荒野の声 NO.36

ドイツ人への95か条の提言
マンフレッド・レーダー (訳・小石 泉)


マルチン・ルターの死後450年にあたり、そして、真理を明るみに取り出した努力への愛と尊敬をこめて、以下の提言が言葉によってでも文書によってでも論議されるべく提案された。

1.過去50年間にわたり、ドイツ国民は繰り返し繰り返し第二次世界大戦の開始に関して 有罪であると、平行する議論無しに断罪されてきた。

2.ドイツ国民はかつて敵であった者によって有罪と宣言されてきた。しかし、その人々はそれぞれ自分の国における政治家であり理論家であった。

3.最も忌まわしい類いのものは、神学者たちが神と人の前で彼ら自身とドイツ国民を有罪と宣言した1945年10月19日の「シュツットガルト宣言」であった。

4.これら全ての告発に加えて、かかる自己告発と戒告の非難は決して中止されてはならないと付け加えられた。

5.国家の罪というものは修正されないものではないと言うのは一般的な概念である。個人の罪は修正されないこともある、しかし、それすらつぐない得るものである。

6.罪責は世襲のものではなく、殉教も世襲すべきものではないということも一般的な概念である。

7.それゆえに次代のドイツ人が罪を負うべきではなく、次代のユダヤ人が殉教を負うべきでもない。

8.従って、「シュツットガルト宣言」が“全ての人々”が罪の連帯責任を負うというのは矛盾している。

9.いずれにしても11人のプロテスタントの神学者がシュツットガルトの有罪宣言で語ったように、彼らが“全ての教会の名”いわんや全ドイツ国民の代表などとは誰も認定しなかったし、そうする権威も与えなかった。

10.そしてミヒャエル・ウオルフゾーン教授は次代のドイツ国民が個人として有罪ではないと断言する、それにもかかわらず“何百万人のユダヤ人殺害に対するカインのしるし”を、いかなる時にも刻印されているという。(*ミヒャエル・ウォルフゾーン教授はイスラエル国籍で1967年のイスラエル・アラブ戦争の志願兵であった。彼は現在、ドイツのババリアのニュービプルグにあるブンデスワール大学でドイツ軍の若い士官にドイツ史(ヒトラーの第三帝国を含む)を教えている。〕

11.誰でも聖書の概念をそのような政治的なプロパガンダに混同させるものは、盲人を導く盲人か、偽りの預言者である。

12.矛盾をあざむくために、今日、集団的恥辱、集団的義務、集団的責任という言い方が選択されている、しかし、それらは煎じ詰めれば結局同じことである、ドイツ人は罪責感、良心のとがめを永遠に保有しなければならないと言う事である。

13.これらの用語は単に集団的犯罪という定義の碗曲的な言い回しにすぎない。

14.ドイツの唯一の戦争犯罪という命題は集団的罪責という仮定の上に成り立っている。

15.誰であれ全国民的罪責を宣告し、自然法と国際法の侵害の責めを負うとするものは、全ての市民社会の正義の概念を否定するものである。

16.誰であれ一民族全体に永久的に罪の意識を課することを願っている者は、人間の尊厳と天の戒めに違反している。

17.そのような者は聖書と全ての人類の宗教に違反する犯罪を犯している。

18.カインの印というものは兄弟を殺した者にだけつけられるものである。他のものに置き換えるように教えている者は天的概念を偽りに代え、神に取って代わろうとしているのである。

19.聖書の概念を用いようとするなら聖書の概念に固執しなければならない。そうでなければ聖書を他の目的に誤用することになるだろう。

20.聖書によれば兄弟を殺したカインですら許されている。“カインは主に言った「私の罪は重くて負い切れません。あなたは、きょう、私を地のおもてから追放されました。私はあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。私を見つける入はだれでも私を殺すでしょう。」主はカインに言われた「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう。」”(創世記4:13〜15)

21.もし、自分の兄弟を殺す者が許されるなら、他の殺人者も確かに許されるだろう。

22.それゆえ、ドイツ人の独特の犯罪が許されることはないと言う者は、聖書の明白なメッセージに反対しているのである。

23.聖書の教えるところによれば、血のように赤い罪でも洗われて清められ、雪のように白くなるのである。(イザヤ1:18)

