b. 自己意識の純粋さと外的現実への関連における、自己意識の観察; 論理的心理学的な定律
自然の観察は、非有機的な自然における概念を、現実的と見做す(findet…realisiert)、すなわち、定律を見出すが、その定律の要因は、自らを同時に抽象的なもの(Abstraktionen)として振る舞っている、物(Ding)である。しかしながら、このような概念は、自らに逆戻りした単一性ではない。
これに対して、有機的な自然の生命は、ただこの自らに逆戻りした単一性である。普遍的なもの、また、個別的なものとしての、生命そのものの対立(der Gegensatz seiner selbst)は、このような生命そのものの本質のなかで、離ればなれに進むことはない。本質は、類型ではない。【類型は、自らの違いのない要素のなかで、 分離し運動し、そして、自らの対置のなかで、それだけであると同時に違いがないであろう。】
観察は、このような自由な概念を、つまり、【概念の(dessen)普遍性が、展開した個別性を同様に絶対的に自ら自身のなかに持っている】、このような自由な概念を【diesen freien Begriff】、ただ、概念として存在している概念そのもののなかでのみ、もしくは、自己意識のなかでのみ、見出す。
観察が、自ら自身へと向かい、自由な概念として現実的な概念を目指すことにより、観察はまずはじめに思考の定律(die Gesetze des Denkens)を見出す。
それ自身にあって思考であるこのような個別性は、否定的なものが、完全に単純性へと撤収した、抽象的な運動であり、そして、定律は実在の外に(außerhalb der Realität)ある。
-定律は、如何なる実在も持っていない。つまり、そもそも、定律は真理を欠いている。
定律はまるごと(ganze)真理ではないにしても、形式上の真理ではあるべきである。
しかしながら、【実在を欠いた純粋な形式上のものは、思想物【das Gedankending】であり、もしくは、内容以外ではないであろう、自らにあって仲違いするもの【die Entzweiung an ihr, welche nichts anderes als der Inhalt wäre】を欠いた、空虚な抽象物である。】
- 他方ではしかし、定律が純粋な思考の定律であるから、つまり、純粋な思考はそのまま普遍的なものであり、それゆえ、直接に存在と、その点であらゆる実在を、自身に持っている知であるから、このような定律は、絶対的な概念であり、そして、形式と諸物の、実体あるもの( die Wesenheiten der Form wie der Dinge)は、分離されてはいない。
自らのなかで動いている普遍性【die sich in sich bewegende Allgemeinheit】は、仲違いした単純な概念であるから、概念はこのようなあり方で内容をそのまま持っており、感性的な存在以外のあらゆる内容である、そのような内容を持っている。
それは、形式と矛盾せず、そもそも形式と分離せず、そうではなくてむしろ、本質的に形式そのものである内容である。というのも、形式は、自らの純粋な要因へと分離している(sich trennende)普遍的なもの以外ではないからである。
しかし、このような形式もしくは内容が、観察としての観察に対してあること、に応じて、形式は、見出され与えられた、言い換えると、ただ存在している内容の規定【die Bestimmung…nur seienden Inhalts】を手に入れる。
内容は、関係の安定した存在になる。すなわち、多くの分離された必然的なもの【eine Menge abgesonderter Notwendigkeiten】になるが、それら(die)は、確固とした内容としてそのままそれだけで、その規定性において、真理を持つべきであり、そのようにして実のところ、形式から引き離されている【der Form entzogen sind】。
-確固とした規定性、もしくは、多くの異なった定律の、このような絶対的な真理は、しかしそもそも、自己意識の単一性、もしくは、そもそも思想と形式の単一性に矛盾している。
どんなに確固とした、そのまま不変の定律が述べられようと、自らのなかに逆戻りしている単一性の要因だけが存在し得る、つまり、ごく微小の大きさ【eine verschwindende Größe】としてのみ、出現し得る。
しかし、運動のこのような関連から、考察によって、もぎ取られ、単独に据えられても、必然的なものに内容が欠けはしない。というのも、必然的なものは明確な内容を持っているからである。そうではなくて、必然的なものは、むしろ、自らの本質である形式を欠いている。
実のところ、必然的なものは、ただ形式的であり内容を持つべきでないからではなく、むしろ、正反対の根拠から、すなわち、必然的なものは、その規定性において、もしくは、まさに、形式が奪われている状態の内容として、何か絶対的なものと見做されるべきであるが故に、このような定律は思考の真理ではない。
必然的なものは、思考の単一性のなかの、ごくわずかな要因【verschwindende Momente】としてのその真理において、知、もしくは、思考する運動として【als Wissen, oder denkende Bewegung】受け取られねばならず、知の定律としてはしかし、受け取られてはならないだろう。
観察はしかし、知そのものではない。そして、知を心得てはいない。そうではなく、知の本性を存在の形態へと変える。言い換えると、知の否定性をただ、知の定律として理解するfasst seine Negativität nur als Gesetze desselben auf】。
-ここでは、いわゆる思考定律の無効【Ungültigkeit der sogenannten Denkgesetze】を事柄の普遍的な本性から明示すれば充分である。
より詳細な展開は、思弁哲学に入れるべきであり、そこでは、必然的なものが、実際にあるところのものとして、つまり、その真理が、ただ思考する運動の全体、知そのものである、個別のごくわずかな要因【einzelne verschwindende Momente】として姿を見せる。
思考のこのような否定的な単一性【diese negative Einheit des Denkens】は、それだけ自身存在している。もしくは、それはむしろ、それだけ自身存在するものである。つまり、個性の原理【das Prinzip der Individualität】である。そして、その実在において行為している意識である。
それゆえ、観察している意識は、ことがらの本性を介して、かの定律の実在としての、行為している意識へと継続される。
このような脈絡が意識にとってのものでないから、意識は、彼の定律における思考が、彼にとって一方の側に残っており、そして、他方の側で、いまや彼にとって対象であるもの、すなわち、行為している意識にあって、別の存在を手に入れていると思念する(meint)。【行為している意識は、それだけで存在しているため、他在を破棄し、否定的なものとしての彼自身の、このような直感のなかで、彼の現実を持っている。】
したがって、観察にとって、意識の行動している現実に、新たな領域が広がる。
心理学は多数の定律を含んでいる。精神は、それに応じて、見出された他在としての自らの現実の、さまざまなあり方に対して、さまざまに振舞う。一方で、さまざまなあり方を、自らに受け入れ、見出された習慣に、つまり、そのなかで、精神が現実的なものとして自らにとって対象である、風習と思考方法に、適合する(gemäß zu werden)。他方で、見出された習慣に対抗して(gegen sie)、積極的な自らを知る。つまり、情熱に駆られてそこから、特別なものだけを選び取り、具体的なものを自らに合わせて作り上げる。-あちらでは、個別的なものとしての自らに対して、こちらでは、普遍的な存在としての自らに対して、否定的に振舞う。
-独自性(die Selbstständigkeit)は、はじめの側面にしたがって見出されたものに、そもそもただ、自覚した個性の形式【die Form bewusster Individualität】のみを与える。そして、内容を考慮して、見出された普遍的な現実の内部にとどまったままである。しかし、他の側面にしたがって独自性は、普遍的な現実に(ihr)、最低限、独自の変更を加えるが、その変更は、普遍的な現実の本質的な内容に矛盾していない変更であるか、あるいは、また、特別な現実としての個人【das Individuum】と独自の内容が、それを介して、普遍的な現実に対抗する、そのような変更である。- そして、個人(es)が普遍的な現実(sie)を、ただ個別のあり方へと破棄する(aufheben)ことにより、もしくは、それを(dies)普通のやり方とし、それを、全てに対し行うことによって、他の世界、他の道理、法としきたりを、現存しているものと据え変えることにより、犯罪行為化する。
観察する心理学は、活動中の意識にあって、彼女に生じてくる普通のあり方に関する(von den allgemeinen Weisen)彼女の気づきを、まずはじめに言い表すが、その観察する心理学は、さまざまな能力、素質、熱情を見つけ出す。そして、このような収集物を説明するに際して、自己意識の単一性を想起せざるを得ないから、心理学は少なくとも、精神のなかに、袋のなかのように、そんなにも多くの、このように異質な、相互に偶然な物(Dinge)が、一緒になって存在し得るのか、特にまた、その上、その物(sie)が、死んだ安定したものとしてではなく、不安定な運動として姿を見せるのか、と訝しく思うに違いない。
【このようないくつかの能力を淡々と説明することにおいて、観察は普遍的な側面のなかにいる。このようなさまざまな才能の単一性は、このような普遍性に対置する側面、つまり、現実的な個性(Individualität)である。】
-このような異なった現実的な諸個性(die unterschiedenen wirklichen Individualitäten)を再び、ひとりの人はこちらを好み、他のだれかはそちらを好む。こちらの人はあちらの人より、より洞察力があるのごとく、解釈し説明することは、昆虫、苔その他の種類を数え上げること比べてさえ、もっと興味をそそられない事である。何故なら、さまざまな才能は本質的に、偶然に個別化することの要素に(dem Elemente der zufälligen Vereinzelung)属しているから、異なった現実的な諸個性は、観察に、さまざまな才能を個別にそして概念を欠いて(begrifflich)、受け取る権利を与えるからである。
にも関わらず、自覚した個性をおかしなことに(geistlos)、個別的に存在する現れとして受け取ることは、自覚した個性の本質が、精神の普遍的なものであるという、矛盾したものを抱えることになる。
しかし、把握することが、自覚した個性が、同時に、普遍性の形式へ入っていくままにすることで、把握することは、自覚した個性の定律を見つけ、いまや、理性的な目的を持ち、必須の仕事を推し進めているように見える。
定律の内容を形成する、諸要因は、一方で個性そのもの(Individualität selbst)であり、他方で、その普遍的な非有機的な自然、すなわち、見出された境遇、立地、習慣、風習、宗教、そのほかである。これらから、明確な個性は把握されねばならない。
