。しかも小鳴門公園の文字が右から左に書かれている。えらい古い建物ちゃうんか。」

と思いつつ門をくぐると、そこに公園はなかった。ただ、薮気味の細い山道が奥へと続いているだけである。「こりゃ昼食どころじゃないな。」と、その日はそこで引き返した。



その後、あの原爆ドームにも似た門が妙に気になり、「小鳴門公園」は今も現存するのか、あるならその中はどうなってるのか、再訪して調べてみようという気になった。そして2009年9月27日に調査に出かけた。

車で「小鳴門公園」門付近まで行くが駐車場は見あたらない。門横に車2,3台が停められそうな空き地があるのだが、これが駐車場なのか私有地なのか判断がつかない。そのため、車は前回同様、ちょっと離れた道路の路肩に停めることにした。

「小鳴門公園」の門をくぐると右の写真のような状況である。草ぼうぼうの小道と粗大ゴミが迎えてくれた。進む先にはこの小道しかないので、そこを歩いて進む。ほどなく道は山を登りはじめ、林にはいると草も少なくなった。


「やれやれ、けっこうまともな山道になったな」と思った瞬間、道は再び左の写真のように藪化する。踏み跡は続いており、廃道ではないようだが、あまり人通りはなさそうだ。
それにしてもクモの巣が多い。地面に落ちている小枝を拾い、それを前でぐるぐる回しながら進んでいく。



しばらく歩くと突然、左手に石碑が現れた。

『御大典記念 阿波十五景之一 徳島日日新報社選』

と銘がある。文字はやはり右から左へ書かれている。設置は昭和4年10月らしい。タイトルの下には漢字とカタカナで何やら細かな説明がたくさん書かれていたが、文字が小さく読みにくいので解読は諦めた。ただ銘から察するに、徳島日日新報(徳島新聞社の前身の1つ)が選んだ阿波の15景のうちの1つが、ここ小鳴門海峡なのだろう。

石碑を後にし、クモの巣だらけの道を進んでいく。ところどろこ藪は濃くなるが、歩けないほどではない。やがて道中で唯一の広場に出た。広場と言ってもさほど広くはなく、10m四方程度だろうか。その広場の奥に何やら建っている。


近づいてみると「忠魂碑」という石塔であった。忠魂碑は日清戦争や日露戦争での戦死者の供養のために建てられるものだそうだ。これもそうなのだろうか。この忠魂碑をよく見てみると、「瀬戸村分會」とか「大正八年九月建之」という文字が見えた。瀬戸村の存在期間は明治22年〜昭和3年である。やはり戦死者供養のための碑であろう。

碑自体は比較的きれいであり、定期的に地元の人が清掃に来ているのかも知れない。



さて、道は忠魂碑の右を巻き、さらに奥へ続いている。私もさらに進んでみることにした。
するとすぐに視界が開け、崖の補修箇所の上に出た。 山道脇には真新しい柵が設置されており、比較的最近行われた工事のようだ。工事は既に終わっているようだが、柵手前には「立入禁止」のロープが撤去されずに残っている(このロープが撤去されることがあるのかは不明だ)。
柵の反対側には、以前から設置されていた石造りのベンチが置かれていた。


十分注意しながら、そのベンチから海側を見てみる。小鳴門海峡が眼下に見下ろせた。さらに下を見ると、ちょうど島田渡しの乗り場である。おそらく現在の公園内では、ここがもっとも見晴らしの良い場所だろう。このベンチでの昼食なら、風光よくていいかもしれない。でも途中の道の状態を考えれば、わざわざ来ないとは思うのだけど。


その後、山道をさらに奥まで進んでみた。でもすぐに行き止まりである。行き止まりの先からは赤いアーチがきれいな小鳴門新橋が見える。でも木々に邪魔され見通しは悪い。ここにも朽ちた石のベンチがあったが、回りに木々が生い茂り、既に役目を終えているかのようであった。


これで公園内を一通りみたことになる。一応、目的は達したので、同じ道を通って入口のドーム門まで戻ってきた。ふと見上げると、門の裏側上部に左の写真のような文字があるのを発見した。

「うーーん、何と書いてあるのか、まったくわからん。」

旧文字に強い人なら読めるかも知れないが、私にはどんな文字なのか、想像さえつかない。



以上で小鳴門公園の探訪記は終わりである。「小鳴門公園」でWeb検索すると「桜とつつじの名所として知られている。」と紹介しているページもあるが、これは昭和50年発行の観光ブックでの記載と全く同じである。実際は上で見てきたとおり、名所とはいいがたい。

今の小鳴門公園は、公園と言うよりも、戦没者が静かに眠る丘といった位置づけがふさわしいと思う。

小鳴門公園に関しては、以下の疑問がまだ残っているが、それらは今後、興味を持った人の調査に委ねよう。もちろん、機会があれば私も調べるかもしれないが。

  1. 誰がいつ、この公園を作ったのだろう。そしてあの門を建てたのだろう。
  2. なぜあのようなユニークな形の門となったのだろう。
  3. なぜ今も、あの門だけは残っているのだろう。
  4. 小鳴門公園の管理は、今はどうなっているのだろう。


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