24.イエスの教えるところによれば“どんな罪でも冒涜でも許される。しかし、聖霊
  に対する罪は許されることはない“。

25.罪は許される、あらゆる罪責感もあらゆる良心のとがめも常に取り去られる。“許された罪はもはや人を噛まない”とマルチン・ルターは言っている。

26.しかしながら、自分の罪責感に止まっていたいと思う者は神の慈悲により頼まず、聖霊を冒涜しているのだ。

27.パウロは言っている「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」(ローマ5:20)

28.恵みを受け入れないものは、聖霊に対して罪を犯している。なぜなら神を軽蔑しているからである心

29.ルターは"誰でも自己非難や善行によって神に近づく事はできない。“事前の懲罰や規定なしに、ただ、信仰によってである”と言っている。

30.それゆえ、もし永久的な想起と訓戒が許しと和解の必須条件だと断定するものがあれば、それは明白に聖書の言葉に反対している。たとえ、それがドイツ連邦共和国の現在と前の大統領であろうと。

31.“もしこの時の罪を我々が沈黙を守り、取り除いてしまうならぱその束縛の力は残留し続ける”と言う者は、それが司教であれ総裁であれ聖書の明瞭な戒めに反対しているのである。

32.ドイツ連邦キリスト教評議会(プロテスタント)の代表者が“この事の記録なしには和解と許しは有り得ない”と言う時も同じ事である。

33.また、ドイツ連邦キリスト教評議会(プロテスタント)の総裁がソヴィエトによるアウシュヴイッツの攻略の50周年式典で“我々は全て過去の罪の結果について責任がある”と言うのも同様である。それは我々を解放し鎖から解き放つ神の言葉を無視している。

34.ルターが教会会議も間違いを犯すと言う事を認めたのであれば、なおさら今日の神学者、教授、政治家、ジヤーナリストが聖書にも国際法にも基づいていない考えを持っていると言えるだろう。

36.エッシェンバーグとかいう教授が“第二次世界大戦におけるドイツの独占的な罪に対して疑間を投げ掛ける者は戦後の枠組みの全ての基礎を破壊する者だ”というとき、彼は公に歴史のごまかしを目論む者と認められ、学者としての信用を失っている。

36.戦争の犯罪を語るのは、先立つ諸世紀には無かった悪魔の最新の発明である。

37.国際法は戦争犯罪を認めていない。戦争は様々な理由によって引き起こされるものであり、平和の条約が結ばれるものである。

38.戦争においては、正義は決して一方の側にだけあるものではなく、もう一方の側にもあるものである。

39.戦争の中では正義には常に対立する正義があった。それゆえ反対するものは悪魔だと宣言することは、それぞれが彼の信ずる正しさによって戦っているわけだから、国際法に違反しているのである。

40.民族が、罪があるか無実であるかと言う事に関して、偏見なしの判決が通る法廷というものは実際にはないし、今後も有り得ないだろう。

41.全ての民族は直接、神にのみ責任を問われるのであって、他のものではない。

42.聖書の教えるところによれば、神は民族を戦争や災難で懲らしめる事がある。しかし、人間が、戦争に負けたのは民族全体に対する神の懲らしめだと言うのは断じて適切なことではない。

43.幾世紀にも渡って国際法はいかなる審判の機能においても寛大ではなかった。人間の心は民族の罪や無実を判断する能力も無かったし、十分に非利己的でも無かったからである。

44.あらゆる戦争の後にはtabula rasaの原則が有効である。全ての非難と告発を避けなければならないという事である。そうして初めて新しい出発が可能だからである。

45.戦後処理において相互の許しと忘却があってのみ、そして憎しみも復讐も迫害も無い寛容さがあってのみ平和は可能となる。

46.戦争の時に起こった全ての悪事に対する感情を治めることができる時、昨日の敵が今日の同盟者となることができる。

47.絶え間ない残虐さの回想や、戦争犯罪と呼ばれるものへの試験はどんな和解を生み出すこともできない。それらはただ新たな憎しみを引き起こし、新しい戦争の基礎を作り出すだけである。

48.過去の残虐な行為と戦争犯罪を永遠に叫び続けるものは、全く和解を望んでいるのではなく戦争の継続を望んでいるのである。言い換えれば結局のところ心理的に反対者を征服しているのである。

