荒野の声 No.64

          聖書の霊界事情

 前回、グラハム・ハンコックが見た霊界に対して、聖書の言う霊界を書いておかねばならないと思う。聖書は天国と地獄の二つを言うが、それは必ずしも単純にその二者だけではない。あるいは言葉を言い換えているのかもしれないが、いくつかの霊界が紹介されている。

 天国−第三の天、パラダイス、天の御国、神の国、アブラハムの懐、新しいエルサレム天 <地獄−地獄(ゲヘナ)、火の池、黄泉(ハデス)、底知れぬ所、水のない所、暗闇の穴、死実は天国と言う言葉は聖書では日本語の口語訳聖書のマタイによる福音書にしかない。新改訳は「天の国」、新共同訳は「天の御国」、NKJVは kingdom of heaven、TEVは Kingdom of heaven

このように、天の国、天の御国、kingdom of heaven、Kingdom of heaven、とあり、色々な訳がなされている。(NKJV はNew King James Version, TEVはTodays English Version)
一般的には「天」と言うようだ。その天について聖書の注解書にはこうある。

 ■ てん 天 〈ヘ〉シャーマイム.複数で,「水の場所」「上空の大洋」という意味.〈ギ〉ウーラノス.「空」あるいは「大気」という意味.この2語がおもに用いられる.天は,聖書では,超自然的な世界,見えない神的世界の総体として考えられている.旧約聖書においては,「宇宙」に相当する語はなく,天ともろもろの天の天,および地と言われている(申10:14).あるいは,天,地,海(地下の水)の3要素によって構成されているとも考えられていた.天は,ヘブル語では,もともと複数形であり,新約聖書でもしばしば複数形で表されている. 天は,いくつもの厚い層からなっており,その最高の天が神の住居と考えられた(詩2:4,11:4,イザ40:22).キリストは,エペ4:10によるともろもろの天の上に上げられた(参照ヘブ4:14,Tペテ3:22).またパウロは,自らの経験として,第3の天について言及している(Uコリ12:2). 外典の「エノク書」,その他ラビ文学にある「7つの天」には,奇想天外な説明がなされているが,聖書はそのような思弁的,空想的な分析はしていない.天は,また神の絶対的,主権的越性,遍在性,尊厳性を表すための象徴的なものとしても用いられる場合がある.たとえばマタイは神の国を「天の御国」と呼んでいる(マタ4:17).また,放蕩息子は天に対して罪を犯したと言っている(ルカ15:18,21).しかし実際には,天も,神が住まうには,あまりにも小さい存在なのである(T列8:27). 天はまた御使い的存在の住まいとして,神の王座を中心に,天の法廷を形造るものとして描写される場合がある(参照黙4章).また天は,信仰者の永遠の住まいでもある(ヨハ14:1‐3,ピリ3:20,ヘブ12:1). しかし現在ある天は,サタンや人間の罪によって汚されており,地や海と共にやがて滅び去らなければならない運命にある(黙20:11.参照Uペテ3:10).パウロは,キリスト者の戦いは,血肉に対するものではなく,天上にいる悪の霊との戦いであると言っている(エペ6:12).ペテロは,現在の天地が滅び去った時,神の約束に従って,正義の住む,新しい天と地がもたらされることを述べ,それを待ち望むように勧めている(Uペテ3:13). ヨハネは,以前の天と以前の地は過ぎ去り,もはや海もなくなったが,しかし,そこに新天新地が到来したのを見たと言っている(黙21:1).キリストが,天においても,地においても,いっさいの権威を与えられた主権者であるということの意味を深く考えるべきである.
 要するに天は複数形であり、何層にも分かれていると考えられている。使徒パウロは第三の天に行ったと書いている。パウロはそこが神の住まいであると読み取れる書き方をしている。 前項の引用から、天とか天上に悪の霊が居るとあるので、天とは広い意味で霊界を指す言葉である。現在の天は滅ぼされるとある。この場合、当然神のいる天は含まれないので、第三の天が本当の意味で天国になるだろう。パウロはこの第三の天をパラダイスと言っている。
「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。」Uコリント12::2
パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。Uコリント12:4
「十字架にかけられた犯罪人のひとりが、『あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ』と、イエスに悪口を言いつづけた。 もうひとりは、それをたしなめて言った、『お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことを下のではない』。そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』。イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』。」ルカ23:39〜43
耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。黙示録2:7