それらは明確なものと同様に、普遍的なものを含んでいる。そして同時に、観察の眼前に現れ、他方で、個性の形式のなかで、表れている現存するもの(Vorhandenes)である。
両側面のこのような関係の定律はいまや、このような明確な境遇が、個性への働きと影響に及ぼしているものを、含まねばならないだろう。
しかし、このような個性は、普遍的なものであり、それゆえ、安定した直接のやり方で、現存する普遍的なもの、風習、習慣その他と合わさっており、それらに適合しているのと同様に、それらに対置するように振舞い、それらを逆転する、そのようなものである。-同様に、それらに対して自らの個別性において、まったく無関心に振舞い、それらを、自らに働きかけさせない。そして、それらに対し、積極的に行動しない。
何が個性に影響し、それが如何なる影響をもつべきかは、-本来、同様の意味であるが-それゆえ、個性そのもの次第である。それが原因で、このような個性は、このような明確な個性であると言うのは、個性は既にこのようなものであった、と言う以外のものでない。
境遇、立地、風習、その他、それらは一方で、現存していると提示され、他方で、このような明確な個性のなかで、個性のの問題にもならない不明確な本質を表明するだけである。
もし、このような境遇、思考方法、風習、世界状態が、そもそも存在しなかったとすれば、確かに、個人(das Individumm)は、そうであるものに、ならなかったであろう。というのも、このような世界状態においてあるもの、すべてが、このような普遍的な実体(diese allgemeine Substanz)だからである。
- しかし、世界状態(er)が、このような個人において(in diesem Individuum)、自らを部分化したごとくに、- そして、そのような個人が、理解されるべきだが- 世界状態は、そのままそれ自身においてさえも、自らを部分化せねばならなかっただろうし、自らに与えた、このような規定性において、個人に(auf ein Individuum)影響を及ぼされねばならなかっただろう。そんなふうに、世界状態は、個人(es)がそうであるこのような明確な個人へと、個人(es)を作り上げたであろう。
もし外観が、個性にあって(an der Individualität)姿を現すように、そのままそれ自身で、自らを調達したとするなら、個性(diese)は外観から(aus jenem)理解されているだろう。
我々は、一方が他方の反映である絵画の二重のギャラリーを持つことになるだろう。一方は、外的境遇の完全な規定性と境界設定のギャラリー、他方は、同じ外的境遇を、それが、自覚する本質においてあるような、あり方へと移す。前者は球面、後者は、球面を自らのなかに表現している中心である。
しかし、球面、個人の(des Individuums)世界は、直接にニ通りに解釈できる意味合いを持っている。つまり、そのままそれだけで存在している世界と状況(Lage)、そして、個人の世界であるが、個人の世界は、個人が、世界と状況とただ合体した状態であるだろう、つまり、世界と状況が、あるがままに自らに入っていくにまかせ、世界と状況に対してただ形式的な意識として振舞うだろうという点で存在するだろう、個人の世界であるか、-もしくはしかし、個人の世界が、現存するものが、個人によって逆転されてあるように存在している個人の世界であるか、どちらかであるという両義的な意味を持っている。
このような自由のために、現実はこのように両義的に解釈出来るから、個人の世界はただ、個人そのものから(nur aus diesem selbst)理解されねばならない。そして、そのままそれだけで存在すると表象される現実の、個人への影響は、注ぎ込む現実の流れを、個人が自らにおいて邪魔しないか、もしくは、個人が流れを断ち切り逆転するかどちらかである、という正反対の意味を、個人を介して(durch dieses)無条件に受け取る。
しかしながら、これによって、心理学の必然性は、このような影響を持ったとされるものに関して、それがこのような影響を持たなかったかもしれないという、絶対的な可能性が存在するという、空虚な言葉になる。
このようにして、そのままそれだけで存在するだろう存在、そして、一つの側面、しかも、定律の普遍的な側面を形成すべきだろう、存在が抜け落ちる。
個性(die Individualität)は、彼女のものとしての世界であるもの、である。個性そのものは、彼女の行為の円環であり、そのなかで、個性は現実であることが明らかになった。そして、ただもう、現存する存在とできあがった存在の単一性である。単一性、その側面は心理学の定律の表象においての様に、そのまま存在する世界として、そして、それだけで存在している個性として、ばらばらに崩れることはない。もしくは、もしそれらが、そのように、各々それだけで考察されるなら、両者の関連の如何なる必然性も定律も、互いにとって存在することはない。
c. 自己意識の直接の現実への自己意識の関連の観察; 骨相学と頭蓋学
心理学の観察は、自己意識が現実へと、もしくは、彼に対置する世界へと関連する、如何なる定律も見い出さない。そして、双方相互の無関心さを介して、実在の個性の(der realen Individualität)本来の規定性へと追い返されているが、その個性は、そのままそれだけで存在している、もしくは、それだけの存在とそのままの存在の対立を、自らの絶対的な仲裁において撲滅して持っている。個性はいまや、観察にとって生じた対象、もしくは、個性がそこへ移行した対象である。
個人(das Individuum)は、そのままそれだけ自身で存在する、つまり、個人はそれだけで存在する、もしくは、個人は自由な行為である。個人はしかしまた、そのまま存在する、もしくは、個人は本来の明確な存在(ein ursprüngliches bestimmtes Sein)を持っている。-すなわち、概念にしたがえば、心理学が、本来の明確な存在の外に(ausser ihm)見いだそうとしたものと、同一のものである規定性を、持っている。
それゆえ、個人そのものにおいて【an ihm selbst】、対立が出現する。つまり、意識の運動と出現している現実の確かな存在の二重性という対立であり、出現している現実とは、本来の明確な存在にあって、直接、個人のものである、そのような現実である。
このような存在、明確な個性(Individualität)の身体は、その自然のままのものであり、彼女の成さなかったこと(ihr Nichtgetanhaben)である。
しかし、個人(Individuum)は同時に、彼が成したもの(was es getan hat)であるから、彼の身体はまた、彼によって生み出された彼自身の表現である。そして同時に、直接の事柄のままではなく、個人が自らの本来の本性を、作り出したものに【ins Werk】しようと目指している、という意味合いのなかにあることを、その点にあって、ただ知るようしむけている。
我々が、ここに存在している要因を、先の見解との関連で考察するなら、ここには、普遍的な人間の形態(Gestalt)が存在している。もしくは、少なくとも、気候、大陸、民族の普遍的な形態が、以前の同様の普遍的な風習や教養(Bildung)のように存在している。
これに加えて、普遍的な現実の内部に、特別な状況と環境がやって来る。ここには、このような特別な現実が、個人の(des Individuums)形態の特別な形成物(Formation)として存在している。
-他の側面において、以前、個人の自由な行為と現実が、現存する現実に対する、彼のものとしての現実として措定されていたように、ここでは、形態が、個人そのものを介して措定された個人の現実化の表現、個人の積極的な本質の連なりと外形として存在している。
しかし、普遍的であり特別でもある現実を、かつては観察が、個人の外に(außer dem Individuum)見出していたが、それが、ここでは、個人の現実、彼の生まれながらの身体であり、そして、彼の行為に属している表現は、まさしく身体へと発せられる(in eben diesen fällt)。
心理学の観察においては、そのままそれだけで存在する現実と、明確な個人は互いに関連付けられていた。ここではしかし、丸ごとの明確な個人が、観察の対象である。そして、個人の対立の各々の側面は、それ自身でこのような全体である。
それゆえ、外的な全体に属しているのは、元来の存在、生まれながらの身体だけではなく、内的なものの活動性に属している形成物(die Formation)、身体の形成物が、属している。外的な全体は、作り出されていない(ungebildeten)存在と作り出されたされた存在の単一性である。そして、それだけの存在に貫かれた現実、個人の現実である。
明確で本来の確固とした部分と、唯一行為を介して生まれる連なりを、自らに捉えている全体が、存在する。そしてこのような存在は、内的なものの表現、つまり、意識と運動として措定せれている個人の(Individuums)表現である。
-内的なものとは、同様にもはや、その内容と規定性が、以前のように、境遇の外にあった、形式的で内容のない、もしくは、明確でない自発性ではない。そうではなく、内的なものは、そのまま明確な本来の性格(Charakter)であり、性格の形式はただ活動性である(dessen Form nur die Tätigkeit ist)。
それゆえ、ここで、両側面の間で、関係が考察される。内的なものは如何ように規定されるべきのか、そして、内的なもののこのような表現のもとで、外的なものにあっては何が理解されるべきなのか、が考察される。
このような外的なもの【dies Äußere】は、内的なもの【das Innere】を、さしあたりただ、器官として明らかにする(sichtbar…macht)。もしくは、そもそも、他者に対する存在にする。というのも、内的なものは、器官のなかにある限り、活動性そのもの(die Tätigkeit selbst)だからである。
喋っている口、活動している手、そうしたければさらに足も加えて、それらは、現実化している、遂行している器官であり、それらは、振舞いとしての振舞い(das Tun als Tun)もしくは、そのようなものとしての内的なものを、それら自身に持っている。内的なことが、器官を介して手に入れる外面性(die Äußerlichkeit)は、個人から切り離された現実(eine von dem Individuum abgetrennte Wirklichkeit)としての行為(die Tat)である。
話すことや働きかけることは、表出(Äusserung)であり、個人は、そこにおいてもはや、自らを保持し所有せず、内的なものが外へ出るにまかせ、それを、外的なものに委ねる。
それゆえ、人は、このような表出が内的なものを、過剰に表現しているとも、過小に表現しているとも、言うことができる。過剰にとは-内的なものそのものが、表出において噴出するから、表出と内的なものの間に、如何なる対立も残らないからであり、表出が単に、内的なものの表現を与えるだけでなく、内的なものそのものを直接に与えるからである。過小にとは、-内的なものが、話すことと行動のなかで、自らを他のものに【zu einem Anderen】するから、それによって、内的なものは自らを、変化の要素に委ねることとなり、変化の要素は、喋られた言葉、成し遂げられた行為(die vollbrachte Tat)を変えて、そこから、喋られた言葉、成し遂げられた行為(sie)が、そのままそれだけで、このような明確な個人の行動としてあるものとは、別のものにするからである。