49.引き続き虐殺を回想したからといって決してその先の虐殺を予防するわけではない。

50.自己を正当化する人間は自分自身も人間性も知らないのだ。

51.それゆえ、和解を説教しながら一時も敵対意識を休止させず、過去の不正をわめき続ける者は嘘つきであり誤謬に陥っているのだ。

52.放蕩息子の父が息子を受け入れながら彼の過去と過ちを思い出させ続けるとしたら、それは和解を望んでいるのではなく、むしろ相手を征服し心理的奴隷とし続けるつもりなのである。

53.それゆえ、和解の秘訣は記憶ではなく完全な許しと、誓いを尊び、古い傷を再び切り広げないことである。

54.独裁制を警告することが独裁制を予防したことは決してなかった。独裁者は来る時には来る。

55.過去の独裁制に対して反対することがあたかも公法であるかのように説教する者は彼自身が独裁者となって行くものだ。昨日、迫害されたものが、今日、迫害するものとなる。

56.それゆえ過去の独裁制が悪魔のようなものだったと主張する者たちには用心しなければならない。ほとんどの場合こういう手合はベルゼブルの助けで悪魔を追い払おうとしているだけなのだ。

57.一方の側だけの不正を記憶しようとしながら、もう一方の不正に対しては沈黙を守ったり、大した事ではないと捨て去ったり、あるいは拒否したりするようなものは、歴史を贋造し真理の御霊に逆らう罪を犯しているのである。

58.しかしながらもっと悪い事は、嘘をついて自分自身の民族を告発する者たちである。彼らは真理に背反しているだけではなく、愛と正義の御霊に逆らっているのである。

59.聖書には「隣人を愛せよ」と書かれている。隣人とは、何よりもまず本人の民族の事ではないか。

60.ただ一つの民族を告発するものはその民族を心理的に征服しようとしているのであり、生存の権利と尊厳を剥奪しようとしているのである。

61.しかしながら、この民族が精神的な苦痛と絶望の縁にいるとき、そして正にその国の中で殺人が行われている時に、牧師たちが彼等自身の民族を弾劾したのは狼の中に自分の羊を投げ捨てる羊飼いのようなものである。(これは1945年10月にプロテスタントの指導的な牧師たちが署名した〃罪に関するシュツットガルト告白"と呼ばれているもののことである。正にこの時、何十万人というドイツ人が祖先の地を追われ、無慈悲な殺人が行われていた。)

62.自分自身の罪を告白し続けるものは、彼自身を信じられないほどの偽善者だと世界に知らせているのである。

63.止めどなく恥知らずに悔恨だけを言い表すのは和解をもたらすどころか不信と軽蔑を生み出すだけである。

64.和解はただ正直な対立者とだけ可能であって、卑しい追従者とは有り得ない。

65.ドイツの罪だけを言うものはいかなる和解をもたらす者にも値しない。

66.もし他の民族が和解を望んでいないのに、それをだらしなくいい続けるなら、それを請わせておけば良いのである。

67.ドイツを非難し賠償を要求しながら、自分自身の犯した罪を認めることを拒否する者は真理と正義に反することに専心しているのである。

68.国際法というものは相互的なものである。一方的な権利、一方的な義務というものはないと承認されている。

69.ただドイツの不正を語り、自身の民族の正しいことを拒否しそれを認めることを望まない者は正義の普遍的領域の外にいるのである。

70.戦後のドイツ国民の追放と大量殺人を不正と呼ばない者は一般的に了承されている正義と道徳の概念から自分自身を除外しているのである。

71.無防備の一般市民に恐怖の爆弾投下を行いながら後悔もせず、それを償うつもりもない者もまた、正義から自分自身を除外しているのである。

72.道徳と裁きにおいて複数の基準を持つことに賛成し、ドイツ人の兵士の行為を非難しながら反対側の兵士の同じような行為を賞賛したり評価したりする者は、将来のパートナーや同盟の対象とはなり得ない。

73.ロシアは不正に告発されたドイツ兵士の名誉回復を行っている、しかし、我々はアングロ・アメリカン側が、戦後彼等が行ったリンチを悔い改めるという兆候を待っている。

74.戦後50年間、ユダヤ人の有力者たちが許しは要求もされず、認められもしないと強弁しているときにも、我々は穏忍自重して彼等との和解の努力を続けてきた。

75.イスラエルの大統領エズラ・ワイツマン、作家のデイヴイッド・グロスマン、ドイツのユダヤ人代表イグナツ・ブビスや他の多くが許しは有り得ないと強弁し続けるとき、彼等が友愛週間の後援者であるとはなんと偽善であろうか。

