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信仰のニュートラルギア

 信仰の世界は白黒、善悪、前後、左右と決め付けることが多くあります。これは信仰の健全性を守るために非常に大切なことです。ところが意外や意外、決められないこと、言わば車のニュートラルギアのようなシフトが必要なことがあります。
 車のニュートラルギアは前後の動きを中断しエンジンとの連結を切断するシフトです。これが無いと危険です。信仰の世界でそんなことを言うとけしからん、信仰をあいまいにし堕落させるものだとお叱りを受けそうです。ところがこれが非常に重要な信仰の場面で現実にあるのです。
 救いに関して聖書には二つの道が示されています。一つは「神の選び」による救いです。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。エペソ1:4  などです。
 一方、「信仰による救い」も明確に書かれています。
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。Tペテロ1:5
   前者を強調するのはカルビニズム、後者を強調するのはアルミニズム。それぞれに強い主張があります。では真理はどこにあるのか? 私の卒業した神学校の校長先生はこの両者の中間の雲の中にあると言っていました。正にニュートラルギアではありませんか。
 特に異端との接点においてギアチェンジが重要だと感じます。モルモン教、エホバの証人、統一教会は異端と言うより異教に属するもので共通項はありません。主イエスの名を意図的に誤りに導くサタン的な企みですから問題になりません。
 ローカルチャーチ、べレアの学び、愛の教会などは巧みに教会に侵入してきますが、終局において三位一体を否定しています。非常に判りにくい教えで、要注意です。
 問題はセブンスデー、後の雨運動、ワンネス(イエスの中に三位一体があるという)、聖霊派(聖霊のバプテスマのよる救い)などです。セブンスデーはユダヤ教に近く、土曜安息を強調し菜食主義を採ります。私はセブンスデーの牧師の訪問を受けて、語り合いましたが主イエスの神性、十字架の贖い、復活、再臨を信じていて、「それならキリスト教ですね」と分かれた経験があります。聖霊派の信徒も尋ねてきて同じような結論を得たことがあります。ワンネスには親しい友人が居ます。しかし、あまりこの教理を話したがりません。非常に真摯で熱心な人々が多いです。
 後の雨運動はその後カリスマ運動となり非常に大きな影響をもたらしました。この運動の初めにはかなり問題な指導者が多く、狂信的な集会が持たれたようです。笑う、叫ぶ、踊り狂う。聖書にはないパフォーマンスが伴いました。これは最近でも身近に起こりました。しかし、ダビデの幕屋の回復など魅力的な教えや、多くの賛美が生まれました。ここにニュートラルギアが必要だと思うのです。初期のアメリカの指導者の行き過ぎを問題視して全てを否定することはもったいない気がします。
 ペンテコスト派のスタートはしばしば行き過ぎや過熱がありました。典型的な例はフォースクエア教団です。この教団はエイミー・マクファーソンと言うとんでもない女性によって始められました。いわゆるカリスマテックエンターテイメントの極限です。そしてスキャンダル。しかし、現在はあのウエイン・コデーロ先生などすばらしい人々がおり、日本の教団も立派な先生方です。
 キリスト教の歴史において、しばしば新しい運動は過激で問題のあることが多いです。それは何かを始める場合、熱い思いがあり、慣れないし、手探りの状態で進まなければならないからです。しかし、次第に整ってくると正常な状態に成長します。それは彼らが聖書を否定しない限り聖書そのものの持っている力によって浄化、建設されて行くからです。聖書を否定したり、聖書以外の経典を作る場合はその希望はありません。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。Uテモテ3:16
 私たちは十分注意しながら、良いものは良い、悪いものは悪い、是々非々の立場を取りましょう。ニュートラルギアを上手く使って、神様の祝福をつかみ取ろうではありませんか。