そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。創世記3:6
最近、面白い話を聞きました。“エバがサタンの誘惑に会ったときアダムはどこに居たのか”ということです。ここにはっきりと「いっしょにいた」と書かれています。そうすると、アダムはエバが誘惑されるのを間近で見ていたはずです。それなのに止めなかった!!! 私は長いこと漠然とエバは一人でサタンと対面していたように考えていたのでこれにはびっくりしました。一方で、新約聖書にはこれまたはっきりと書かれています。
また、アダムは惑わされなかったが女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。1テモテ2:14
神様は夫を妻の保護者として定められていました。ですからアダムはエバを止めるべきだったはずです。なぜだろう? エバがどうなるか見ていた? そこまでは考えたくないですが。
私が唯一、導き出した答えは、この夫婦は妻の方が強かったのではないかということです・・・!!(Joke)アダムにして見れば、何しろ、長い孤独の末に「人が一人で居るのは良くない」と与えられた妻です。アダムはエバに首っ丈(くびったけ)だったのでしょう。アダムはこう言っています。
すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」2:23
ああ、創造の昔から夫と妻の上下関係は決まっていたのです・・・?!(Joke)
もう少し柔らかにいえばエバはかなり“自立した”女性だったのではないでしょうか。女性は元々もっと自立した、自意識のはっきりした存在だったのでしょう。男の助けがなければ生きられないというのはその後に作られた話でしょう。
いずれにしても、神の御命令に違反したのはアダムも同じです。
ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。ローマ5:14
イエス様はこのアダムの罪を打ち消すために最後のアダムとなりました。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。Tコリント15:22
聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。15:45(口語訳)
アダムが創造されたとき、命の息が吹き込まれました。
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。2:7
この「息」という言葉は原語のヘブル語では「ルアッハ」と言い、霊という言葉と同じです。神の霊が吹き込まれた時人は生きたもの(ネフシュ)となりました。しかし、この霊はアダムたちがエデンを追われたとき取り去られたと思われます。それが再び与えられたのは、あのペンテコストの時ではないかと私は思います。
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。使徒行伝2:1〜 4
ギリシャ語では「霊」と言う言葉は「プニューマ」と言います。この言葉は自然なものでなく、神に起源を持つものとされています。また、息を表す言葉は「プシュケー」ですが、ここにも多くの意味があり魂とか命とも訳せます。
最初のアダムの妻がエバであったように、最後のアダムの妻は「教会」です。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。黙示録21:2
この花嫁は「整えられて」います。私たちもその中の一つの細胞として参加するのです。そしていつも主と「いっしょ」にいます。最後のアダムとエバは神の御心に叶い、麗しい
一致の中に永遠の住まいに住むでしょう。
最後のアダムはインマヌエル、私たちと“いつもいっしょにいます”。 永遠に。