人間は何馬力なのだろうかと考えました。調べてみると0.2〜0.3馬力ぐらいだそうです。
近頃、体が衰えて思うに任せません。(人によっては同じ年でもまだまだ元気な方もいますが) しかし、車に乗ると突然100馬力200馬力になるのです。その自由さ快適さは、とりわけ年齢を重ねると感謝になります。ほんのちょっとしたアクセルの踏み込みだけで100キロでも120キロでも簡単に出るのですから。(それ以上は出しませんよ、近頃は)
神様は、人が歩いて移動するように創造されました。人間が徒歩で移動できる距離は限られたものです。ほんの50年前までは日本でも移動の主役は徒歩だったのです。そのころと今の行動範囲は大幅に変化しました。今は飛行機なら時速1000キロ、新幹線でも300キロで移動できます。一日の行動範囲は数キロ四方から数百キロ数千キロ四方になったのです。これは人間に許された創造のご計画の中のことなのでしょう。創造とは創られたものが自分で考え、作り出すことが出来ることを意味します。
主は、ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた。詩篇18:10
主は風よりも光よりも早いのです。と言うより元々が遍在(どこにでも居られる)される方ですから移動する必要はないのです。その点、サタンは被造物ですから遍在できず移動しなければならないのです。彼も素早い移動手段を捜し求めたことでしょう。
主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。詩篇139:1〜10
どんなに人間が早く動き、力を得ても、神様の御手から逃れることは出来ません。神様から隠れることは出来ないのです。曙の翼とは朝昇ってくる太陽の光を意味します。ゆだね切った人の平安と感謝。しかし、人間はそれでもいつの間にか自分の道を歩いてしまいます。いつの間にか凸凹の道をつぶやきながらあえぎながら。この詩篇のように、いつになったらゆだね切り明け渡すことが出来るのでしょう。英語の賛美歌にはsurrenderと言う言葉がよく歌われます。降伏、降参、明け渡し、引き渡しを意味します。しかし、中々本当の“明け渡し”はできないものですね。0.2馬力の力で何とかしようとあせっても高が知れているのに。
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。詩篇18:2〜3
人生には行き詰まりも悲しみも涙もあります。しかし、自分の力を知っているものは無駄にあせらず主にゆだねます。
彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。詩篇84:6〜7
口語訳聖書はこの箇所を、その原文の通りに「バカの谷」と訳していました。そこは水のない乾ききった土地で旅人は苦労したのです。神にゆだねる者はそのような土地でも潤いと祝福で満たされると言うのです。信じましょう。しばらくは悲しみの谷を歩かなければならなくとも。きっと泉の湧くところとなります。例の天国を見てきたコルトン君によると天国ではみんな羽根をもっているそうです。良いですね自由に飛びかけることが出来たら。