わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。雅歌2:2:〜3
私の作品の中に「雅歌霊想」という小品があります。雅歌は聖書の中で男女の愛になぞらえてキリストと教会との愛を高らかに歌っています。そしてそれはキリストと教会の霊的な愛だけではなく、人間男女の愛の理想でもあると思います。若い人は、一度はここを読み、恋愛について学んで欲しいと思います。(「雅歌霊想」は26ページほどの小冊子ですがご希望の方に無料でお分けします。ただし自分でコピーしてください。)
最初の一行は愛する男性が愛する女性を見る最も率直な表現でしょう。数ある女性の中で、愛する人は「いばらの中のゆりの花のようだ」と言うのですが、判りますね。もう他のものは目に入らないで、その人だけが輝き渡るのです!!!
次の節は女性から男性を見たときの様子です。林の中のりんごの木。日本ではりんごはりんごの栽培農家にしかありませんが、当時のパレスチナでは雑木林の中に突然りんごの木があって赤い実をつけていたのでしょう。それは旅人にとってどんなにうれしい状況でしょうか。おもわず取ってかぶりつくでしょう。愛する女性にも愛する人の、そのような豊かであふれるばかりの寛容さがどんなに魅力的だったことでしょう。
私は、クリスチャンは魅力的でなければならないと思います。道行く人が思わず振り返るような・・・・? いいえ、私なんかそんな魅力はありません。そうでしょうね、あなたがそう信じているのですから。人間は自分が美しいと思えば美しくなれるのです。信仰とは思い込むことです。毎日、鏡に向かって「私は美しい」と言っていれば美しくなれます。メルヘンの話は一面の真実なのです・・・・。自分は魅力的だ、自分は美しい、自分はイケメンでかっこいい、と思っていればそうなるのです。うそだと思うならやってごらん。私などこの年で、もてることもてること・・・・・!!?? 良いでしょう、別にだれも傷つけていません。罪は犯していません。思い込んでいるだけです。
愛する方の声。ご覧、あの方が来られます。山々をとび越え、丘々の上をはねて。私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています。2:8〜9
そんな人は居ません。私はひとりぼっちで、さびしく、つらいのです・・・・・。
ある学生キャンプで、他の教団のある教会の中学生の女の子がこんな証をしていました。「私は学校に行っていません。でも私は自分が大好きです。」その子はとても魅力的で幾人もの女の子たちが彼女の周りに集まっていました。
次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」マルコ12:31
自分自身を愛していなければ隣人を愛することは出来ないのです。隣人を愛する前に自分を愛しなさい。自分に失望していたり、低く評価していたりするなら、あなたの周りの人もあなたに対してそうするでしょう。そして、あなたは隣人を愛せないでしょう。自分を喜び、自分を許し、自分を感謝し、自分を認め、自分の長所を探し出しなさい。女優さんや歌手の人々が美しくなっていくのはこの自己評価が出来るからです。
でも、私はあんなに美人ではないしハンサムでもない。そうですか。でも少なくともあなたには他の誰も持っていない魅力があるではありませんか。
あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。箴言31:30(口語訳)
クリスチャンはこの世で最も美しく魅力的なのです。そう信じているならばそうなります。人はその信じたとおりになるのです。