ホームページ・メッセージ130519        小 石  泉

私はなぜ牧師になったか

わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。イザヤ42:1(口語訳)
 子供のころ誰でも、将来どんな仕事、職業に就きたいか考えるものです。私も夢がありました。パイロット、弁護士、画家。パイロットは実際に高校を卒業して自衛隊のパイロットの試験を受けて合格しましたが最後に眼が悪くて落ちました。(そんなら始めから目を調べろよ・・・)けれども私は一つだけ他の子供と違うところがありました。それは絶対になりたくない職業があったのです。それは牧師でした。
 私はクリスチャンホームに育ちましたから、周りにも幾人かの牧師さんたちが居ました。当時の日本はみんな貧しかったのですが、牧師の家庭は特に貧しく見えました。私の父も半分献身者のような気持ちの人だったので同じように貧しい生活でした。ですから私は幼いころからせめてもう少しましな生活がしたいと思っていましたから、絶対に牧師にはなりたくないと思っていました。もう一つなりたくない理由は、自分は決定的に牧師には向いていないと思っていたからです。私はどちらかと言うと独立独行型で、人と和してなにかをやるのはとても苦痛でした。それは今でも変わりません。私は根本的に牧師の素質はないのです。
 高校を卒業して一旦地元の会社に就職しました。それは小さいながら、今では有名な会社で日本のIT関係のパイオニア的な会社でした。しかし、私は文科系の人間で、理科系工科系は全く不向きでしたので間もなく辞めて上京しました。(ちなみに弟はその会社に就職し部長になり、独立しました。)そして、今で言うフリーターをしながら、牧師をしていた兄の教会に集い、アッセンブリー教団のユースキャンプに参加しました。それは暑い夏の日で、浜名湖のキャンプ場を整備するワークキャンプでした。昼間は土木工事や掘っ立て小屋を立てながら夜はメッセージを聞くと言うキャンプでした。
 最後の夜のことでした。それは恒例の献身者を募る集会でしたから、私は自分には関係ないと一番後ろに座っていました。献身者が招かれ、幾人かが前に出て祈りが始まりました。私は「ご苦労様なことで」と思いながら一応祈る姿勢をとっていました。集会が進み、みんなが熱心に祈っていたときでした。お付き合いでしぶしぶ祈っているような私の背後から、突然、
「お前も立ちなさい」 と言う声が聞こえたような気がしました。それは言葉ではなく思いに聞こえたのですが、あんまりはっきりしていたので思わず私は振り返りました。しかし、そこは最後の席で後ろはトタン板の壁があるだけでした。「なんだ、今のは?」 不思議に思いながら、半面、自分はすぐにこういう雰囲気に飲まれてあらぬ妄想を抱くのだと自戒していたのです、ところが急に体が震えだして止まらなくなりました。暑い夜で汗をかきながら、体はガタガタガタガタ震え続けていました。何の、絶対に出て行くものか・・・。しかし、その後、あの日から、あの声が、頭に響かない日は一日もありませんでした。
 帰京してからJALの就職試験を受け、入社しました。入社式が終わり、オリエンテーションが済んで各課に配属になりました。私は経理部の輸送審査課という地味な部署に配属され、机をもらって仕事に就きました。二、三日が過ぎたころです。隣の机の同じぐらいの年齢の女性が声をかけてきました。「小石さん、クリスチャンですか?」「ええ、そうですがどうして判るんですか?」「友達にクリスチャンが居て、雰囲気が似ているんです」「へえ、そうですか」。
その後(あと)の彼女の言葉に私は椅子から飛び上がるほどびっくりしました。クリスチャンでもなく、ほんの二、三日しか知らない彼女がこう言ったのです。 「何で、神学校に行かないんですか?」 まるでタルシシ行きの船に乗っているヨナです・・・。
 それでも私には献身の道は望ましい道ではありませんでした。それにJALは望ましい職場でした。日本は高度成長期を向かえ人々は浮き浮きと沸き立っていました。私も日々の生活を楽しもうとしました。北海道に、九州に、ハワイに(今から45年前のワイキキビーチには日本人はほとんど一人も居なかったですよ)。
 ところが・・・私の頭から、あの声は消えませんでした。毎日、毎時、毎分、毎秒、あの声が聞こえて来るのです。「お前も立ちなさい。」その声は次第に大きくなり、4年半の後に私は打ち伏せられました。矢つき刀折れ、あらゆる誇りも自我も剥ぎ取られて、ぼろぼろの「きゅうり畑のかかしのように」エレミヤ10:5なっていました。
 ついに私は献身を決意しました。しかし、誰一人賛成する人はありませんでした。反対は一杯あったのに。ああ、やはり自分は駄目だ。そんなときでした、冒頭の御言葉が私に迫ってきました。これはメシヤへの予言なのに、私に与えられるのか!!!
