そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」U列王20:1〜6
Man is mortal. 「人間は死ぬものだ」。有名な英語の言葉です。人は必ず死にます。しかし、多くの場合、死ぬ時期については明確になっていません。南朝ユダのヒゼキヤ王は神様から明確に死ぬことが告げられました。ヒゼキヤは敬虔で真摯な人でした。しかし、彼も死ぬときを迎えたのです。この時、ヒゼキヤは神様に祈って死ぬ時期を延ばしてもらいます。彼はなんと15年も延長してもらいました。
死ぬ時期が定められると言うことはとても不思議な感覚です。私事で恐縮ですが、私もがんセンターの医師から「あなたの余命は1年半です」と告げられたとき「へえ、あと1年半でこの世から居なくなるのか」と、何とも言えない感慨を覚えました。それからは何を見ても、「あと少しでこれらのものは見られなくなるのか」と考えます。ヨーロッパの石の町並みを見てからは日本の町並みは貧弱で汚いと思っていましたが、それも今となってはいとおしい。町を通る人々も、あと少しでこれらの人々ともお別れかと思うと懐かしい。
もっとも神様から言われたわけではないので、100%信じているわけでもありません。別の医師たちはその3倍ぐらいは生きるとも言います。しかし、私はジレンマに陥っています。透析をしているので、こんな状態で長く生きたいとも思いません。透析は鎖につながれた奴隷のようなものだと思っています。だから最初、癌が癒された時、あまりうれしくありませんでした。透析も癒されないとなあ、という思いです。私の腎臓は結石の破砕のために痛めつけられ、5分の1ほどの大きさになっていますから、腎臓が再生されると言う奇跡でないと癒されないのです。
私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。Uテモテ4:6〜8
こんなすばらしい告白ができるパウロ先生はやはり偉大だなと思います。しかし、最後の「主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」という言葉に励まされます。こんな者でも主を慕う思いは人一倍のつもりですから。
全く、見たことのない世界。(私はちょっとだけ垣間見たことがありますが)コルトン君の言う虹色の世界。そこにはアブラハムもモーセもダビデもいて、父も母も妻も、敬愛していた先生方も居る。不思議ですね。それがあと一年半?で行くことが出来るのです。
もっと、もっと、福音を宣べ伝えたかった。あまりにも少ししか出来なかった。
なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』使徒13:47
イスラエルから見たら「地の果て」とは日本のことでしょう! 今、東南アジアは福音の爆発があるのに日本は依然として、冷たく固まっています。祈って打ち砕いて欲しい。天国で、もし国別に聖徒たちが並んだら、日本の列は一番短いなんて事にならないために。
神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
Uテモテ4:1〜2
神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。(口語訳)