荒野の声 NO.84


オバマとノーベル平和賞

 何だかお笑いのステージを見ているような気がする。オバマに平和賞を授けるノーベル委員会の意図は何なのか。大体、「核なき世界」なんて真面目に考えているとしたら、オバマの脳味噌は動いているのだろうか。幼稚な演説ほど大衆受けがするものだ。私にはオバマが何かの意図があって、出来もしないことを煽っているのか、さもなければ、全くのイノセントセイントなのか、どちらか分からない。世界平和を望み、理想を掲げる指導者の到来を切望する世界の民衆の気持ちは分かるのだが、そんな童話のような世界は、当分訪れはしない。
 私には、むしろこれでオバマ暗殺の舞台が整ったとしか思えない。華々しい夢のミュージカルの舞台から、奈落の底へ世界の民衆は突き落とされるだろう。

メリークリスマスはもう言えない

アメリカに行った友人がこんなメールを送ってきた。
ワシントン州の話です。メリークリスマスではなく、ハッピーホリディと言わないといけないそうです。変な話しですね。先生の仰っておられるようにアメリカは大変な事になってきているのですね。
これ以前に電話で話したことの続きなのだが、クリスマスツリーもメリークリスマスも言えないという。どういうことかと自分でも調べてみると、法規制されているというのではなく、言えない雰囲気が醸成されているということらしい。

メリークリスマスinシカゴ

[アメリカの話題]
シカゴでも気分はいよいよクリスマス。学校も職場もそろそろ休暇に入り、毎晩ダウンタウンは人と車であふれ、うちの周りの閑静な住宅街でもクリスマスの飾り付けが最高潮です。
ダウンタウンのきれいで華やかな感じはシカゴもNYも東京もさほど変わらないと思うのですが、住宅街は差があるんじゃないでしょうかね。うちの周りは熱心ですよ。子供のいる家なんかは、イルミネーションに命かけてますね。でもシカゴの中流階級のエリアってことで全然センスはよくない(^^;)。飾り付けもコテコテ。サンタクロースがお尻を振っているものや、ワケの分からない渦巻きが沢山飛んでいるものなど、散歩していて楽しくなります。
 さて、アメリカにおけるクリスマスですが、移民国家ってことで、なかなか独特で興味深いです。クリスマスはクリスチャンのもの。で、アメリカでもクリスチャンが大多数なので国中クリスマスムードになることはなるのですが、ユダヤ人をはじめとする非クリスチャンの人たちのプレゼンスっていうのも無視できない国ですよね。他の宗教への社会における意識というのは日本なんかとは比べものにならないぐらい強いです。こんなニュースがありました。