行動の諸産物(die Werk der Handlungen)は、他の諸個人に対して何か変わらぬものであるという性格を、他の人の働きかけによる、このような外面性【diese Äußerlichkeit von dem Einwirken Anderer】を介して、失うだけでない。そうではなく、行動の諸産物(sie)が、自ら(sie)が含有している内的なものに対して、分離され無関心な外的なもの【Äußeres】として振る舞うことによって、個人そのものを介した(durch das Individuum selbst)内的なものとしての、行動の諸産物(sie)は、それら(sie)が姿を現すものとは、違うもの(ein anderes)であり得る。-すなわち、個人が、行動の諸産物を、現れることに対し故意に、それが、実際に存在しているのとは、別の何かにするか、もしくは、個人が本来望んでいた外的側面に自らを与えることと、個人にとって彼の産物が、他の諸個人によって変えられる可能性がないよう、行動の諸産物をそのように堅固にすることに、拙すぎるか、のどちらかである。
振舞いは、それゆえ、成し遂げられた産物として、二重の対置する意味合いを持っている。つまり、内的な個性であり、個性の表現ではないか、もしくは、外的なものとして、内的なものから自由な現実であり、その現実は全く前者とは別である、そのどちらかであるという意味合いを持っている。
- このような両義性のために、我々は、内的なものが、可視的にもしくは外面的にではあるが、如何ように、個人そのものにおいてあるのか、探し回ら ねばならない。
しかし、器官において、内的なものは、直接の振舞いそのものとして存在している。行為にあって、振舞いは内的なものの外面性に達するが、その外面性は、内的なものを表現する(vorstellt)か、もしくはまた、表現しないかどちらかである。
このような対立にしたがって考察されれば、器官が、求められている表現を満たすことはない。
いまや、外的形態が、器官、もしくは、振舞いではなく、それゆえ、安定した全体としてある限りで、内的な個性を表現できるのであれば、外的形態は、それゆえ、存続している物として振る舞い(verhielte…sich)、内的なものを馴染みのないものとして、その消極的な定在に静かに受け入れ、それによって、内的なもののしるしにもなるであろう。-外的で偶然な表現、その現実の側面は、それだけでは無意味である-ある種の言い回しであるが、その響きと響きの結合は、事柄そのものではなく、自由な恣意を介して、事柄と結びつけられ、偶然に事柄のために存在する。
お互い外的に存在しているものを、そのように恣意的に結びつけることは、定律を生み出さない。
骨相学は、明確な個人を、内的・外的なもの【eines Inneren und Äußern 】の、必然的な対立において、すなわち、自覚する本質としての性格(des Charakters)と存在している形態としてのそれとの、必然的な対立において考察し、その要因がその概念を介して、互いに関連し、定律の中身を形成せねばならないように、このような要因を互いに関連づけることによって、他の出来のわるい技法やひどい研究から、自らを区別すべきである。
これに対して、占星術や手相術、そしてそれと似たような学問においては、ただ外的なものが外的なものへと、何かあるものが、それにとって馴染みのないものに、関連付けられているように見える。
分娩に際しての、この星の位置、そして、もしこのような外的なものが、身体そのものに引き寄せられるなら、手のこれらの特徴(diese Züge)は、そもそも、長命もしくは短命に対する、そして、個別の人間の運命に対する、外的な要因である。
外面性としてそれら要因は、互いに無関心に振る舞い外的・内的なものの関連のなかにあるべき、互いに対する必然性を、持ってはいない。
言うまでもなく、たとえ手が、運命にとっての何かしらの外的なもの【Äußeres】とは見えないとしても、手はむしろ、運命に向けた内的なもの【Inneres】として振る舞うように見える。
というのも、運命とは、再びまた、明確な個性が、そのまま内的な本来の規定性としてあるところものの現れ、に過ぎないからである。
-明確な個性がそのまま何であるのかを知ること、このことに、手相見も人相見も、より手短なやり方で、例えばソロンは、生涯の経過からそれに応じて、やっと知ることが可能と考えていたが、より手短なやり方で行きつく。ソロンは現れることと考察したが、手相見また人相見はしかし、そのままある存在を考察する。
しかし、手が個人のそのままある存在を、個人の運命を考慮して、叙述せねばならないことは、手が、言語能力の器官に一番近い器官であり、それを介して、人が自らを現し現実化することから、簡単に理解できる。
手は運命の幸運の女神の、生き生きした職工長である。手とは、人が成すところのものであると言える。というのも、人が自らを成就する活動的な器官としての手において、人は魂を吹き込む者(Beseelender)として現存するからである。そして、人は本来、彼固有の運命であるから、手はこのようなそのままある存在を表現するであろう。
活動の器官が、存在であるとともに、器官における振舞いであること、もしくは、内的なそのままの存在自身が、器官にあって現存し、他者に対する存在を持つ【das innere Ansichsein selbst an ihm gegenwärtig [ist] und Sein für andere hat】という、このような規定から、内的なそのままある存在の、以前とは違う観点が生じる。
すなわち、もし、諸器官において、振舞いとしての振舞いが現存し、行為としての振舞いはしかし、ただ外的なものであり、そして、このようにして、内的・外的なもの【Inneres und Äußeres】 は、ばらばらに崩れる【auseinander fällt】。そして、両者は知らぬもの同士に存在し、もしくは、存在し得る【und [sie] fremde gegeneinander sind oder sein können】。そもそもすなわち、このような理由で、諸器官は、自らが内的なものの表現として受け取られ得うると、示さなかったとすれば、まさに、振舞いが器官にあって現存すること、同時に振舞いの外面性を形成し、しかも、行為としての他の外面性が存在し、前者はすなわち、個人に留まり離れない。そのことによって、考察された規定に従うと、器官は再びまた、両者の中心として、受け取られねばならない。
-このような中心そして内的・外的なもの【des Inneren und Äußeren 】の単一性は、いまや、さしあたりまた、外面的でさえある。かくして、しかし、このような外面性は同時に、内的なものの中へ受容されている。その外面性(sie)は純粋な外面性として、分散させられた外面性に対立している(entgegen…steht)が、その分散させられた外面性とは、ただ、まるごとの個人に対する個別の偶然な成果(Werk)であるか、状態であるか、もしくは、しかし、まるごとの外面性として、諸成果と諸状態の多数性のなかで、ばらばらに分散された運命であるか、のいずれかである。
したがって、手の単純な諸特徴(die einfachen Züge)、同じ程度に、言葉の特殊な(individuelle)規定性としての声の響きと拡がり- 特殊な規定性(dieselbe)、それはまた、声を介することより、手を介することによって、より強固な実存(Existenz)を受け取る(bekommt)、つまり、筆跡を、しかも、手書き文字としてのその独自性における筆跡を、受け取るがーこれらすべては、内的なものの表現である。その結果、内的なものの表現は、単純な外面性として、再び、行動することと運命の幾重もの外面性に対し、つまり、これらに対して、内的なものとして振る舞う。
- それゆえ、さしあたり、もし、個人の明確な本性と生来の特徴が、それ(sie)が人間形成を介して成ったものと一緒になって、内的なものとして、つまり、行動することと運命の本質として、受け取られるなら、内的なものは、その外見【Erscheinung】と見てくれ【Äußerlichkeit 】を、さしあたり、個人の口、手、声、筆跡において、並びに、他の器官とその永続的な規定性において、持つことになる。そして、内的なものは、このようにしてはじめて、さらに外に向かって、世界のなかの自らの現実にあって、自身を表現する。
いまや、このような中心が、自らを、同時に内的なものへと引き戻されている表出【die Äußerung】として、指定している(sich..bestimmt)のだから、中心の定在は、振舞いの直接的な器官に、限定されてはいない。中心(sie)は、むしろそもそも、容貌(Gesichts)と造型の、何も成し遂げていない運動と形式である。
このような諸特徴(diese Züge)と、中心の(ihr)運動は、このような概念にしたがうと、引き止められて、個人に留まっている振舞いであり、現実的な振舞いへの個人の(seiner)関連にしたがえば、個人(desselben)が自らを監督し観察すること、つまり、実際の表出(Äußerung)に関する反省としての表出(Äußerung)である。
-それゆえ、個人は彼の外見上の(äußeren)振舞いに対して、またそれに際して、沈黙する訳ではない。なぜなら、その際、個人は同時に自らのなかに、逆戻りさせられているからである。そして、このような自らのなかへ逆戻りした存在を、言葉に表す(äußert)。このような理論上の振舞い、もしくは、個人がそれについて、自ら自身と語ることは、他者にとっても聞き取れる。というのも、その語りは、表出(Äußerung)でさえあるからである。
それゆえ、自らの表出のなかに留まったままの内的なものである、このような内的なものにあって、自らの現実から個人が逆戻りさせられた存在は、観察される。そして、このような単一性のなかに措定されている、このような必然性には、如何なる事情があるのかが、見られねばならない。
-逆戻りさせられた存在は、さしあたり、行為そのものとは異なっている。そして、それゆえ、行為とは何か違うものであり得るし、何か違うものとして受け取られ得る。ある人の喋ること、振舞う(tut)ことが、その人にとって本気であるのかどうかを、人はその人の表情で(am Gesicht)見極める。
-しかしながら逆に、内的なものの表現(Ausdruck)であるべき表情(dieses)は、同時に、存在している表現(Ausdruck)である。そして、それゆえ、自覚した本質にとっては、絶対的に偶然である存在の規定へと、落ちてしまいさえする。
表情(es)はそれゆえ確かに表現ではあるが、同時にまた、ただ、標識(ein Zeichen)のようでもある。結果として、表現された内容にとっては、それを介して、標識(es)が表現されところのものの性質は、まったくのところ重要ではない。
内的なものは、このような外見【Erscheinung】のなかで、可視的な不可視的なもの(sichtbares Unsichtbares)であるが、外見に結びつけられていない。内容は、他の外見のなかに存在し得るのと同様に、他の内容が同じ外見のなかに存在し得る。
-それゆえ、リヒテンベルクが、「仮に、人相学者が、かつて、人間を捉えることがあったとするなら、再び、想像も付かぬ数千年へと旅立つのは、ただ勇敢な決断にかかっているだろう。」と述べているのは当然である。
