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義の太陽

しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。マラキ4:2
 イエス様はいつ生まれたのか。それは正確には判っていませんが、ユダヤ教の祭りの日時から類推することは出来るかもしれません。12月25日と言うのはヨーロッパの冬至の祭りを変更したとも言われています。もっとも、一年で一番夜の長い時期に「義の太陽」が昇るのはふさわしいことかもしれません。
 牛やヤギを飼ったことのある人なら牛舎から出て喜んで跳ね回る子牛の姿が容易に想像できるでしょう。ぴょんぴょんと本当にうれしそうに跳ね回るのです。本当は、イスラエルはそう言う風に喜ぶべきでした。
見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。イザヤ60:2(口語訳)
 確かに朝日は昇りました。しかし、ほとんどの人は気がつきませんでした。義の太陽が輝いたのに、人々の目は盲目でした。
「夜回りよ、今は夜のなんどきですか、夜回りよ、今は夜のなんどきですか」。夜回りは言う、「朝がきます、夜もまたきます。もしあなたがたが聞こうと思うならば聞きなさい、また来なさい」。イザヤ21:11〜12(口語訳)
 朝は来たのに、すぐまた夜になったのです! イスラエルは彼らの視界から義の太陽を消してしまったのです。そして長い間、2000年もの間、闇の中に過ごしています。メシヤが来たのに彼らは認めませんでした。イエスと言う名はヨシュア(エホシュア)「ヤハウエは救う」と言う意味ですから、その名でさえこの方の素性を現していたのに彼らは認めませんでした。イザヤ書53章のあまりにも鮮やかな預言のように、メシヤは、拒絶され、無視され、殺されました。(口語訳で)
だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
 この方は、一度、僕(しもべ)として来られました。人々の罪を拭い去るために身分を隠して来られたのです。しかし、間もなく本当の太陽として来られます。その時は、太陽を肉眼で見ることが出来ないように、私たちの目はその栄光を見るのに耐えられないでしょう。私は夜回りのように言いたい。
「もしあなたがたが聞こうと思うならば聞きなさい、また来なさい。」