空港にXマスツリーだめ? 「宗教上の理由」で一時撤去

2006年12月13日11時13分

 米ワシントン州のシアトル・タコマ国際空港が「宗教上の理由」から空港内のクリスマスツリーを一時撤去し、ツリー設置の是非をめぐる論争が再燃している。
 シアトル・タイムズ紙などによると、ユダヤ教指導者が、ツリーと一緒にユダヤ教の燭台を置かなければ法的措置を取ると警告。これを受けて空港当局は9日、宗教の多様性に配慮し、16本のツリーをすべて撤去した。空港当局にはツリー復活を求める電子メールが殺到。一方でキリスト教の伝統行事に由来するツリーを公共の場に設置するのは「政教分離の原則に反する」との批判も以前からくすぶり、論争となった。ただ、ツリー撤去が大きく報じられると、ユダヤ教指導者は「提訴しない」と譲歩、空港当局は11日、再びツリーの飾り付けを始めた。(時事)
ま、このニュースはかなり極端なケースですが、クリスチャンを前提にしてしまうのは「ポリティカリーコレクトではない(社会倫理的に正しくない、くらいの意味)」ということは多くのアメリカ人が気にしています。例えば、クリスマスカード。日本の年賀状のようなもので、みんな熱心に送りあってます。で、相手がクリスチャンなら、「ハッピークリスマス」カードを送れるのですが、相手がユダヤ人だったらNG.「ハッピーハヌカ」カードでないとなりません(「ハヌカ」はクリスマスと同じ時期にあるユダヤの祭典)。相手の宗教が分からないときは「ハッピーホリデー」カードを使うのが「ポリティカリーコレクト」。
 もちろん、受け取る側にとってはそこまでセンシティブな問題ではなくて、以前、ラジオの討論番組で、ユダヤ人の若いゲストが「メリークリスマスといわれたって、これっぽっちも気にならないよ。そこら中にあるクリスマスツリーやクリスマス音楽のようなものだよ」と笑いながら言っていました。これが大部分の人の感情なんでしょう。でもやっぱり「いいじゃん、細かいことは気にしないで行こうぜ」というわけには行かなくて、やっぱり宗教的なものがとても大事にされている国ですし、立場を逆にしてクリスチャンの人が「ハッピーハヌカ」カードを受け取ったら、相当な違和感を憶えるわけですね(絶対多数と少数者の構図)。そんなわけで、この手の話題は年がら年中出てきます。
 あともう一つ、そのラジオの討論で面白かったのは、そのユダヤ人ゲストの住んでいるところは一番多いのがユダヤ人、2番目がなんと日本人。で、みんなで「クリスチャンにはハッピークリスマス、ユダヤ人にはハッピーハヌカ、じゃあ、日本人には何かしら?ハッピーホリデーかな?」なんて討論していました。「日本人にはメリークリスマスでいいんだよっ!!」なんて思いながらラジオを聞いてました。改めて日本における宗教的感覚とこっちでのそれとのギャップを再確認。っていうか、これは日本に限らなくて、中国人や韓国人の親友とクリスマスカードをやりとりしたって全然、違和感ないし。こういう感覚、欧米の人(というかセム系一神教の人というべきかな)にはなかなか感覚的に理解してもらいにくいんですよね。あ、同じアジア人でも、インド人やパキスタンの友人にもメリークリスマスってのはなかなか言いにくいんです。使い分けが大事って感じです。そんなわけで。メリークリスマス(^0^)。1年お世話になりました。良い年末年始を!!
 かなり以前からアメリカから送られてくるクリスマスカードがSeasons Greetingsとあることに違和感を持っていたのだが、こういうことだったのか。そうすると家々を飾るデコレーションなんかも出来なくなっているのだろうか。キリスト教国というのは実際にはありえないことなのだが、社会全般にキリスト教文化が深く関わっていたアメリカでロシア革命時のボルシェビキが動き始めているのだろう。アメリカにキリスト教弾圧、大迫害の時代がやってくるのはそう遠い話ではなさそうだ。あの強制収容所の第一のターゲットはクリスチャンだろう。

Last Trumpet Newsletter 10月号より

主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。 その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である。イザヤ書6:9〜13

*イルミナテイは秘密の内に行動してきたが、今や彼らは公然と行動している。それでも人々 はそれが判らない。上記の聖書の言葉の通りである。そのアメリカにおける本部はニューヨーク58番街東68にある外交問題評議会である。
*9月の最初の週に、オバマは国民的な論議を引き起こした。それは彼が9月8日に全米の学校のテレビで直接学童に語りかける計画をしたことである。彼は単なるマルクス社会主義者ではない、熱烈な共産主義者である。彼は両親の居ないところで幼い子供たちに語りかけたのである。レーニンは言っている「私に一世代の若者を与えよ、そうすれば全世界を変えて見せよう。」幸いなことに多くの学校がこのテレビ番組を子供たちに見せることを拒否した。
*オバマは118000の学校の5600万人の子供たちに調査票を配布した。この計画の責任者ジェファーソン・コープランドは「子供たちに近づくのが一番だ。彼らは家庭で強い発言力を持っている。」聖書にはこうある。「わが民は幼な子にしえたげられ、女たちに治められる。ああ、わが民よ、あなたを導く者はかえって、あなたを迷わせ、あなたの行くべき道を混乱させる。」イザヤ書3:12
*オバマはホワイトハウスに出入りする人を公表することを止めた。また、この男はアメリカ大統領として初めて国連の安全保障理事会の議長になった。
*9月20日、ホワイトハウスの南庭に中国の国旗が掲揚された。これは中国の60周年を祝って掲げられたものである。また、1000人の中国人が祝賀会に招かれた。これは中国がアメリカを乗っ取るサインなのか。
*中国は何千万人もの国民を殺し、胎盤のスープを“若返りの珍味”として食する国である。その他、中国の恐ろしさを上げたらきりが無い。(訳注:中国は歴史的に人肉を最高のご馳走とする。原文に近い三国志参照。)
*アメリカで二百万人が、オバマを非難するプラカードを掲げてホワイトハウスに向かってデモ行進した。しかし、マスコミはほとんど報道しなかった。
*その他、オバマの保険制度の危険、経済破綻、キリスト教会内外のサタン的な霊の動きなどが書かれているが省略する。