ホームページ・メッセージ130414        小 石  泉

人間なんだ

 「パパ、知ってる? イエス(さま)にはいとこがいたんだよ。そのいとこから洗礼を受けたんだって。とても良い人だよ。」天国を見てきたコルトン君の言葉です。バプテスマのヨハネが“良い人”だって? お父さんのバーポさんはびっくりしますが、私もびっくりしました。バプテスマのヨハネも人間だったんだ!」
 私たちはバプテスマのヨハネやエリヤなどの信仰の偉人が、人間だったということを忘れがちです。なにか私達と違う血の通うスーパーマンであるかのような。しかし、彼らも人間なのだと思わずに入られません。B.ヨハネでもエリヤでも若いときには美しい女性を見てときめいたに違いないのです・・・・・???
 聖書の中では十二使徒やダビデなど人間性を感じられる登場人物にも事欠きません。怒ったり泣いたり失敗したり後悔したり。しかし、エリヤやヨハネにはそういう人間性はあまり感じないのです。しかし、よく見ると、あります! B.ヨハネは獄中でイエス様について信仰を失いかけて弟子たちに質問に行かせています。
さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」マタイ11:2〜6
 B.ヨハネはキリストの先駆者として、主の道を備える人として生まれる前から選ばれた人です。その人がイエス様について信仰が動揺するなんて・・・・考えられません。
この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。マタイ3:3
 しかし、人間なのです。一向に主の主、王の王として権威権勢を現さないイエス様に失望し動揺したのです。そして一人の少女の踊りの代償として首を切られて死にました。しかし、今は天国で主イエスへの洗礼者として永遠に栄誉を受けているのです。
 エリヤの場合はもっとわかりやすいですね。時の王アハブを戒め、3年間雨をとどめ、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と信仰のタイトルマッチを戦い、勝利して彼らを皆殺しにしたエリヤ。その彼が王妃イゼベルの一言に恐れおののいて逃げ出すのです!
アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」T列王19:1〜4
 彼は木の下で泣いていたとあります。あの勇者はどこに行った? しかし、彼も人間なのですね。なんだかほっとしませんか。天国に行ったら優しくて真実なエリヤに会えるでしょう。エリヤも「とても良い人」なのでしょう。
 こうして、神に用いられる人々は私達と同じ弱さも涙もある人間なのだとわかります。
 楽しみですね。イエス様と会った後に旧約聖書の沢山の聖徒たちと話し合ったり、笑いさざめいたり。待ちどうしいですね。
 ところでアメリカではクリスチャンは子供にエリヤという名前は付けないそうです。八束エリヤ先生はとても不思議がられたそうです。それは、エリヤはイゼベルの脅しに負けた弱い人だからだそうです。なんか違うんだなあ・・・・。
 エリヤは「全地の主の傍らに立つ二本のオリーブの木」の一本とされている人なのに。