しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒1:8
最近インドネシアで開かれたEmpowerd21と言う聖会のテーマは「エルサレムに帰ろう」だったそうです。キリストの福音(教え)はエルサレムから始まって、その主な流れはヨーロッパに向かい、アメリカに至り、今は東南アジアに到達しています。実はこの歴史とは別に小さな流れは使徒の時代のすぐ後にインド(トマスによる)や中国にも来ていましたが潮流と言うならばやはりヨーロッパ経由の方が太い強い流れでした。塩野七生さんの「ローマ人の物語」によると、使徒の時代のヨーロッパは非常に野蛮で土民というべき人々が偶像や悪霊礼拝をし、血で血を洗う毎日を送っていました。その点アジアにはそういう意味で言うなら少しはましな道徳性のある教理を持った宗教がありましたから福音はまずヨーロッパに向かったのではないかと私は考えています。使徒行伝の著者ルカは「アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた」と書いています。そしてマケドニア人の幻によってヨーロッパに向かいます。これが、福音が西周りに地球を回り始めた最初のきっかけでした。それほど緊急性を要していたとも考えられます。
それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。 それでムシヤを通って、トロアスに下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。使徒16:6〜9
「エルサレムに」というスローガンは中国の公認、非公認の教会の熱心なテーマでもあります。瀋陽にある500人を収容する神学校でも毎日24時間熱い祈りが捧げられています。その素朴な熱意に圧倒された覚えがあります。
それにしてもアジアでのキリスト教の発展は驚くばかりです。インドネシアには100万人を越す会員を擁する教会があります。シンガポールでもタイでも何十万と言う会員数は珍しくありません。教会の人数が多いことがよいこととは限りませんが、福音の発展と言う意味では喜ぶべきことでしょう。
こういう話に接すると私達は、一度は警戒心を抱きます。それは本当に純粋に福音なのだろうか。過激な一過性の宗教運動なのではないか。
確かに私達は健全な感覚を失ってはなりませんが、過激なものだからといって頭から捨ててしまうのは、それも危険です。
教会が怠惰に陥り、動かなくなった時、神様は過激な運動を起こして目覚めさす場合があります。独りよがりに陥り安い過ちなのです。そんな時、聞きなれない声が聞こえてきます。それは石が叫んでいるのかもしれません。
イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」ルカ19:40
宗教改革者たちは“健全な人々”から疎んじられ迫害されました。現在はどれが健全でどれが間違って居るのか、非常に見分けにくい時代になったなあと感じます。自分の宗教的感性に頼る時も必要ですが、時には破れ口を覗いてみることも必要です。
私もサタンの働きを学んだものとして(これに関しては日本の第一人者だと思っています)最近の色々な華やかな宣教活動には非常に警戒心を抱くのですが、だからといって「赤ちゃんをお湯と一緒に流してしまわないように」気をつけています。
日本の宗教には「さにわ」と呼ばれる制度がありました。どれが人間の幸福のために有益な神か、そうでないかを査定する人または組織のことです。今、キリスト教会にも「さにわ」が必要だと痛感します。
私たちは石が叫ぶ前に叫びましょう。どれが正しいか迷う前に自分が正しいと思う福音を声高に叫ぶべきです。攻撃は最良の防御ですから。私たちは聖霊のお働きの全てを知っているわけではないのです。