 「誰も賛成しなくても良い、私が支持している。私が選んで喜んでいる。」「本当ですか?こんな私がお入用なのですか?」涙があふれてきました。教会員のさげすみの目。模範的なクリスチャンではなかったのだから無理もないですが。
 そんな私が神学校に入る決心をしたのは、実は5月です。入学試験も入学式も終わって授業が始まっていました。ひとりだけ賛成してくれた人物によってそんな異例なことがおこりました、それはアッセンブリー教団の創立者で長く神学校の校長先生をしていた弓山喜代馬先生の一言でした。入りたいと言う私の言葉を聴いて「ああ。入りなさい」
 しかし、入った神学校は私の期待とは大きく違っていました。今は違うと思いますが、当時の授業は、私にはあまりにも幼稚で、レベルの低いものでした。何しろ救われて3ヶ月で入ってくる人も居たのです。聖書も通読していない・・・。後に私の家内となる宮川美智子姉もそんな一人でした。私はすっかり失望し怠惰な学生となりました。3年間は忍耐を学ぶ日々でした。もっともある人に言わせると忍耐したのは学校側だったとか。その後、卒業し開拓伝道を始めたのはチャーチオブゴッド教団60年誌の通りです。
 一つ付け加えたいのは、私の独自の研究分野「闇の世の主権者」の現実の働きについてです。20年ほど前、「ものみの塔・エホバの証人」の聖書解釈に違和感を覚えて、異端の研究の第一人者であるウイリアム・ウッド先生に詳しいことを教えてくださいと尋ねたところ、アメリカにフリッツ・スプリングマイヤーと言う優れた器が居るからと紹介してくれました。そこからフリッツとの長い交際が始まり、彼を通して元サタン礼拝の女性司祭だったシスコ・ホイーラーにめぐり合いました。彼らを通して驚くべき世界の裏側を知ることとなりました。そして、およそキリスト教会では褒め称えられない本を出版。批判と疑惑の大合唱にさらされることになりましたが、そんな私を静かに支えてくださったのは故八束和心先生でした。
 先週、食あたりで入院し病院で小預言書を読みました。何とすさまじい神様の怒りの連続。およそ優しく上品で清らかな神のお姿とは程遠い言葉の数々。何でこんな文書が必要なのだろうと改めて思いました。丁度、その時、出版を予定している7冊目の本の表紙がメールで送られてきました。一目見て「あー、またか」。またも、こんなすさまじい本を出版してしまうのか・・・
 もっと牧師らしい上品な本を出したいのに・・・。そう考えていると違う声が聞こえてきました。「もう良いだろう、私は一度死んだんだ。今だって透析を2回やめれば確実に死に近づく。今さら何の格好を付けるのか」。そして小預言書の著者たちのことが頭に浮かびました。彼らも同じように感じたのだろうか。そうだ! 私は日本への小預言者になろう。これを私の最後の奉仕にしよう。何といわれようと、もう恐れない。
 癌は癒されたのに透析は直らない。この中途半端な生き方はいやだ。そう思い続けてきた私は悟りました。死に掛かった人間だからこそ出来る仕事がある。もう一度あの声に従っていこう。「お前も立ちなさい」。