 ■パラダイス (〈ギ〉Paradeisos) 塀で囲まれた庭や果樹園などを意味するペルシヤ語のパエリダエーザに由来する語である.旧約では,ネヘ2:8,伝2:5,雅4:13で「御園」「園」,ざくろの「園」と訳されている〈ヘ〉パラデースにはいずれも終末的な含意はない.後期ユダヤ教の時代にパラダイスは族長や選ばれた者や義人のたましいが死後に移される所と考えられるようになった.新約では3回使われており,ルカ23:43においてイエスは,死後にたましいが行く場所として用いている.Uコリ12:2‐4でパウロは3人称を用いて自分の経験を語るが,パラダイスは第3の天であり,ルカ23章と同じような意味で用いられているようである.黙2:7ではパラダイスが終末的な意味で言及されており,最終的完成の時にもたらされる全き栄光の楽園である。 キリストが再臨した後に最後の審判があり、その後に現れる、新しいエルサレムとか新天新地と言う場合の天は第三の天よりは少し低い天ということになるのだろうか。
 この他に「アブラハムの懐」と言う言葉がある。キリストのたとえ話の中で金持ちと乞食のラザロの話がある。ラザロが死に、金持ちも死に、金持ちが黄泉から見上げるとラザロが「アブラハムのふところ」にいるのが見えた。
「そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。」ルカ16:19〜29 
 この「アブラハムのふところ」というのが判らない。パラダイスとは別のもののようである。何となく旧約聖書の匂いがする。はっきりしているのは、「アブラハムのふところ」と、「黄泉」の間には「大きな淵」があって完全に隔てられていると言うことである。それは霊界そのものの有様を示すのだろう。
 では黄泉とは何か。元々、黄泉と言う言葉は日本語をそのまま当てはめたもので果たして正しい訳かどうかはわからない。(よみがえり〈黄泉帰り〉などは日本の故事による)

 ■よみ 〈ヘ〉シェオール,〈ギ〉ハデース.すべての死者が集められる所.地下の住居と考えられている(創37:35,民16:33,ヨブ17:13,詩16:10,イザ28:15).「真暗な地」(ヨブ10:22),「滅びの淵」(ヨブ26:6),「地の深い所」(詩63:9),「沈黙」(詩94:17)なども,よみを指す表現と思われる.旧約聖書には65回出てくる.新約聖書には10回出てきており(マタ11:23,16:18,ルカ10:15,16:23,使2:27,31,黙1:18,6:8,20:13,14),すべて「ハデス」と訳されている.よみについては明確な解説はないが,「ハデスの門」(マタ16:18)という表現からうかがうことができるのは,それがサタンの根拠地的なものであることである.また,サタンのために備えられた場所(参照マタ25:41)と見られている.金持とラザロの物語(ルカ16:19‐31)では,義人の祝福と悪人の苦しみとが相接するところとされている.主はハデスからよみがえられた(使2:27)
 ここは神を信じないで死んだ人が行くところで、地獄のようでもあるし地獄への待合室のようでもある。キリストは死んだ後にここに行って福音(救いに関するメッセージ)を語ったと言う。
わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。黙示録1:17〜18
海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。黙示録20:13〜14
 新約聖書では黄泉はハデス、地獄はゲヘナと違う言葉が使われているので、やはり本当の裁きの前に行くところのようだ。

 ■じごく 地獄 終末における刑罰の象徴として,新約では〈ギ〉ゲエンナが用いられるが,聖書ではすべて「ゲヘナ」と訳出されている.この語はヘブル語の固有名詞ゲー・ヒッノーム(エルサレムの南にあるヒノムの谷)からきている.昔その谷でモレクの神への幼児犠牲が行われた(U列23:10).後に,そこは町の汚物を捨てる場所となり,動物の死骸や,時には罪人の死体も焼かれた.このようなことからゲヘナは罪人の永遠の滅びの場所,そして地獄を示すことばとして用いられるようになった(マタ5:29,18:9,23:15,マコ9:47,ルカ12:5,ヤコ3:6等).その他〈ギ〉タルタロオーがUペテ2:4で「地獄に引き渡す」と訳されている.タルタロスは,死後の人間が行く最下位の場所を示すことばとして古代ギリシヤ人が用いたもので,その意味はゲヘナと同じである.ヘブル語ではシェオール「よみ」が同義語である(イザ14:9,15).
 その他に「底知れぬ所」、「底知れぬ穴」、「水のないところ」、「暗闇の穴」などの言葉があるがこれらは地獄と言うよりもサタンや悪霊たちが滞在を許されているところのようだ。
「悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。」ルカ8:31 「彼らは、底知れぬ所の使を王にいただいており、その名をヘブル語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアポルオンと言う。」9:11 「そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。」11:7 「そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。」20:3 「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。」マタイ12:43 「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。」Uペテロ2:4 「第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開くかぎが与えられた。そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。」黙示録9:1〜2
 最終的に「火の池」と言うものがある。ここは硫黄が永遠に燃えている所である。サタンも反キリストも、その追随者も、何と黄泉も死もそこに投げ込まれる!ここから黄泉は一時的なもので地獄ではないことが判る。
しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。黙示録19:20 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。同10:14〜15
 結局「火の池」が本当の地獄のようだ。問題は何も知らず、積極的にサタンに仕えなかったような人々や幼くして死んだような魂まで投げ込まれるのだろうか。私はそうは思えない。自分を「愛だ」と言われる方が、何の優しさも恩恵もなく杓子定規に裁かれるだろうか。ただ、「信じるものは救われる」と言うことだけは確かなのである。