76.真理は「あなたが他人の罪を許さないなら、あなたの罪も許されない」と語っている。

77.神の前には全ての人は罪人である。ドイツ人だけが邪悪なのではなく、ユダヤ人だけが高潔なのでもない。「そこにはなんらの差別もない。すなわち、全ての人は罪を犯したために、神の栄光を受けられなくなっており……」(ローマ3:22〜23)

78.「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。」(ヨハネ8:7)

79.イエスは言われた「あなた方が罪がないという所に罪が残るのである。」

80.「自分の目に自らを知恵あるものとする人をあなたは見るか、彼よりもかえって愚かな人に望みがある。」(箴言26:12)

81.多くの外国人が、ドイツ人がもっとつぐないを表明することに反対することを示唆している。なぜならこれは過去の問題ではなく未来の問題だからである。

82.クロアチア人やボスニア人やそのほかの多くの人々が、ドイツ人はユダヤ人に口をしっくいで塗り固められて、50年間さるぐつわをはめられているので、他の脅されている民族に効果的な援助が出来ないでいるとつぶやいている。

83.ドイツ人は外国人嫌いなのだと非難することで我々を中傷している者は、わが国民に良心のとがめを教え込もうとしている。彼等はただドイツの全てのことに憎しみを駆り立て、ドイツ恐怖症を造り出そうとしているのである。

84.1995年10月3日、東西ドイツの統一の日にエストニアの大統領レナート・メリはベルリンで次のように重要なコメントを語っている。

85.「ドイツはカノッサ共和国のようになった、悔い改めの国家となった。なぜドイツ人はこれほど自尊心を失ってしまったのか。」(カノッサとは北イタリヤにある城である。1077年ドイツ皇帝ハインリッヒ4世は巡礼として裸足で法王グレゴリオ7世に、以前にカトリック教会から彼に通告されていた破門の取り消しを求めていた。これはドイツでは極め付きの屈辱のしるしと考えられている。)

86.「誰かが自分の道徳的な面に見栄を張ると、本気だとは受け取られない事になる。」

87.「人は自分自身を知的に軽蔑し続ける民族を信用しないものである。このような態度は我々が誇りとするヨーロッパに対して不必要で無礼でさえある勤めを実行する儀式のようなものである。」

88.「信用されるものとなるためには、世界の至る所ですべての犯罪を非難し続けなければならない。たとえ「いけにえがドイツ人であったとしても。」

89.「なぜドイツ人が自分の歴史上その様なタブーを置いたのかほとんど理解できない。」

90.「恐れへの力は勇気への力に置き換えられなければならない。民族への信用というものは力というものをただ尊敬される方法、すなわち偏見なしに、自由と正義と平和への関心を持って用いるときだけ生まれてくるものである。

91.「エストニアの地は、かつて、現在、そしてこれからもバルチック・ドイツ人の固有の土地である。エストニアはすべてのドイツ人に開かれているし、これからも開かれているだろう。」(50年間に渡って、我々は同じような言葉がポーランド、ボヘミヤ、ユーゴスラビアから聞こえてくることを待ち続けてきた)

92.「民族の固有の土地への完全な権利はヨーロッパの原則の一つであった。」

93.「〃新世界秩序"というものを考える前に、なによりもまず自分の歴史について正直に客観的に考えてみる必要がある。」

94.「国歌の中で正義と自由という西洋の原理があるのはドイツの国歌である。最上の表現がそこにはある。」(これらは我々の壮大な歴史の局面と、我々の現在と未来の責任を覚えていてくれた友人たちの言葉である。1941年と1945年の間エストニアの軍隊はボルシェヴイズムに対する汎ヨーロッパ防衛努力機構から分離した。それに先立つ1940年と1941年にはボルシェヴイキによる虐殺作戦の下にいたのである。)

95.マルチン・ルターは「わが愛する国民よ、だまされてはならない」と言う、「もし神が我々と共におられるなら、だれが我々を打ち負かすことが出来ようか。信仰はどんな敵よりも強い。誰も我々のランプを消すことは出来ないのだ。」

(マンフレッド・レーダー氏は弁護士であったが、彼の終わりなき戦いの故に、弁護士資格を剥奪されている。原文はドイツ語であるが、これはGANPAC BRIEF1996年10月号に掲載されたDr.Charles Weberの英訳から翻訳した。この提言がドイツのある新聞に広告の形で掲載されたとき、リベラル派と"永遠に迫害されている少数派"からの抗議の洪水が起こったという。その理由はこの提言が最も法に反するものだというのだった。あなたはどう思われますか?)



