荒野の声  No.17 小 石   泉

        冒涜の絵画「最後の晩餐」

 近刊の「アエラ」にレオナルド・ダビンチに関する「ダビンチ・コード」という本の批評が載る予定です。その中に私のコメントがちょっとだけ入ります。フリーライターから電話インタビューを受けました。私はその本を本屋さんで見たことはありますが馬鹿馬鹿しいので買いませんでした。その本では「最後の晩餐」のイエスの右隣の人物はヨハネではなく、マグダラのマリヤであり、イエスとマリヤは結婚していたか愛人関係にあったと言うのだそうです。私は馬鹿馬鹿しくて反論もしたくないのですが、私独自の「最後の晩餐」に対する考えがありますのでここに書いてみます。これらすべてを語ったのですが、雑誌には載りませんでした。
 この絵はヨハネの福音書にある情景を表したものです。

「イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、『よくよくあなた方に言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている』。弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、『誰のことをおっしゃったのか、知らせてくれ』。その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、『主よ、だれのことですか』と尋ねると、イエスは答えられた、『私が一きれの食物をひたして与える者が、それである』。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。 この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、『しようとしていることを、今すぐするがよい』。席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。13:21〜28」

 イエス様の言葉を聞いたペテロがヨハネを呼び寄せて「誰のことをおっしゃったのか、知らせてくれ」と聞いた場面です。イエスの隣にいた人物がマリヤなら、ヨハネはどこに行ったのですか。ヨハネがいなければこの絵の意味はありません。そんなことも考えないでマリヤだというこの著者信じられないほど頭が悪いです。このヨハネを見るとまるで誰が見ても女性としか思えません。私は原画を見たわけではないのですが、かなり忠実な模写を多くの人に見せたところ、異口同音に「女性でしょう」と答えました。
 
 実はこの絵はイエスとヨハネが同性愛の関係にあったということを主張しているのです。これは欧米の同性愛者たちが良く口にすることです。そしてダビンチは同性愛者でした。有名なモナリザとダビンチの自画像を重ね合わせるとぴたりと一致します。それは彼の女性嗜好を表しているといいます。
 これには二つの理由があります。まずヨハネは自分のことを「イエスが愛しておられた弟子」と呼んでいます。またこの食事の席でヨハネは「イエスの胸に寄りかかっていた」とあります。そこからそのようないまわしい憶測が生まれました。しかし、これらは当時の言葉と習慣を知らなかった翻訳者が行った誤りです。
 ギリシャ語の「愛」という言葉には3つの言葉があります。男女や性的な愛を現すにはエロース、友情、母性愛、兄弟愛、愛国心などを表すフィレオー、そして罪びとのために身代わりとなって十字架に死んだ神の愛アガペーです。そしてこの「イエスが愛しておられた弟子」の場合はアガペーという言葉が使われていますから、同性愛なんてとんでもない話です。
 また、当時はローマの習慣に従って寝そべって食事をしたのです。そのため、となりの人の頭は前の人の胸に寄りかかる形になります。ですから最近の翻訳ではただ「イエスの隣にいた」と訳す場合が多いです。おそらくヨハネはまだ中学生か高校生ぐらいの年齢だったのでしょう。ですからイエス様に素直に甘えていたのかもしれません。いずれにしてもイエス様に対して同性愛などという冒涜は許されるものではありません。そういう発想自体がクリスチャンには驚きと嫌悪です。

 この絵をよく見てください。弟子たちは二つの峰のようにかたまりとなっています。そしてイエス様とヨハネの間だけに谷間のような亀裂があります。これはダビンチが意図的に描いたのです。ヨハネはペテロに呼ばれてペテロの方に体を傾けています。ダビンチはペテロに呼ばれる前のヨハネがどういう姿勢だったかを暗示しているのです。それはイエスの胸に寄りかかっていたのです。それをもろに書くととがめられるので、わざとそこだけ谷間を作って、ヨハネの動きを表したのだと私は思います。
 そのことを見つけてから、私はこの絵を教会に飾ることをやめました。資料としてとってありますが、本当は破り捨てたいくらいです。私の本を読んだある牧師は本当に破り捨てました。世界中の教会やクリスチャンの家にこの絵は飾られています。ダビンチは今頃地獄で満足しているでしょうか。

 また、マグダラのマリヤとイエスが結婚していたか愛人関係にあったということも不信仰な人々の中で語り継がれてきました。その子孫がアーサー王だという伝説もあります。モルモン教のジョセフ・スミスが自分の宗教に「末日聖徒イエス・キリスト教会」という奇妙な名前をつけたのも、実は彼は自分がイエスの末裔だと信じていたからです。
 これも本当に冒涜に満ちた話ですが、キリストは三位一体の神ご自身なのですから、人間の女などと結婚するはずがありません。もし、していたら生まれた子供は神なのですか人なのですか。そして、その後のキリスト教会はその子を中心に形成されたでしょう。また、マグダラのマリヤはイエスの母マリヤのように尊敬を受けたでしょう。しかし、そんなことは全くありませんでしたし、あるはずもありません。