ホームページ・メッセージ130602        小 石  泉

悲しみの人

 何が悲しいと言って、幼子が餓死したというニュースほど悲しいものはありません。昨日も夫のDVを逃れていた若いお母さんと3歳の幼児が餓死しているのが見つかったと言うニュースがありました。この飽食の国、日本でこのようなことが起こるのが一層悲しいです。日本にはこういう場合、その日から住む家とある程度の生活が出来る支援の制度があります。一度、市役所か区役所に行けば良かったのに。また前には若い母親が幼子二人を残し、部屋のドアにテープを張って餓死させた話もありました。
 こういう話がある時、私は、神様はどうしてこんなことを許されるのだろうと思います。しかし、神を忘れ、自分の道を歩いてきた人間の悲劇の一節なのでしょうか。現在、神様は人間社会に介入することを極力控えておられるように思います。
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。イザヤ53:1〜3
 イザヤはメシアを預言してこのように書きました。これがあまりにもイエス様のことをあからさまに予言していたので、近代の不信仰な聖書学者たちは、ここは1世紀以降に書かれたに違いないなどと言いました。しかし、死海文書の発見によってキリスト以前の文書と証明されたのです。(預言は神の言葉、予言は未来のこと)
 ここでイザヤはメシアを「悲しみの人」と呼んでいます。これは何とイスラエル人の期待したメシアの姿とは違うものだったでしょうか。彼らの期待は次のようなメシアでした。
門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。詩篇24:7〜10
 しかし、イザヤは力ある王としてのメシアではなく、その前に来る、人の罪をあがなう救い主としてのメシア、御自分の命を人類に与えるための僕としてのメシアだったのです。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。ヨハネ20:28
 このメシアがこられてこの世を見られた時、悲しみの人となりました。この世は罪と暴虐と悲惨に満ちていたからです。それは今も全く変わりません。もしご自身の力を発揮すれば一気に解決することが出来るのに、じっとこらえて、神様の時を待ち、むしろ人間の罪を贖うためにご自身の命を差し出されたのです。
 人間の救いに関するご計画は完了しましたが、この世に対する神のご計画はまだ完了していません。キリスト教は完了した宗教ではなく、まだ続きがあるのです。なんとも気の長い話ですが、2000年経っても、まだ終わりではないのです。ユダヤ人にしてみれば6000年近く続いているのです。神の正しい裁きの時は来ていません。
 今、あの幼子は神の御許で豊かな食事を与えられていることでしょう。神学者が何と言おうと私はそう信じます。出来ればお母さんも・・・、
世界的に見れば毎日どれほど多くの幼子が餓死していることでしょうか。この世は悲しみの世界です。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。イザヤ60:2
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。マタイ5:14
私たちがこの悲しみの世界の光として輝くように期待されているのです。私たちは悲しみの人の代理人なのです。重大な任務です。世界中で実に多くのクリスチャン個人や団体がこのような働きをしています。
 私たちも何か出来ないだろうか。