-前述の関係において、当面している境遇は、存在しているもの(ein Seiendes)であった。そこから、個性は自らが実現し望んだものを、利用した(sich..nahm)。存在しているものに身をゆだねているか、もしくは、それを逆転させているか。どちらの理由でも、存在しているものは、個性の必然性と本質を含んでいなかった。-いまや、ここでは、個性が姿を現している(erscheinende)直接の存在は、現実から逆戻りした個性の存在(ihr Reflektiertsein aus der Wirklichkeit)とその自己内存在(ihr Insichsein)を表現している存在か、もしくは、表示されたものに無関心で、それゆえ、実際には何も表示していない、個性にとって、ただの標識に過ぎない存在か、そのどちらかである。それは個性にとって、彼女の表情であるか、取り去ることが可能なマスクであるか、どちらかである。
-個性は自らの形態を貫き、運動し、形態のなかで表現する(spricht in ihr)。しかし、このまるごとの定在は、同様に、意志と行動に対して無関心な存在として氾濫する。個性が自らへ逆戻りした存在、もしくは、個性の真の本質(ihr wahres Wesen)を定在にあって持つという、定在が先程持っていた意味合いを、個性は定在にあって根絶する。そして、個性の真の本質(es)をむしろ逆に、意志と行為へと移す。
個性は、諸特徴のなかに表現されている、その自らに逆戻りした存在を断念する。そして、自らの本質に着手する(legt ihr Wesen in das Werk)。
この点で、個性は、自覚している(selbstbewussten)個性の観察に精を出している理性本能によって、個性の内的・外的なもの(ihr Inneres und Äußeres)であるだろうものを考慮して定められている関係、と相容れない。
このような視点は、骨相学 - そう呼びたければだが - にとっては、根底にある、本来の思想へと、我々を導く。
このような観察が陥っている対立は、形式に従えば、実践的なことと理論的なことの対立であるが、詳しくいうと、両者は実践的なものそのものの内部に措定されている。-行動のなかで (一般的な意味においてだが) 現実のものとなっている個性と、このような行動のなかで、同時にそこから抜けて、自らに逆戻りし、行動が自らの対象である個性の対立である。
観察は、このような対立を、その対立の逆転した関係にしたがって、取り上げるが、その関係のなかでは、対立は外見(in der Erscheinung)のなかで、自らを指定する。
観察にとって、行為そのもの(die Tat selbst)、そして、言語活動であれ、より確固とした現実であれ、成果【das Werk】は、非本質的な外的なもの(Äußere)と見做される。-しかし、個性の自己内存在は本質的な内的なもの(Innere)と見做される。
実践的な意識がそれ自身に持っているふたつの側面、すなわち、意図するもの(Beabsichtigen)と行為の側面にあっては、-彼の行動(Handlung)に関しての思念と行動そのものの側面にあっては- 観察は、意図するものの側面(jene Seite)を真の内的なものに選ぶ。真の内的なものは、行為にあっては(an der Tat)、彼の多かれ少なかれ非本質的な表出(seine mehr oder weniger unwesentliche Äußerung)を持つべきであり、しかし、彼の真の現れ(seine wahre)を彼の形態にあって(an seiner Gestalt)、持つべきである。
後者の表出(Äußerung)は、個々の(individuellen)精神の、直接の感性的な現存である。真の内面性であるべき内面性(die Innerlichkeit)は、意図の特異性(die Eigenheit der Ansicht)とそれだけの存在の個別性(die Einzelnhrit des Fürsichseins)である。両者は思念された精神である。
観察がその対象にしているものは、それゆえ、思念された定在である。そして、そのようなものの間に、観察は定律を捜し出す。
精神の思念された現存に関して、直接的に思念すること(Meinen)が、通常の骨相学である。つまり、内的な本性とその形態の性格に関して、その形態を一見して、性急に判断することである。
このような見解(Meinung)の対象は、その本質のなかに、実際にはただ感性的で直接的な存在とは異なったものが存在しているという、類いのものである。
それは、たしかにまた、まさに、感性的なものにおいて、そこから自らに逆戻りした存在、現存するもの、不可視なものの可視性としての可視性、観察の対象であるもの、である。
しかしながら、まさに、このような感性的で直接の現存は、精神の現実ではあるが、それは見解(Meinung)に対してのみ存在している現実である。そして観察は、このような側面にしたがって、精神の考えられた定在、骨相、筆跡、声の響きその他に、憂き身をやつす。
-観察はそのような定在を、まさにそのような思念された内的なものに、当てはめる。
定在は判決が下されるべき人殺しでも盗人でもない。そうではなく、ありうべき能力である。確実で抽象的な規定性は、これを介して、個別の個人の具体的で際限のない規定性へと消滅する。規定性はいまや、かの適格性であるより、より精巧な叙述を要求している。
そのような精巧な叙述は、人殺し、盗人、もしくは、気立がいい、素朴な、その他を介した適格性より、多くを語る。しかし、思念された存在、もしくは、個別の個性を表現するという、その目的にとっては、平らな額、長い鼻、その他、を越える形態の叙述と同様に、決して十分ではない。
というのも、個別の形態は、個別の自己意識と同様に、思念された存在として、表現不可能だからである。
思い違えた人間を目指している、世態人情の知識の学問、同様に、人間の思い違えた現実を目指し、普通の骨相学の意識不明の判断を、知識へと高めたい骨相学の学問は、それゆえ何か際限なく極め難いもの、それが思念するものを、表現することに、至ることが決してできないものである。なぜなら、その内容はただ思念されたものだからである。
このような学問が、発見を目指している定律は、このような両者の思念された側面の関連であり、それゆえ、空虚な考えごと(Meine)以外のものではない。
同様に、精神の現実と関わろうと向かっていく、このような思い違えた知識(Wissen)は、【精神(er)が自らの感性的な定在から、自らへと逆戻りし、そして、明確な定在が精神にとって(für ihn)、無関心な偶然性であることを、自らの対象としている】から、このような思い違えた知識は、見つけ出された彼の諸定律においては、何も言い表せられておらず、そうではなくて、要するにおしゃべり以外の何者にもなっていない、もしくは、ただ、自身に関する見解(eine Meinung von sich)が与えられるだけであると、知らねばならない。思い違えた知識を、それとして言い表す、真実を持った表現であるが- 彼の見解を述べること、そして、それにより、事柄ではなく、ただ、自身に関する見解を持ち出すことである。
しかし、内容から判断するに、このような観察記録は、『縁日は何時も雨、と店の主人が言い、洗濯物を乾かそうとすると何時も雨、と主婦が言う』そのようなものと大差ない。
骨相学の観察を、そのように的確に特徴付けているリヒテンベルクは、「もし誰かが『おまえは確かに、真面目そうにしているが、無理にそう振舞っているだけで、心の中が悪党なのは、おまえの姿形から(aus deiner Figur)御見通しだ。』と言ったなら、そんな挨拶は、ほんとうに、世界の果てまで行っても、すべての勇敢なやつから、ビンタで対応されるだろう。」とも言っている。
- このような返答は、的確である。というのも、このような返答は、「人間の(des Menschen)現実は、その外見等である。」とするような、思念の学問の、最初の前提に反駁することだからである。
- 人間の真の存在は、むしろ、彼の行為(seine Tat)である。行為において、個性は現実的である。個性は、思念されたものを、その両側面において破棄する。
まず、考えられた存在(das Gemeinte)は、身体的に活動をしていない存在である。個性は、行動のなかで、否定的な本質として現れるが、その本質は、身体的に活動をしていない存在を、破棄する限りにおいてのみ、存在する。
次に、行為は、意図することの表現不可能性を、同じように、意図のなかでは、限りなく明確で決定可能な個性である、自らを自覚している個性、を考慮して破棄する。
成し遂げられた行為において、このような出来の悪い限りなさは、根絶されている。
行為は単純に明確なものであり、普遍的なものであり、抽象作用において従事しているものである。それは、殺人、窃盗、もしくは善行、勇敢な行為、その他である。行為が何であるのかは、行為によって語られ得る。
行為は徴標であるだけでなく、事柄そのものである。
行為とはこのようなものであり、個々の人間(der individuelle Mensch)は、行為であるところのものである。このような存在の単一性において、個々の人間は他者に対し存在し、普遍的な本質である。そして、ただ考えられたものであることをやめる。
個々の人間は、確かにその点で、精神として措定されてはいない。しかし、存在としての個々の人間の存在が、語られており、一方で、形態と行為という、二重の存在は、相対峙しているが、前者と後者は個々の人間の現実であるべきであるから、むしろただ、行為だけが個々の人間の本物の存在として主張されるべきである。- 個々の人間が彼の行為について考えていること、ただ成し得るだろうと考えることを、その姿形は表現すべきではない。
同様に、他方で、彼の成果と彼の内的な可能性、能力、もしくは、目論みが、対置させられているから、前者が唯一彼の真の現実と見做されるべきである。たとえ、彼自身がそれに関して、思い違いをしていて、そして、彼の行動から、自らに戻り、実際のところ、行動の内部に行為のなかにとは、別のものが存在していると、考えたとしても。
対象的な要素に自らを委ねている個性は、成果へと移ることで、それに伴って確かに、変化させられ、変えられることに、身を委ねる。
しかしながら、個性が、自らを保持している現実的な存在であるか、もしくは、ただ、そのなかで無為に過ぎていく、思念された成果であるかが、まさに行為の性格を、形成する。
具体性(die Gegenständlichkeit)は、行為そのものを変えることはない。ただ、行為が何であるのか、言い換えると、行為が存在しているのか、もしくは、行為が何者でもないのかを、示す。
- いくつかの観点でこのような存在を分析すること、そして、そのような微細な点、つまり、それを介して、現実的な人間が、言い換えると、彼の行為が、再び思念され、存在のなかへ戻って解釈されるべき、微細な点は、彼が確かに自らまた、自らの現実に関して特別の観点を創り上げようとしてさえも、見解の無為に任せておくしかない(dem Müßiggange der Meinung überlassen bleiben…müssen)。見解の無為(der)は、彼が、もし、自らの無為の知恵(seine tatenlose Weisheit)を成果へと向け、行動している者にあっての理性の性格(den Charakter der Vernunft am Handelnden)を否認し、行為の代わりにむしろ、姿形と特徴を(die Figur und die Züge)行為している者の存在(das Sein desselben)であると断言しようとする、このようなやり方で、行動している者の理性の性格を、乱暴に扱おうとするなら、見解の無為(er)は、上述の返答を心配せざるを得ない。その返答は見解の無為(ihm)に、姿形(Figur)が、そのままのもの(das Ansich)ではなく、むしろ、治療の対象(ein Gegenstand der Behandlung)であり得ると、示している。
