ホームページ・メッセージ130901        小 石  泉

わたしはここにいる

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。ヨハネ1:1〜5(口語訳)
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。1:9〜10(口語訳)
 藤圭子さんの死のニュースにやりきれない思いを持ちました。別にファンだったとか歌が好きだった訳ではありません。むしろ暗いいやな歌だと思っていました。ただ彼女の人生の暗闇がたまらなく恐ろしく感じられたのです。一生、神なく光なく、闇の中をさまよい続けて終わったのでしょうか。皮肉にも娘さんは光と言う名なのに。
 私は神が居ないという感じがわかりません。両親はまがりなりにもクリスチャンだったので、幼い時から神は居て当たり前、居ないなんて考えたこともありませんでした。小学生になったころ、この世には神が居ないと思っている人が居る、そして、そういう人の方が多いんだと知った時、本当にびっくりしました。
 神が居ない人生はどんなものなのでしょう。藤さんは世界中を旅して歩かれたそうです。そのどんな瞬間にも神にめぐり合う機会はなかったのでしょうか。アメリカには無数の教会があるのに一度もその門をくぐらなかったのでしょうか。
 私の家内は若いとき神に出会うまで必死になって光を求めたと言っていました。「この世にまことの光明があれば身を粉にしても証すべし」というのが口癖で、ありとあらゆる神社仏閣にお参りし、精進したと言います。結局、光が見出せず、ある時、ついにパニックになり会社で倒れ、魂が体から離れて行くのを感じたと言います。「降ろして、降ろして」と叫びながら闇の中に飲み込まれて行く自分を感じていたそうです。その後、札幌の小さな教会に導かれ、一歩中に入った時、あふれるばかりの光を見たといいます。「ここだ!ここにある!」。それからは毎日教会に通い、間もなく、何と3ヶ月で神学校に入ってきたのです。彼女は今、本当の光に会い、神の国にいます。
 私たちは懸命に伝道していますが、何か堅い殻があるように、なかなか日本人の心には届きません。もどかしい思いでここまで来ました。こんなすばらしい光があるのに、なぜ来ようとしないのか! 不思議です。
わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。イザヤ65:1(口語訳)
「わたしはここにいる、わたしはここにいる」。何と切ない呼びかけでしょうか。こんなねんごろに神様は呼びかけているのに、何と空しい反応しかないのでしょうか。本当にやりきれない思いです。これではいわゆるセカンドチャンス(死後にもう一度福音を聞くチャンスがあるという考え)を信じたくなりますね。
 言い換えれば、私たち神に出会った者は本当に幸運だったということでしょう。そして、光を受けたものは光に変えられます。
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。マタイ5:14(口語訳)
いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。ピリピ2:16(新改訳)
どんな小さな光でも、光は闇に勝ります。あなたの光を照らしてください。