聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。Tコリント15:51〜52
私は、近頃は毎日天国に行く日を待ち望んでいます。透析を受けるのは辛く悲しいことですから、早くこんな束縛から解放されたいと願います。しかし、一方で、こんな自分が天国に行けるだろうかという一抹の不安もあります。もちろんキリストの尊い贖いによって救われているので行けることは確実だと信じているのですが、こんな罪の体が天国の清い環境に耐えられるだろうかという思いもあります。しかし、上の御言葉によるなら私たちは変えられるのです。
私たちは魂と精神(心)と肉体から構成されています。この内、今、救われているのは魂の領域だと私は考えています。精神と肉体は少しずつ清められていますが、決して完全に清まることは無いと思います。しかし、「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに」変えられるのです。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、15:42
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。15:53
人間の魂と精神と肉体は罪に犯されています。これはどんな努力や方法でも聖化されることはありません。ただ、キリストの血による贖いによってだけ聖化されます。それは、まず魂から起こり、魂は信じた時に聖化されます。精神は少しずつ聖化の過程をたどりますがそれは微々たるものでほとんど目に見えるものではありません。
上記の御言葉で「蒔かれ」とあることに注意してください。種のように蒔かれると、その種は発芽し元の形を止めなくなります。前の種は「朽ちるもの」でしたが、発芽したものは「朽ちないもの」となるのです。それは「不死を着る」ものとなります。
もっとも私たちの場合は、肉体はこの世に残ります。それは新しい肉体を着ることになるからです。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
Uコリント5:1〜4
そうすると変えられるのは精神の領域だということになります。魂も変えられるのかどうか、私にはわかりません。私は、魂はもう聖化されているので、変えられないのではないかと思いますが、変えられるのかもしれません。
主の場合は全て聖化されていたので肉体もそのまま天に行かれました。天国に行ったらあの体のままの主イエスにお会いできるのです! その御手には十字架の釘跡がそのまま残っているはずです。永遠に。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。Uコリント3:18
主と同じ姿! どんなに美しいのでしょうか。ああ、先に行った彼らはもうそんな美しい体になっているのでしょうか。
とにかく、私たちも一瞬にして変えられます。それは世の終わりになってからという解釈もありますが、私は死と共にすぐに起こって欲しい。このままじゃあ天国の門の前で、たじろいでしまうでしょうから。