もし我々がいま、そもそも、関係の広がりに目を向けるなら、そこでは、自覚した個性がその外的なものに対しているのが観察され得るが、観察が さらに対象とせねばならないものが一つ、取り残されているだろう。
心理学においては、外的なものは、物の外的な現実であり、その現実は、精神にあって自らの自覚した一方の像を持つべきであり、精神を理解させるべきものである。
これに対して、骨相学においては、精神は、自らの本質の表現(Sprache)-可視的不可視性-であるだろう、存在としての、自らの外的なもののなかで、認識されるべきである。
個性がその直接の、確固とした、純粋に定在している現実にあって、自らの本質を表現するだろうという、現実の側面の規定が、いまだ残っている。
-このような最終的な観点(Beziehung)は、骨相学の観点が個人の明白な現存(die sprechende Gegenwart des Individuums)であること、を理由に、自らを骨相学の(観点)から区別する。個人(das)は彼の行動している表出(Äußerung)のなかで、同時に、自らを自身へと逆戻りさせ、観察している[表出]を描き出す(darstellt)。それ自身が運動である表出、つまり、それ自身が仲介された存在である、安らっている特徴(Züge)である。
さらに観察し続けるべき規定のなかで、外的なものはようやく、すっかり安らっている現実であるが、その現実はそれ自身にあって、語っている標識ではなく、自覚した運動から離れて、自身をそれだけで描き出し、そして、単なる物(bloßes Ding)として存在している。
さしあたり、内的なものの、このような自らの外的なものへの関連に関して、そのまま存在するものの、ほかのそのまま存在するもにへの関連が、必然的な関連としての、このような関係であるから、内的なものの、このような自らの外的なものへの関連は、因果関係の関係として、把握されねばならないように見えることが、はっきりとした。
いまや、精神的な個性(Individualität)が、身体への作用を持っているだろう、その原因そのものとして、精神的な個性は、肉体を持って(leiblich)存在しなければならない。
器官(das Organ)は、そのなかに、原因としての精神的な個性が存在している肉体的なもの(das Leibliche)であるが、しかし、外的現実に対する振舞いの器官ではなく、自ら自身において自覚した本質の振舞いの器官であり、外向きにただ自らの身体に対している。このような諸器官であり得るだろう器官は、直ちに予測されるわけではない。
そもそもただ諸器官だけが、念頭に置かれるなら、作業の器官は、およそたやすく手にあるだろうし、性欲の器官等、同様であろう。
しかしながら、そのような諸器官は、一つの極としての精神が、外的な対象である他の極に対する中心に持っている、手段もしくは部分として考察されるべきである。
しかし、ここでは、以下のような器官が了解されている。その器官のなかでは、自覚する個人が極として、自らの固有の、彼にとって対置する現実に対して、それだけであることを保ち、同時に外に転じることなく、その行為において逆戻りする、そして、その点において、存在の側面は他者に対する存在ではない。そのような器官が、了解されている。
骨相学において、器官はまた確かに、自らに逆戻りし、振舞いを論評する定在が、考察される。しかし、このような存在は、対象的な存在であり、骨相学の観察の結果は、自己意識が、何か無関心なものに対するように、まさにこの彼の現実に対して、立ち向かう、というものである。
このような無関心さは、この自ら自身に逆戻りした存在そのものが、活動している(wirkend)、そのことのなかで、消えてしまう。そのことを介して、かの定在は、自ら自身に逆戻りした存在(es)への、必然的な関連を手にする。自ら自身に逆戻りした存在(es)がしかし、定在に作用しているだろう(wirkend sei)ことは、そのことそのものが、本来しかし対象的ではない存在(ein aber nicht eigentlich gegenständliches Sein)を持たねばならない。そして、自ら自身に逆戻りした存在(es)は、このような器官として明示されるべきである。
いまでは、当たり前の生活のなかで、例えば怒りが、そのような内的な振舞いとして、肝臓へと移されている。プラトンは肝臓に何か高等なものを、数名の人たちによれば最も高等なものを、付け加える。すなわち、予言、もしくは、神聖なものと永遠なものを、無分別なやり方で宣告する、天賦の才である。
しかしながら、個人が肝臓や心臓その他のなかに、持っている運動は、個人が完全に自身へと逆戻りする運動としては見做され得ない。そうではなく、その運動は、むしろ、その運動が、個人にとってすでに身体に組み入れられており、そして、動物的で、外向きに外面的なものに対抗する定在を、持つという点において存在している。
これに対して、神経組織は、有機的なものが、その運動のなかで直接的に安らっていることである。
神経そのものは、たしかに再び、すでにその外向きの方向へと沈み込んだ、意識の器官(die Organe)である。脳髄と脊髄はしかし、自己意識の、自らに留まった-対象的ではなく、外に出ることのない-直接の現存と考えられる。
このような器官(dies Organ)が持っている、存在の要因が、他者に対する存在、すなわち定在である限り、このような器官(es)は、死んだ存在であり、もはや自己意識の現存ではない。
【このような自らにあってそれだけの存在(Insichselbstsein)は、しかし、その概念に従うと、流動性であり、そこにおいては、投げ込まれた円環は、すぐにほどけて、存在するものとしての如何なる違いも、表れない。】
さしあたり、精神そのものは、抽象的で簡素なものではなく、運動の仕組み(ein System von Bewegungen)であり、そこでは、精神は要因へと自らを区別するとしても、しかし、このような区別することそのものにおいて、自由なままである。そして、精神がその本体(seinen Körper)を、そもそも、異なった活動へと区分し、その個別の部分をただ一つの活動に選定するに応じて、精神の自己内存在の流動的な存在は、区分された存在であると、表象され得る。そして、それは、そのように表象されねばならないように見える。というのも、精神の自らに逆戻りする存在は、脳髄そのものにおいて、再び、ただ、精神の純粋な本質と精神の実体的な(körperlichen)区分との中心であるからであり、中心とはこのようにして、両者の本性とそれゆえ後者の側面によって、また、存在している区分を、再び、自らに持たねばならないからである。
精神的有機的な存在は、同時に、安らい存在している定在の、必然的な側面を持っている。前者は、それだけの存在の極として、後方に退かねばならず、後者を他の極として、向かい合わせにもたねばないない。他の極は、このようにして、対象であり、この対象に、前者は原因として働きかける。
いまやもし、脳髄と脊髄が、精神のかの実体的な(körperliche)それだけの存在とすれば、頭蓋と脊柱はさらに、他の分離された極、すなわち、確固とした安定したもの(das feste ruhende Ding)である。
-もし精神が、精神の定在の本来の場所で思考するなら、誰もの念頭には、背中ではなく、頭だけが浮かぶから、当面している知の研究において、我々は、このような-そうするに粗末過ぎない-定在を頭蓋に限定するための理由、に十分満足できる。
もし、誰かにとって、時折り確かにまた、背中を介して、知と振舞いが、一部は引き入れられ、一部は引き出されるという点で、背中が思い浮かぶことがあるとしても、そのことは、脊髄が、精神がある場所にともに受け入れられねばならず、そして、 脊柱(seine Säule)は、相対する定在に、受け入れられねばならないだろうことに対して、あまりに多くを証明するだろうからこそ、何の証拠にもならないないだろう(nichts beweisen…würde)。なぜなら、精神の活動を目覚めさせ、抑制するために、精神の活動をうまく処理する、他の外的な経路が望まれていることを、人は同様に思い出すからである。
-脊柱(die Rückenwirbelsäule)はそれゆえ、人が望めば、当然、脱落する。そして、多くの他の自然哲学の教説同様、確かに、頭蓋(der Schädel)だけが、精神の器官(die Organe des Geistes)を入れている訳ではなかろうと、作為的に作り上げられている(konstruiert…ist)。
すなわち(denn)、このこと(dies)は、先程、このような関係の概念から、締め出されている。それだから、頭蓋は、定在の側面に受け入れられているからである。もしくは、もし、ことがらの概念が想起されてはならないと言うなら、器官(Organe)としての眼によって見られるようには、頭蓋によって、殺され、盗まれ、でっち上げられる(gedichtet…wird)、その他、ではないと経験が教えている。
-それゆえまた、それに関してさらに語られるべき、頭蓋の意味に対して、器官(Organ)という表現は自制すべきである。
ーというのも、人は、理性的な人々にとっては、言葉ではなく、事柄が大事だと常に口にするにも関わらず、しかし、そこから先、事柄をそれに属さない言葉によって表すことの、許可を受け取るべきでないとするからである。すなわち、これは、不器用であると同時に、ただ正しい言葉を持っていないと思念し、口実にする誤魔化しである。そして、そこには実のところ事柄が、すなわち、概念が欠けていることが、隠れている。もし概念が存在するなら、概念はまた、自らの正しい言葉を持つであろう。
-さしあたり、ここではただ、脳髄が生き生きした頭であるにのに、頭蓋は無価値なものであるとだけ、定まっている。
このような死んだ存在のなかで、それゆえ、精神的な種々の運動と脳髄の明確な諸々のあり方は、個人そのものにあって、なおしかし存在している外的現実の、自らの表現(ihre Darstellung)を、自らに与えねばならないだろう。
精神的な運動と脳髄の明確なあり方が、死んだ存在として、自ら自身において内在的に精神を持ってはいない存在に、関係することを目指して、さしあたり、上に定められたもの、外的な機械的なものが、展開する。その結果、本来の諸臓器(die eigentlichen Organe)は -そして、これらは脳髄にあって存在しているが- 死んだ存在を、こちらでは、まろやかに表現し、あちらでは、うち広げ、もしくは、平らに押し伸ばす、もしくは、人が、さらに、このような影響を表現したがるのと同じようにする。
有機体の部分とはいえ、確かに死んだ存在においてではあるが、すべての骨における様に、生き生きとした自己形成は、考察されねばならない。その結果、これにしたがって考えてみれば、死んだ存在は、彼の側から、むしろ、脳髄を圧迫する、そして、脳髄の外的な制限を設定する。そのために、彼はまた、より硬質なものとして、むしろ、力を持っている。
