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天国への資格

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。マタイ11:29(口語訳)
 不思議なこともあるものです。天地の創り主、その支配者、王の王、主の主、というお方は、御自分のことを「柔和で心のへりくだった者」と紹介しておられるのです。
 少し健康のバランスを崩して入院しました。そして、あのコルトン・バ―ポ君の本を読み直しました。天国の光景がリアルに迫ってきます。天国は愛と慰めの世界ですね。
 そんな感慨にふけっていた時、私は、突然、自分自身の中に神さまへの苦い思いがあることに気づいたのです。妻を失い、病に束縛され、いつの間にか神様に恨みがましい思いを持っている自分・・・・。もっともっと苦しい闘病をしたり、生活を送っている人はたくさん居るのに。誰かを非難する時、自分はその上に立っている。
 主イエスの本質は謙遜でした。驚くべきことです。だから主イエスに似ようと思うならば謙遜を学ばなければなりません。それに比べるとサタンの本質は高慢です。
あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。』イザヤ14:13
 サタンがエバを誘惑した時、「神のようになる」と言っていることを思い出してください。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。創世記3:5
 天国への資格は、もちろん主イエスの十字架の贖いです。これは言葉では表せないほど貴い事実です。一方、私たちに出来ることは「謙虚であること」に尽きます。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。詩篇51:17
 神様が私たちになさることは、いつも最善です。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。伝道者の書3:11
 しかし、自分がその中に立たされると、美しいとは思えないことがあります。あのコルトン君も虫垂炎の誤診から究極の苦しみをし、御両親も極限までの苦しみを経験されました。牧師であるお父さんは神様に激高したと書いています。しかし、その真っ只中でコルトン君は美しい天国を見てきたのです。
 話は変わりますが、お茶の祖といわれる千利休は「わびさび」と言う言葉を使いました。そして茶室は腰の大小(刀)を取って、どんな偉い人でも、小さなにじり口から頭を低くしては入らなければなりませんでした。建物も簡素を第一としました。利休は隠れキリシタンだったと言う噂はどうも本当だったようです。茶道の作法は当時の聖餐式そのもののようです。私の目から見ると、結局、利休の言いたかったことは「謙虚であれ」ということのように思えます。
 これに対して秀吉は、金箔を張りめぐらした黄金の茶室を作り、利休に自慢しました。これは全く利休の意図を理解していない正反対の作業です。それで利休は良い評価を与えませんでした。これに怒った秀吉は、結局、利休に切腹を命じます。
 最近の、繁栄の神学を見ていると、秀吉の間違いを犯しているように思えます。
 キリストの徹底的な謙遜の姿を見続けて生きましょう。それが天国人の資格なのです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。ピリピ2:6〜11