今日の常識は明日の常識なのか

 1517年10月31日、マルチン・ルターはウエッテンベルグの城門の扉に、カトリックの免罪符に関する95か条の提言を張り出した。この提言は丁度開発されたグーテンベルグの印刷機によって瞬く間に当時の全ヨーロッパに伝えられ、宗教改革の火が燃え広がった。しかし、いつの時代でもそうなのだが、時の権力や体制にこびへつらう輩は、これら改革者らの叫びをあざ笑い、攻撃し、それが正しい事だと思っていたのである。
 さて、ここにお送りする『新しい95か条の提言』は、20世紀のドイツ民族の魂の叫びである。我々はここに第二次世界大戦以来50年間に渡って、屈辱の中にうごめいていたドイツ民族の苦しみの一端を垣間見るのである。戦後、我々はナチスドイツの悪業を映画、テレビ、小説、評論などを通して嫌というほど見せられてきた。そしてドイツ民族は好戦的であり、平気で残虐な行為をする民族だと言う常識が世界に広まった。
 しかし、常識とはいかに空しいものだろうか。戦前、日本人は国のために命を捨てる事は美徳であると言う事が常識であった。しかし、戦後それは最も馬鹿げた行為であるとすることが常識となった。かつて常識の誤りを犯した者はもはや誤りを犯さないのだろうか。もしかすると今も同じ様に新しい誤りを犯しているのではないのだろうか。
ここに書かれていることは実に常識的な事である。しかし、この文章はドイツでは決して公に見ることは出来ない。このような文章は極右の、ナチズムの、好戦的な亡霊が書いているというのが常識とされているので、決して一般には公表されてはならないのである。私は現代におけるユダヤ人の研究をした結果、実にユダヤ人は今や世界を支配していると結論づけないでいられないのである。事実、最近のイスラエルの新聞〃ハーレツ"に「ユダヤ人はアメリカを支配した」と言う記事が載っている。ただ、この支配がユダヤ国家による軍事的占領という形をとらないので判らないのである。だから人はそれを陰謀と呼ぶのである。本来このような行動を、軍事行動、作戦行動としてみるならば、これは特に邪悪でもなく不道徳でもない。ただ、これまでの世界史の常識にはなかった作戦なので、うろたえ、戸惑い、陰謀だと叫ぶことになったのである。確かにユダヤ民族は世界を支配した。今や彼等に対抗できる勢力は地上には存在しない。私はその事を非難するつもりはない。問題は我々の側にある。我々が占領され、支配されているとは思っていないところにある。この文章はその事をドイツ国民に訴えているのである。同じ様に日本も支配され占領されている。ドイツのように正面から攻撃されてはいないけれど、もっと巧妙にだまされている。そして骨抜きにされている。これはユダヤ人の作戦ではあるが、それに気がつかない者の愚かさこそ責められるべきであると私は思う。


「再臨」  NO.49 Nov.19 2006
発行者:264-0000 千葉県千葉市若葉郵便局留め  小 石  泉 TEL 043-284-5916
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マンフレッド・レーダー氏の来日
 偉大なドイツの愛国者マンフレッド・レーダー氏が来日された。氏については太田龍氏の「週刊日本新聞」に詳しく載っているので参照されたい。私は氏の「ドイツ国民への95か条の提言」を翻訳し著書に載せたことがある。今回、氏の来日に関し、成田からホテルまでの送迎を担当させていただいた。本来なら数千人の会衆に語られるべき人物なのであるが、氏の講演会は今回は非常に小規模に行われた。それというのもこれまでジョン・コールマン氏やユースタス・マリンズ氏の来日がキャンセルされて、太田氏が警戒されたこととレーダー氏が講演目的と判ると来日の許可が下りなかった可能性があったからである。
 このような人々の招請と講演会には莫大な費用が掛かるものである。今回も数十名の参加者では到底その費用は賄えない。太田氏は相当の赤字覚悟でなさったことであろう。
 本号では「ドイツ国民への95か条の提言」を再度お送りすることにした。私の本を読まれていない方も居られると思うのと、すでに10年近い時間を経ているので、改めて氏の主張を読み直してみる必要を感じるからである。なお、この文書の日本語訳は私のものだけらしい。残念である。もっと多くの人に周知されるべきであるのに。

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