しかし、その際、いまだに、同じ関係が、両者双方の活動性の規定の中に、留まったままであろう。なぜなら、頭蓋が決定するものであるか、決定されるものであるのかは、そもそも、因果関係にあって、頭蓋がその時、自己意識の直接の器官に変えられるだろうこと以外、何も変更しないだろうからである。というのも、原因としての彼のなかに、それだけの存在の側面があるだろうからである。
しかしながら、両者における有機的な生き生きしたものとしてのそれだけの存在が、同じあり方に属するから、実際には、両者の間の因果関係は、脱落する。
このような両者のさらなる形成(Fortbildung)はしかし、内的なものにおいて、関連しているだろうし、両者の離れ離れに関連している側面を、お互いに自由にし、各々にその固有の形態を委ねるが、その形態に、他方の側面の形態は、適合する必要はない、そのような有機的な予定調和であるだろう。さらには形態と質相互の予定調和であるだろう。-干しぶどうの形とワインの味が、互いに束縛されないような-
- しかし、脳髄の側面にそれだけの存在の規定が、頭蓋の側面に定在の規定が、属していることによって、有機的な単一性の内部でまた、その因果関係が措定されねばならない。相互に外的なものとしての、有機的な単一性の必然的な関連、つまり、それを介して、有機的な単一性の形態が互いに入り乱れて規定されるような外的な関連である。
しかし、自己意識の器官が、対峙している側面へ実際に作用している原因は、そこにあるだろう規定を、考慮すると、さまざまにあれやこれやが語られる得る。なぜなら、原因の性質が、問題になっているが、その性質は、対峙している側面の無関心な定在、形態と大きさにしたがって考察され、原因の内的なものとそれだけの存在は、直接の定在とは何の関わり合いもない、まさにそのようなものであるべき原因の性質が、問題になっているからである。
頭蓋の有機的な自己形成は、さしあたり、機械的な作用に対して無関心である。そしてこのような両者の関係(Verhältnisse)
の関係は、前者が、自らが自ら自身へ関連付けることであるから、まさに、このような非規定性、限りなさそのものである。
そこでもしまた、脳髄が、存在している諸々の違いへの精神の諸々の違いを、自らに受け入れ、異なった空間を占めている内的な諸器官の多数であるならば、-概念の諸要因に固有の定在を与え、そして、それゆえ、有機的な生命の流動的単純性を、純粋に一方の側面に据え、有機的な生命の分節と区分(die Artikulation und Einteilung)を同様に、その差異において、他の側面に据える。その結果、両者は、ここで把握されるべきままに、解剖学的なものとして姿を現す、その本性に矛盾するものであるが-、精神的な要因が、それが本来、より強いかより弱いか次第で、そちらの場合は、より拡大する脳髄器官を、こちらの場合は、より縮小する脳髄器官を、持たねばならないだろう、もしくは、またその逆であるかは、不確かであるだろう。
-同様に、精神的な要因の育成(seine Ausbildung)が器官を拡大したか、縮小したか、精神的な要因(es)が、器官を不恰好に太らせたか、より洗練させたか、は不確かであるだろう。
如何にして原因が調達されているのかが、不確かなままであることを介して、如何にして頭蓋への作用が生じるのか、作用は拡大であるか、もしくは、縮小であり崩壊にまかせるられるのかは、同様に、不確かにされたままである。
このような作用が、刺激すること(ein Erregen)として、なにか洗練されたものだ とされても、ハンミョウの絆創膏のやり方で膨らんでいるのか、酢のやり方で縮んでいるのかは、不明のままである。
-あらゆるそのような見解に対して、もっともらしい理由が持ち出されるままになっている。それというのも、同じ程度に干渉する、有機的な関連は、一方を他方と同様に許容し、そして、このような悟性のすべてに対して、無関心だからである。
観察する意識にとって、このような関連を結論づけようとすることは、しかし、問題にならない。
なぜなら、観察する意識は、いずれにしろ、動物的な部分として一方の側面に立つ脳髄ではなく、自覚している個性の存在として一方の側面に立つ、脳髄だからである。
-自覚している個性は、たじろかない性格と自ら運動し意識する振舞いとして、それだけで自身においてある。このようなそれだけで自身においてあるものには(diesem Für- und Insichsein)、自覚している個性の(ihre)現実と他者に対する定在が対置している。それだけで自身においてあるものは、本質であり主体(das Wesen und Subjekt)であり、脳髄にあって、存在を持っている。存在は、脳髄の下に(unter es)包摂され、自らの価値をただ内在している意味合いを介してのみ受け取っている。
自覚する個性の他の側面はしかし、すなわち、その定在の側面は、自立したものとしての存在であり主体であり、もしくは、物として(als ein Ding)、つまり、骨である。人の現実と定在は、その頭蓋骨である。
- 以上のことが、関係であり意味(Verstand)であるが、この意味を、このような関連の両側面は、関連を(sie)観察している意識のなかに、持っている。
頭蓋骨にとって、いまや、このような両側面のより明確な関連が問題となる。頭蓋骨はなるほど一般的には、精神の直接の現実であると言う意味合いを持っている。
しかし、精神の多面性は、頭蓋骨の定在にまさにそのような多義性を与える。獲得されるべきものは、そのなかへ、この定在が分割されている、個別の個所の意味合いの規定性である。そして、個別の個所が、意味合いへの指摘を自身において、如何ように持っているのかが、見られねばならない。
頭蓋骨は活動性の器官ではない。そしてまた、表現豊かな運動ではない。頭蓋骨によって、盗まれ、殺されその他、されることはないし、その諸行為に際して、少しも表情を変えない、その結果、表現豊かな仕草にはならないだろう。
-さらにまた、このような存在するものは、標識の価値も持っていいない。表情、仕草、響き、また、一本の柱、つまり、荒廃した孤島に打ち込まれている杭、これらは、それが直接ただ存在しているものとは、まだなにか別のものが、それと同時に意味されていることを、即座に予告している。
これらが、それ自身において、一つの規定性を持っているが、その規定性が、本来これらに属していないことにより、なにか別のものを指示するから、これらは直ちに、自ら自身、標識であると主張する。
人はまた確かに、頭蓋の傍らで、ヨリックの傍らのハムレットのように、多種多様に思い浮かべることができる。しかし、頭蓋骨そのものは、そのように無関心でこだわりのない物(Ding)であるから、頭蓋骨にあって、頭蓋骨そのもの以外のなにかが、見られ、考えられるべきではな
い。頭蓋骨はなるほど、脳髄とその規定性を、つまり、他の形成物で出来た頭蓋を思わせる。しかし、頭蓋骨は、表情や仕草、また、自覚した振舞いに由来する兆しがあるだろう何かを、その表面に貼り付けなかったから、意識する運動を思わせることはない。なぜなら、頭蓋骨は個性にあって、もはや自らに逆戻りする存在ではなく、純粋に直接的な存在であるだろう他の側面を描写する現実だからである。
頭蓋骨はさらにまた、自身で感じることがないから、頭蓋骨にとってのより明確な意味合いは、おおよそさらに、明確な諸感覚が、頭蓋骨を意図しているだろうものを、近隣を介して見きわめさせるだろう、そのようにして生じ得るように見える。そして、精神の自覚したあり方が、頭蓋骨の特定の個所の近傍で、その個所の感触(ihr Gefühl)を持つことで、頭蓋骨の形態において、おおよそこのような場所が、その個所の感触と感触の独自性(sie und ihr Besonderheit)をほのめかすだろう。
例えば多くの人が、極度に緊張した思考に際して、もしくはまた、思考全般に際してさえも、何処か頭のなかに、辛い緊張を感じると訴えるように、盗み、殺人、詩作、その他もまた、各々が固有の感覚に伴われているかもしれず、その上なお、固有の感覚は、その特別な個所を持たねばならないだろう。
このようなやり方で、より動かされ、操作されているだろう、脳髄のこのような場所は、おそらくまた、骨の隣接個所をより形成するだろう。もしくは、このような骨の隣接個所は、共感もしくは同意によって不活発にはならないだろう。そうではなく、より増加する、もしくは、より減少する、つまり、いずれにしろ、形作られるだろう。
-しかし、このような仮説を、ありそうもないものにしているのは、以下のことである。そもそも感情が漠然としたものであり、そして、感情は中枢としての頭のなかで、すべての苦悩の普遍的な共感であろうとしており、その結果、盗人、人殺し、詩人の頭の疼き、もしくは痛みと、残りの感情が混ざり合い、そして、それらは、お互いに、また、人が単に身体的と呼び得るものから、区別され得ないだろうし、同様に、我々がその意味合いを身体的なものに限定するなら、頭痛の症状から、病気は診断され得ない、ことである。
事柄が、どちらの側面から考察されても、実のところ、あらゆる必然的な相互の関連と、その、それ自身を介した意味深長なそれらしき暗示は崩れ落ちる。
もし、それでも関連はやはり起こるべきであるとするなら、両側面の対応している規定の、概念を欠いた自由な予定調和、が必然的に残っている。というのも、側面の一方は、概念を欠いた現実、単なる物であるべきだからである。
-したがって、まさに、一方の側面に、安定した頭蓋個所の多数が、他の側面に、精神的性質の多数が立っているが、その多数性と規定は心理学の状態に左右されている。
精神についての表象が、惨めであるならあるほど、この側面に関して、事柄はより容易になる。というのも、一方で性質は数を減らし、一方でバラバラのものになり、より確実に、より骨っぽくなる。こうして、骨の規定に、より似ていき、それと比較し易くなる。
しかしながら、精神についての表象のみすぼらしさを介して、多くのことが容易にされているにもかかわらず、依然として、両側面には非常に多くのことが残っている。観察に対して、両側面の関連の完全な偶然性が残っている。
もし、イスラエルの子らに関して、彼らがそれにかなうべき海の砂から、めいめいが、その砂粒のしるしがおのれである砂粒を、選び取るべきであったとするなら、各々に彼の砂粒を配分した、このような無頓着さと気ままさの程度は、各々の心の能力、情熱に、そして、ここで同様に考察されねばならないことであるが、より精緻な心理学と人情を解する能力が、いつも話題にしている、性格の微差に、その頭蓋の個所と骨の形を割り当てる、その無頓着さと気ままさに、匹敵する強さである。
-殺人者の頭蓋は、このような-器官ではなく、標識でもない、そうではなく、このようなコブを持っている。しかし、このような殺人者はさらに、沢山の他の性質、そして、他のコブ、コブに伴う窪みを持っている。人はコブと窪みのもとで選択する。
そして、再び、殺人者の殺人感覚は、如何なるコブもしくは窪みとも関連づけられるし、そしてこちらも同様に、コブもしくは窪みは、如何なる性質とも関連づけられる。というのも、殺人者は、ただ、ある殺人者のこのような抽象概念(Abstracktum)ではないし、ただ、ある隆起とある窪みのみを持っている訳ではないからである。
これについて成される観察は、それゆえまさにまた、縁日での商人の雨、洗濯での主婦の雨、と同様に聞こえるに違いない。
商人と主婦は、隣人が通り過ぎるといつも雨、ローストポークが食べられるといつも雨、という観察もまた可能であろう。
このような事態に対しての雨と同様に、観察にとって、頭蓋のこのように明確な存在に対する、精神のこのような規定性は、どうでもいいことである。
