ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」T列王17:1
旧約聖書の第一の預言者エリヤはその登場も謎に満ちています。判っている事はティシュベという町の出身と言うだけで、家系も、成長の環境も全くわかりません。もう一人の英雄モーセとは正反対です。この二人は「彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」黙示録11:4 と言われた人々ですが全く違います。
当時、イスラエルの王アハブはフェニキア人の王の娘イゼベルをめとり、偶像バアル信仰を推進していました。イゼベルはバアルの預言者を450人、アシェラの預言者を400人養っていました。エリヤはこの事態に非常な危機感を持って、バアルに挑戦しました。
さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。 あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。T列王18:19〜24
長い話を短くすると、このタイトルマッチにエリヤは勝利し、エリヤの雄牛には火が下りバアルの雄牛には火が下りませんでした。エリヤはバアルとアシェラの預言者850人を切り殺します。そこまでは実に雄々しいエリヤなのですが、この事態に怒ったイゼベルが
「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」19:2 と脅すと、突然、弱気になり、逃げ出すのです。そして神の山ホレブに行き、あの神の顕現に会います。
私はかねてから一つの疑問がありました。エリヤはどこまで神様の指示によって行動していたのだろうということです。それはエリヤの個人的な信仰の熱心から始まったことなのか、モーセのように細かい神様の指令によっていたのかと言うことが疑問でした。
もし、終始、神様の指示によって行動していたなら、イゼベルの脅かしにおびえて逃げ出すことはなかったのではないだろうか、と考えるのです。
エリヤはホレブで神様の「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と言う問いかけに、
「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」19:10 と答えていますが、この言葉は、もし神様からの指令によって行動していたら、ちょっと違うのではないかと思います。
もちろん神様の御心に添っていることは間違いないのですが、受ける印象は、エリヤという人間の熱心と行動なのです。だとしたら、ものすごい信仰ですね!
燃えて、張り詰めて、大勝利した・・・その直後に、挫折、恐怖、孤独、神との断絶感。
しかし、神様はこのエリヤを人間の中でも最も尊い者としてモーセと共に「全地の主の御前にある二本のオリーブの木」の一本としておられます。
ここに私たちの信仰の学びがあります。私たちが信仰生活を送る時、いつもいつも細かい神様からの諭しや指示はありません。私たちは時にはエリヤのように、自分の信仰によって行動しなければなりません。これでいいのかな? 御心に沿っているのかな? 50%の確信と50%の迷いと。それが信仰生活というものです。
私たちは「かすかな細い声」を聞く耳が必要です。しかし、エリヤはその前に信仰の冒険をしています。極限まで登りつめた必死の戦いがありました。この戦いなしで、ただ「細き御声」だけを待つなら、それは弱々しい、無気力な信仰になってしまうでしょう。
このバランスが難しい。激しく燃えて輝く時、静かに御声を聞く時。この二つが共に必要です。エリヤの謎は、私たち自身の信仰の姿でもあるのです。