ホームページ・メッセージ131006        小 石  泉

再 献 身

悲しめる者にわれを遣わし 伝えしめよ汝が救い
御心とあらば主よいずこにも 喜びてわれは向かわん
この身この魂を捧げまつれば 主よ受け止めて
恵みを取り次ぐ管としたまえ 滅び行く者のために (聖歌586)

 家内が召されてから1年半の間、私は死ぬことばかり求めてきました。寂寥と病の束縛にうんざりして、早く召されたいとばかり願っていました。ところが数日前に突然、本当に単純な話ですが“天国では伝道できない”と言うことに気がついたのです・・・。馬鹿な話ですが本当にそんな単純なことに気がつきませんでした。瞬間から私の気持ちは180度変わりました。「いやだ、一分一秒でも長生きしたい。そして一人でも二人でも福音を伝えたい!」それは天国の魅力を当分棚上げするに十分な理由でした。
 前に「なぜ私は牧師になったか」と言う話をしました。私は本当に牧師になるのはいやでした。ただその時言い忘れたことがあります。それは失われた魂への情熱、神を知らない人々へ福音を伝えたいという思いは激しくあったということです。心が裂けそうでした。結局その思いに圧倒されたと言うことが出来ます。今、その時の情熱、熱い思いが湧き上がっています。
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」ルカ16:19〜31
 この有名な物語は、死んだ後のことを主イエスが語った非常にリアルでまれな話です。ここに、救われたものと救われていないものの間にある「大きな淵」について語られています。どんなに願ってもその淵を越えることは出来ないし、この世への通信も「モーセと預言者」すなわち聖書以外にはないとアブラハムは言っているのです。
暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。マタイ4:16
 このすばらしい救い、光の到来をいまだに知らない人々が日本人の99%です。それどころか、自分が闇の中にいることすら気がついていない! 
 生きたい、福音のために。今は、ただそれだけに集中しています。