というのも、このような観察の両方の対象に関して、一方は乾いたそれだけの存在、つまり、精神の骨張った性質であり、そして、他方は乾いたそのままの存在である。そのように骨張ったもの(ein so knöchernes Ding)は、両者ともそうであるが、まったくのところ他のものすべてに対しても無関心である。高いコブにとって、その付近に殺人者がいるか、殺人者にとって身近が平坦であるか、は同じ様にどうでもいいことだからである。
もちろん、なにかしらある性質、熱情その他と、コブが、どこかしらの場所で結びついているかもしれない、という可能性は、克服し難く残っている。
人は、ある高いコブをともなった殺人者を、こちらに、このような頭蓋の場所に、思い浮かべ、あるコブをともなった盗賊を、そちらに思い浮かべることができる。
このような側面から、頭蓋学はさらにより大きな拡大が可能である。というのも、頭蓋学はさしあたりただ、同一の個人において、ひとつのコブとひとつの性質を結びつけること、に自らを限定しているように見えるからである。結果、同一の個人が限定された両者を所有することになるが。
しかしながら、自然的頭蓋学はすでに、-なぜなら、自然的骨相学が存在するのと同様に、自然的頭蓋学が存在せねばならないから、-このような遮断棒を超えている。自然的頭蓋学は、ずる賢い人間が、耳の後ろに拳大のコブを持つと、判断するだけではない。不実の妻自身がではなく、夫婦のもう片方の個人が、額にコブを持っているとも想像する。
-同様に、人はひとつ屋根の下に殺人者とともに住む人間を、もしくは、隣人、さらには、彼の同胞その他を、頭蓋部分のどこかの高いコブコブと共に思い浮かべることができる。はじめに、盧馬に跨っていた蟹に愛撫され、跳ね飛ぶ雌牛は、それから、等々と同じように。
-しかしもし、可能性が、表象の可能性という意味においてでなく、内的な可能性、もしくは、概念の可能性の意味合いにおいて、受け取られるなら、対象は現実ではあるが、その現実とは、純粋な物(reines Dind)であり、表象の意味あいを欠いたもの(ohne dergleichen Bedeutung)であり、それゆえ、現実は可能性をただ表象においてのみ、持ち得るものである。
しかし、両側面の無関心さにかかわらず、観察者が、一方で外的なものは内的なものの表現であるという、普遍的な理性的根拠を介して、やる気を保持し、他方で、動物の頭蓋に関する分析に支えられて、関連を規定する仕事に向かって行くと、-動物は確かに人間より(als die Menschen)単純な性格を持っているかもしれないが、動物に関しては(von denen)、動物(sie)が如何なる性質を持っているかは、しかし、さらにそれだけより表現しづらくなるだろう。動物の本性へと正確に自己形成することは、ひとりひとりの人間の表象にとって、そう容易いことではないのだから。-観察者は、彼が発見したと言い張っている定律を、断言するに際して、ここで必然的にまた我々の念頭に浮かばざるを得ない違いにあって(an einem Unterschiede)、有力な援助を見出す。
-精神の存在は、少なくとも、なにかまったく動かない動かせないものとして、受け取られ得るのではない。
人は自由である。本来の存在は、ただ諸々の資質であり、人は、その資質に大きな影響力を持っている。もしくは、その資質は、発展のために、より良い境遇を必要としている。言い換えると、精神の本来の存在は、まさに、存在として存在しない(nicht als Sein existiert)、そのようなものとして表現されねばならない。
ある人の念頭に、定律として保証しようと思い浮かぶもの、に対して、観察することが矛盾すると、すなわち、縁日と洗濯に際して、晴天であると、商人と主婦は、本来、雨であるべきであり、そのように性向は存在している、と主張することが可能であろう。同様に、頭蓋観察は-このような個人は、頭蓋が定律にしたがって、供述している様に、存在すべきであろう。そして、育成されてしまっていない本来の資質を、持っているであろう。このような資質は存在しない。しかし、存在すべきである。と主張することが可能であろう。
定律とあるべき姿は、現実の雨、そして、頭蓋のこのような規定性に際して現実の気質の(des wirklichen Sinnes)観察に基づいている。しかし、現実が存在しないと、空虚な可能性が、可能性と看做される。
このような可能性、言い換えると、作成された定律の非現実と、それゆえ、定律に矛盾している観察は、まさに、以下のことを介して、入り込んでくるに違いない。すなわち、個人の自由と展開している事態が、そもそも存在に対して、無関心である、と同様に、本来の内的なものとしての、また、外的な骨でできたものとしての存在に対して無関心であること、そして、個人がまた、個人が内的にもともとあるものと、さらには、骨としてあるものと、何か別のものであり得ること、である。
それゆえ我々は、頭蓋のこのようなコブもしくは窪みが、何か現実的なものであり、また、同様にただ資質にすぎず、厳密にいえば、何かあるものに対し漠然としており、すなわち、頭蓋のこのようなコブもしくは窪みが、なにか現実的でないものを示しているという可能性を、持つことになる。我々はこのできの悪い言い逃れが、いつも通り、言い逃れが助け出すべきものに反して、使用されさえしている状態であるのを見る。
我々は、思念(das Meinen)が、事柄の本性を介して、思念が固執しているものに対立するものを、軽率にも、主張しさえすることに、変えられているのを見る。-つまり、このような骨を介して、なにか或るものが、暗示されるが、しかし、同様にまた、暗示されてもいないと、主張することに変えられているのを見る。
このような言い逃れに際して、考えそのものの(der Meinung selbst)念頭に浮かんでいるものは、このような言い逃れ(sie)をそのまま撲滅している、真の思想、そのようなものとしての存在(das Sein als solches)は、そもそも、精神の真理ではないという、思想である。
【資質が、すでに、精神の活動にあって、如何なる関与も持たない、本来の存在であるように、まさにその様な本来の存在が、その側面においてまた、骨である。】
精神的活動を欠いて存在するもの(das Seiende)は意識にとって物(ein Ding für das Bewusstsein)であり、そして、それは、そんなにも、意識の本質を欠いているから、そのような存在(es)は、むしろ、意識に対立するものであり、そして意識は、そのような存在の撲滅と否定を介してのみ、現実的に存在する。
-このような側面から、骨を意識の現実的定在だと言うことは(auszugeben)、理性の完全な否定と見做され(anzusehen)ねばならない。そして、骨は精神の外的なものとして考察されるから、骨は意識の現実的な定在と言われる。というのも、外的なものは、まさに、存在する現実だからである。
このような外的なものからは、まったく別のものであろう内的なもののみが、推し量られるだろう。つまり、外的なものは内的なものそのものではなく、ただ内的なものの表現であろうと、主張しても無駄である。
なぜなら、両者相対するこのような関係においては、自ら思考し思考される(sich denkenden und gedachten)現実の規定は、内的な側面に、存在している現実の規定はしかし、外的な側面に、まさしく属しているからである。
- それゆえもし、ある人が、君(君の内的なもの)は、これだ。なぜなら、君の骨はそのような性状だからだ。と言われたら、それは、私は、骨を君の現実と見做す、と言われることと変わらない。
骨相学のところで叙述された、そのような判定にビンタで返答することは、さしあたり、穏やかな部分をその名声と立場から追いだし、それが、真にそのままの存在、精神の現実ではないことだけを、証明する。-ここでの返答は、骨は人にとって、決してそのままの存在ではなく(nichts Ansich)、まして、人の真の現実ではないことを、判定する者の叡智と同じように、まさしく、はっきりと証明するために、本来ならば、そのように判定する者の、脳天をぶち割ることにまで、行くに違いない。-
自覚する理性の生の本能は、そのような頭蓋学を、突然はねつけるだろう。-はねつけられる、自覚する理性のこのような観察している別の本能は、認識することの予感へと成長していた、つまり、外的なものは内的なものの表現であるということを、内容のないやり方で掴んでいた。
しかし、思想がより粗末であればそれだけ、そのなかに明らかに思想の堕落があるものは、より人目を引かない。そして思想と堕落が離れてあることが、より難しい。
というのも、思想とは粗末であればそれだけ、より純粋に空虚に抽象的なものであり、それが思想にとって本質と見做されるからである。
ここで問題になっている対立は、その構成要素に自らを(ihrer)自覚した個性と、すっかり物になってしまった外面性の抽象を持っている。-精神のかの内的な存在は、確固とした精神を欠いた存在として理解され、まさにそのような存在に対置されている。-
それとともに、しかしまた、観察している理性は、自らの先端に達したように見える。観察している理性は、そこから離れ、反転しなければならない。というのも、本当にひどいものは、自らを逆転させる、直接の必要性をそれ自身において、はじめて持つからである。
ユダヤの民に関して「その民族は、まさしく、幸運の扉のすぐ前に立っているからこそ、最も忌わしいものであり、最も忌わしいものであった。」と言われる得るように、最も忌わしいもの(es)は、それ(es)がそのままそれだけで存在すべきだろうもの、このような自己本質性ではない。そうではなく、このような自己本質性を、彼の彼岸に移す。最も忌わしいもの(es)は、このような放棄を介して、より高次な定在を可能にする。もし最も忌まわしいもの(es)が、存在の直接性の内部にとどまっているかのように、彼の対象を再び自らに取り戻すことができるなら。なぜなら、精神はより大きければそれだけ、より大きな対立から自らに帰還するのだから。精神はしかし、その直接的な単一性の廃棄と、そのそれだけの存在の放棄のなかで、このような対立に、取りかかる。
しかし、もしそのような意識が、逆戻りしなければ、意識がそこに立っている中心は、不幸な空虚である。中心を充すだろうものが、固着した極になっているから。
観察している理性のこのような最終的な段階は、その最悪の段階である。しかしそれゆえ、観察している理性の反転は、不可避である。
というのも、観察することの、内容と対象を形成している関係の、これまで観察された連なりの概要が、その最初のあり方において、つまり、非有機的自然の関係の観察において、観察にとってすぐに、感性的存在が消えてしまうことを、示しており、非有機的自然の関係の要因が、自らを純粋抽象として、また、単純な概念として、叙述し、それらは、物の定在にしっかりと結びつけられているべきであろうが、定在は失われてしまい、結果、要因は自らが純粋運動であり、普遍的なものであることを証明するからである。
このような自由な自らにあって完結する過程は、具体的なものという意味合いを保持している。(このような過程は)しかし今、唯一の存在(ein Eins)として登場する。非有機的なものの過程において、その唯一の存在(das Eins)は存在していない内的なもの(das nicht existierende Innere)である。しかし、唯一のものとして存在していると(als Eins aber existierend)、このような自由な自らにあって完結する過程(er)は有機的なものである。
