主が再臨されることはクリスチャンならみんな信じていることです。しかし、それが空中再臨、地上再臨と二度ある。その間に最初の再臨で携挙(連れて行く)されなかった者は患難に会う、という教えがプロテスタント全般に広く信じられています。ところがこの二度再臨説を宗教改革者たちは言っていません。この教理は実は19世紀から起こったことなのです。
1830年代にスコットランドのマーガレット・マクドナルドという名の少女が空中携挙の幻を見ました。そしてそれは1840年代に印刷され、たちまち世界中のクリスチャンの知るところとなり、たちまち真理として受け入れられました。この時、ジョン・ネルソン・ダービーという説教者がこの地を訪れていました。(フリーメーソン・ブリティッシ・コロンビア、ユーコン・グランドロッジのホームページ)このダービーはDispensational Truth(日本語で時代真理と訳す、創造から終末までを7つの時代に分けて説明する)という教えを広めた人で、もともとはイギリスの弁護士で、アイルランド教会の按手礼(聖職者になる儀式)を受け、ウィックロー教会の牧師となったが(一八二六年)、国教会制度、教職制に疑問を持ち、国家と宗教の分離を主張して、国教会の牧師を辞任しプレマス・ブレズレンという団体を作りました。
そしてこのマーガレット・マクドナルドはWitch(魔女)だったと私の友人の研究家フリッツ・スプリングマイヤーは言っています。また、もしあなたがマーガレット・マクドナルドの名でインターネットを検索するならいくつかの情報が得られ、その中には彼女の幻の元が悪霊Demonicなものだったという言葉に出会うでしょう。
また、この思想を元に近年アメリカで『レフト・ビハインド』という本が発売され、空前のベストセラーとなりました。これは“空中携挙に取り残された”という意味です。ところがこの作者は統一教会の文鮮明から資金援助を受けていたことが分かっています。
聖書から二重の再臨をいう説を取り出すのは不可能ではありません。確かにそれらしい御言葉はあります。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。Tテサロニケ4:15〜18
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 Iコリント15:51〜52
などの御言葉からキリスト再臨以前にクリスチャンは携挙され、一瞬にして栄光の体に変えられると受け取れます。一方でキリストの再臨は地上への圧倒的な登場です。
主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。 ゼカリヤ14:3〜4
だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。マタイ24:29〜30
見よ、彼が雲に乗って来られる。 すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。 黙示録1:7
などの御言葉から主が地上に実際の体を持ってやって来ることが予想されます。
しかし、予言とか預言というものはそれが起こってしまわないと詳細はわからないものです。正確に判っているのは「主は来られる」ということだけです。何とかできるだけ詳しい再臨を把握しようと努力することは意味のあることとは思えません。私達が主に求められていることは次のことです。
全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。マルコ16:15
つまり、一番大切なことは最初の来臨なのです。その他のことは興味の対象であっても伝えなければならない必須事項ではありません。
そういうと「あなたは終末の預言を語り、本まで出しているではないか」と言われそうですが、私は再臨について詳細に説明などしていません。判らないことは判らないままにしてあります。空中携挙についてあまりに深入りすると本当の終末に備える心備えがないがしろになってしまいそうです。それがサタンの目論見なのかもしれません。聖書を学ぶ時、真理の枝葉に深入りしすぎないようすることは健全な信仰を持ち続けるために必要な姿勢です。