ホームページ・メッセージ131124 小 石 泉
何とかして幾人かを
弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。1コリント9:22
救いたい。何とかして幾人でもキリストの下へ導きたい。パウロ先生の心が私にもあります。永遠に神と共に住むか、暗闇の中に住むか、あまりにも対照的な真実が、人の命の先にはあるのです。あの天国に行ってきたコルトン君が誰かの葬儀を見て「あの人はイエス様を知っていたの、知っていなければ駄目だよ!」と激しく叫んだと言う気持ちがわかります。私もいたたまれない気持ちです。
実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。ローマ9:3
パウロ先生は自分が呪われてキリストから離されても良いと言いました。私もそこまでは言えないけれど、ほぼ同じ思いがあります。日本人1億2千万人の内の1%に満たない人しか、永遠の命を持っていないなんて!
私は東京の某有名ホテルで結婚式をしていました。しばらく休んでいましたが、最近、再開しました。「ぜひ、やって下さい」と言われるのです。そして、お金のことではないのです。私は生活に困っているわけではありません。何と言っても、日本で50人100人の人に少しでも福音を語れる場所は他にありません。彼らのほとんどは、キリスト教というものに初めて接します。本物の牧師を見るのも初めて、賛美歌を聴くのも初めて、祈りを聞くのも初めてでしょう。そして恐らく多くの場合それが最後でしょう。私は言わば、キリスト教というものを代表して一人で現すわけです。(いわゆる聖歌隊はほとんど未信者です)
何とかして、一度でもキリスト教に触れてもらいたい。伝道のはるか前の段階ですが、私は貴重な時だと思っています。もし、本当の牧師がやらなければ、どこからかいい加減な外人や大学の弁論部の学生!(実際にあった)を連れてきてやるでしょう。幸い、私の式は好評で指名されることも多くあります。
最近、村上密(ひそか)先生とお会いしてお話しました。福音を伝えると言うことが、教会を大きくすることと置き換わった結果、様々な驚くべき弊害が起こっています。大きな教会を達成した牧師たちがとんでもない行動に走ることをお聞きしました。有り余るお金と、無限の権力が真面目で真摯な伝道者を狂わせています。福音を語ると言う素朴な行為が、心理学のテクニックや、エンターテインメントや、気功術や(ベニー・ヒンのように)、時には脅迫やマインドコントロールに変換させられてはならないのです。
死後にもう一度福音を聞く機会がある、と言う、いわゆるセカンドチャンスと言う考え方は,気持ちは判りますが、聖書には記されていません。私たちが知っているのは、この人生の中での決定が永遠の住まいを決定するということです。そのような重要な使命を神様は人間に託されたのです。真剣に考えたら気が狂いそうな重大事です。
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。ローマ10:14
ここまで言われたら、もう返す言葉もありません。福音はまず「聞かせること」から始まります。聞かせるには、誰か語る人がいなければなりません。それは牧師とか伝道師とかの肩書きが無ければならないわけではありません。使徒行伝のアクラとプリスキラのように一般信徒でも有益な働きをする夫婦も居ます。
この日本で福音を語る機会はそんなに多くはありません。しかし、何かの機会を通して語りたい。トラクトを渡したい。何とかして幾人かを救うために。