- 唯一の存在(das Eins)は、それだけの存在、もしくは、否定的本質として普遍的なものに対置し、普遍的なものから身をひき、自由にそれだけのままである。その結果、概念は、絶対的な個別化の要素においてのみ、現実化する、すなわち、有機的な存在(Existenz)のなかで、自らの真の表現を、そこにある普遍的なものとして(als Allgemeines da zu sein)、見出さず、ひとつの外的なもの(ein Äußeres)もしくは、同じことであるが、有機的な自然のひとつの内的なもの(ein Inneres)のままである。
-有機的な過程はただそのまま自由に存在している、それはしかし、それだけ自身で存在するわけではない。目的のなかで、有機的な過程の自由の(seiner Freiheit)それだけの存在が入り込み、有機的な過程の外に【außer jenem】ある、それ自身を自覚した叡智(eine ihrer selbst bewusste Weisheit)とは別の本質として存在する(existiert)。
観察している理性はこのような叡智に【an diese】、精神に、すなわち、普遍性として存在している概念、もしくは、目的として存在している目的に、向きを変える、そして、理性の固有の本質が、いまや、理性にとって対象である。
観察している理性は、さしあたり、対象の純粋さに向く。しかし、観察している理性は、自らの区別のなかで運動している対象を存在しているものとして把握するから、観察している理性には、思考の定律が、不変なものの不変なものへの関連が、与えられる。しかし、このような定律の内容は、ただ要因であるから、定律は自己意識の唯一の存在へと(in das Eins des Selbstbewusstseins)混じり入る(verlaufen…sich)。
-このような新たな対象は、同時に存在するものとして、受け取られ、それは、個別の偶然な自己意識である。観察はそれゆえ、考えられた(gemeinten)精神の内部に立ち、そして、自覚的な現実から自覚的ではない現実への偶然な関係の内部に立つ。
このような対象は、そのままそれ自身では、ただ、このような関連の必然性である。観察はそれゆえ、より詳しく対象に迫る。そして、意図し(wollende)、振舞っている(tuende)対象の現実と、それ自身が具体的な、自らへ逆戻りし観察している、対象の現実とを比較する。
このような外的なものは(dieses Äußere)個人が自ら自身に持っている、個人の表現法(eine Sprache des Individuums)であるにもかかわらず、同時に標識として、個人が示すべきであろう内容に対して、なにか無関心なものであり、同様に、自らに標識を措定するものは、標識に対して無関心である。
このような不安定な言葉遣いから(von dieser wandelbaren Sprache)それゆえ観察は最終的に確固とした存在へと戻る。そして自らの概念にしたがって、外面的なこと(die Äußerlichkeit)は、器官としてでなく、また、言葉と標識としてでなく、死んだ物(totes Ding)として、精神の外的直接的な現実であると、表現する。
すなわち、物としての概念(der Begriff als Ding)が現存すべきだろうという、非有機的な自然のいちばん最初の観察によって、破棄されたものは、観察が、精神そのものの現実を、物にする(zu einem Dinge macht)、もしくは、逆に表現されれば、死んだ存在に、精神の意味合いを与えるというように、このような最終的なやり方を、復元する。
- それゆえ観察は、詳しくいえば、理性の確信が、具体的な現実としての自ら自身を探しているという、理性に関しての我々の概念であったものを、表現することに行き着いている。
人はその際まさしく、頭蓋によって表象される精神が、物として(als Ding)表現されると、考えている(meint)わけではない。このような考えのなかに、言われるところの唯物論が、あるべきではない。そうではなく、精神はむしろこのような骨とは別の何かとして存在している。しかしながら、精神が存在している(er ist)ということは、精神がひとつの物である(er ist ein Ding)ということ以外を意味しない。
もし、そのようなものとしての存在(das Sein als solches)が、もしくは、精神に関する物存在(Dingsein)が、論述されるなら、それゆえ、これについて、精神は骨のようなものだ(ein solches wie ein Knochen)という、本当の表現が存在している。
精神に関して純粋に表現されること、つまり、精神が存在するという、真の表現が自らを見出したことはそれゆえ、極めて重要と見做されねばならない。
もしさらにまた、精神に関して、精神が存在する、存在を持っている、物である(ist ein Ding)、個別の現実であると言われる場合、それによって、人が、見ること、手にとること、突きはなつことなど出来る、なにかあるものと、考えられているわけではないが、しかし、そのように言われるし、そして、実際に言い表せられているのは、結局、精神の存在は骨であるのように述べられる。
結果はいま、二重の意味合いを持っている。一つには、自己意識の先行する運動の結果を補完する限りでの、その真の意味合いである。
不幸な自己意識は、自らの自主性を手放した。そして、自らのそれだけの存在を引き出し(heraus…rang)、物にした。
不幸な自己意識はそれを介して、自己意識から、意識へ逆戻りする。言い換えると、それにとっては、対象が存在である、物である意識へ逆戻りする。-しかし、物であるこれは、自己意識である。それゆえ、それは、自分自身(Ich)と存在の単一性であり、カテゴリーである。
意識に対して対象はそう規定されているから、意識は理性を持つ。
意識および自己意識はそのまま本来、理性である。しかしただ、【意識にとって、対象が自らをカテゴリーとして規定した、その意識に関してのみ、意識が理性を持っていると、言われ得る。】ここから、しかし、なにが理性か、という知は、いまだ区別された状態にある。
-存在とその所有物の(des Sein und des Seinen)直接の単一性であるカテゴリーは、二つの形式を走り抜けねばならない。そして、観察する意識とは、その眼前に、カテゴリーが、存在の形式において現れるところの意識である。
観察する意識の結果において、その無意識の確信が存在しているものを、意識は定理として(als Satz)表現する。-理性の概念にとどまっている定理を表現する。
定理は、自己がものである(das Selbst ein Ding ist)という、無限の判断である。-自ら自身を破棄する判断である。
-このような結果を介して、判断がこのような自らを破棄している対立であることが、それゆえ確かにカテゴリーになった。
存在の形式もしくは意識に対する直接性の形式のなかにある、純粋なカテゴリーは、いまだ出し抜けの(unvermittelte) 、ただ、現存する対象である。そして意識は同様に出し抜けの関係である。
かの無限の判断の要因は、直接性が、仲裁もしくは否定性へと移行することである。
存在している対象はそれゆえ、否定的な対象として定められている。意識はしかし、自己意識として対象に対している。もしくは、観察のなかで、存在の形式を走り抜けたカテゴリーは、いまや、それだけの存在の形式に措定されている。意識は、もはや直接、自らを見出そうとはしない。そうではなく、自らの活動を介して自ら自身を生み出す。
意識そのものは、自らの振舞いの目的である。観察において意識にとっては、物(die Dinge)だけが問題であった様に。
結果の他の意味合いは、概念を欠いた観察の、すでに考察された意味合いである。
骨(er)が自らを、意識にとって、自らの具体性を、同時に失うことのない、感性的なものとして(als sinnliches Ding)、見出すままに、この観察は、無邪気にも骨を自己意識の現実に向けて、言い表わすこと以外に、理解し表現する術を知らない。
観察はしかしまた、自らがこのことを表現する以上に、意識の明晰さを持たないし、彼の定理を、その主語と述語の、両者の関連の規定性において把握しないし、さらに、自らを分解している、際限のない判断と概念の意味(in dem Sinne)において把握しない。
-観察はむしろ、精神の、ここでは自然な誠実さとして現れ、より深く存在している(tiefer liegenden)自己意識のせいで(aus)、骨を自己意識の現実として受け取っている思想の、概念を欠いた剥き出しの思想の、破廉恥さを隠蔽し、そして、原因と結果、標識、器官、などなど、ここでは何の意味も持たないものの、さまざまな関係をごた混ぜにしている無思慮さそのものを介して、そして、定理のけばけばしさ(das Grelle)を隠蔽している、さまざまな関係から取ってこられた区別づけを介して、骨のうわべを飾っている。
脳繊維等が、精神の存在として考察されると、それらは、すでにもう、考えられた、ただ仮定の現実であり- 定在しておらず、感じられ、見られることもなく、真の現実ではない。もし、それらが定在し、見られるなら、それらは、死んだ対象であり、かくして、もはや、精神の存在に当てはまらない。
しかし、本来の具体性は、直接的で、感性的な現実であらねばならない。その結果、精神は、このような具体性のなかで、死んだものとして - というのも、死は、生きているものにある限りでは、無生物であるから、- 現実的なものとして、措定される。
- このような表象の概念は、理性があらゆる限りの物性(alle Dingheit)そのもの、純粋に具体的な物性である、ということである。理性がしかし、このこと(dies)であるのは、概念においてである。もしくは、概念だけが理性の真理である。そして、概念そのものがより純粋になればそれだけ、概念はより子供っぽい表象へと堕落する。もし概念の内容が、概念としてでなく、表象としてあるなら、- もし、自ら自身を破棄している判断が、このような判断の無限性の意識と共に受け取られず、そうではなく、とどまったままの定理として、そして、その主語と述語が、おのおのそれだけで通用し、自身としての自身、ものとしてのものが固定化され、それにもかかわらず、一方が他方であるべきであるならば。
- 本来概念である理性は、自らにあって、自身と対立者が仲違えしている。対立であるが、対立は、それゆえまさに破棄されている。
しかし、そのように自ら自身として、また自らの対立者として立ち現れて、そして、このような別々に歩みでるものが、まったく個別の要因において、しっかりと保持されると、理性は非理性的に把握される。別々に歩み出るものの要因が、純粋であればそれだけ、唯一意識に対して存在しているか、それとも、意識によってもっぱら無邪気に表現されるかの、このような内容の表れは、より無作法になる。
精神が内部から、しかしただその表象している意識のなかへと駆り立て、意識をそのなかに止めておく、奥深さと、その奥深さが何なのか、自らが何を表現しているのかに関する意識の無知は、高次なものと低位なものの結びつきであり、すなわち、生命あるものにおいて、自然が、命のもっとも完璧な器官、つまり、生殖の器官と- 排尿の器官の結びつきにおいて、素朴に表現しているのと同じ、結びつきである。
無限なものとしての無限の判断は、自ら自身をしっかりと把握している生命の完璧さであろう。しかし、表象のなかにとどまっている生命の意識は、あたかも排尿状態である。